寵教師

あ、いたい



「アミナちゃん、重たいのね」
「ちょっと、今月は……」
「腰、伸ばしてあげるから、ほらベッド、横になって。痛いのは、筋肉が一生懸命早く終わらせようとしてくれてるの。アミナちゃんの筋肉はいい子達ね」
「カオル先生は、あんまり表に出ませんよね」
「わたしはね、二十歳くらいまではとても重かった。でも、ストレッチと栄養バランスを整えたら、だんだん気にならなくなっていったわ」
「運動不足で甘いものを食べてしまうのがいけないんだぁ……」
 柏崎アミナは重たい身体を引きずってベッドにうつ伏せに倒れ込んだ。「よいしょ」とカオルがアミナの尻にまたがる。背中を指圧マッサージしていく。
「このあたりだと思うんだけど」
「んー、もうちょっと背骨寄りで右側は上……あ゛ー……ぎもぢいー」
「アミナちゃんって可愛いのにあんまり可愛いを作っていないのがすごいわよね」
 アミナはカオルの親指がツボを押すのに合わせて、声帯振動を伴って呼吸をする。
「んーでもそんな凝ってないわねえ……常備薬は?」
「昨日、一日目の癖に過呼吸起こしたのでその時にブルフェン200入れて、すぐ切れたのでロキソニンも入れました……使い切ったので……わたしのライフセーバーはもうゼロです……」
「捻転かもしれないから婦人科いきなさい、日曜が空いてるなら同伴するわよ」
「日曜は日比谷先輩がゴハン奢ってくれるんですよお……ピッツァとジェラート……」
「アミナちゃんまだ日比谷くんのこと財布にしてるのお!」
 責めるわけでなしに、マッサージを続けながらカオルは呆れ返って言った。
「だって日比谷先輩、わたしにお金使ってるとき嬉しそうなんですもん……わたしベーシストやっててよかったな……そうだ、この前、日比谷先輩とギター見に行ったときに、あ゛……ぃ……」
「ほらほら、安静にして。静かに話しましょ。なんなら、ロキソニン保健室にあったと思ったけれど」
「一緒に居てください……」
 アミナの細くくぐもった声が顔の下の枕から聞こえ、カオルは仕方ないというふうに笑った。
「わかったわ、担架で運ぶわよ。アミナちゃんはむしろ男の子呼んだほうが楽でしょ、女子人気ナンバーワンのカリスマ一年ちゃんは」
「確かに人気はあるみたいですけれど……今のわたし、そんなにひどく見えますか」
「鈍痛じゃなくてびりっとくる激痛っぽいのよねえ、息も詰めるし。今日はロキソニンでごまかして明日病院行きましょ。講義は土曜に補講ね」
「うう……せっかくの土曜なのにごめんなさい……」
「明日休暇くれてありがとね、アミナちゃん」
「先生は、優しいです」
「エンプレスとお呼び。……じゃ、ちょっと待ってて。2分で戻るわ」
 カオルは部屋を出た。アミナはベッドにうつ伏せになって、呼吸を整えていた。
 基本的に、というか、普通に暮らしていると、少なからずこういう状況になるらしい。即ち、同性であっても、恋愛のようなもの、あるいは自他ともに認める恋愛に陥る。アミナと、隣室の赤羽キヨラは、この大学に入る時点で決まっていたようなものだ。アミナはキヨラと違いストレートでこの大学を選んだ。カオルとは面識があった。アミナが厄介事に巻き込まれやすい場所に敢えて居場所を取る癖は、昔からだった。初潮が来てすぐ、アミナは独特の色気を持った。下品なそれではなかったため奇跡的に性犯罪には巻き込まれなかったが、教師はこっそりと盗み見ては目が合うたび戸惑ったし、中学時代から食事は三食すべて外で先輩、後輩、同級生問わず奢らせていた。あの頃は、アミナに性欲を覚えるのはなぜか女子ばかりだった。今でも女子の受けがよく、大学で男性である日比谷ユウヤや赤羽キヨラに気に入られたのは珍しい部類に入った。そして今は、高校時代にアミナのファーストキスを奪った、あの頃は教育実習生だったカオルの学生兼恋人をやっている。
「アミナちゃん!?」
 いきなりドアが開き、日比谷が入ってくる。後ろに黒松もいる。
「柏崎。なるべく腹から力抜いてろ。ベッド横に転がれるか? そこに担架用意するからな」
「アミナちゃん大丈夫!?」
「日比谷うるせえ、おまえ、女の子の身になってみろ、腹いてえときに喋らされるの、きちーって思うだろが」
「そ、そうスね、部長、はは、そうだ、スイマセン」
 日比谷は完全に動揺しておかしくなっていた。日比谷に続いて部屋に入ってきて、男前なことを言ってくれたのは黒松だった。
「アミナちゃん、わたしが狙ってたのは赤羽くんなんだけれど、居なかったの。この面子でいくわよ。日比谷くん、担架もうちょっと君にとって右」
「こ、この辺スか」
「そっち左。ピック持つほうの手が右手よ」
 日比谷は2秒エアギターをして、ようやっと担架の位置をきちんと調節した。
「日比谷くん、担架運ぶのはきちんとやってね、具合悪い女の子ひとり助けられないようじゃ財布の資格ないことわかってるわね」
 カオルが真面目で据わった声で言った。日比谷は「おっしゃあ」とセルフびんたをして、担架を持った。
「日比谷、持ち上げるぞ」
「ういっす」
「1、2、3」
 アミナはふわりと身体が持ち上げられ、脳が困り果てるのを感じた。やはり病気なのかもしれない。血が足りなさ過ぎる。
 日比谷も黒松もきちんとやった。なるべく揺らさず、けれどのろのろ運転にならず、アミナが暇つぶしに数えた時間、7分で保健室に着いた。
「カナタちゃん、ロキソニンある? 明日病院連れてくんだけれどさ、今日はもう病院閉まってるから、今日の夜を乗り越えられるやつ、わたしの可愛い可哀想な教え子に恵んで頂戴よ」
 担架を中に入れるためドアを開けて、3人が入り終えて静かに閉めたカオルが保険医カナタに言う。
「じゃあ簡単にチェックね。カオル、手足」
「冷たい」
「意識」
「あり」
「嘔吐」
「なし」
 カオルとカナタが問診票を埋めている間、担架を下ろした日比谷はずっとアミナの手を握っていた。
「日比谷先輩」
「なぁに、アミナちゃん」
「手じゃなくて、おなか、触ってください。先輩の手、あったかいから、あっためれば治りそう……」
「うんうん、お大事に」
 日比谷はアミナのへその少し下に両手をあてて、あたためてくれた。
「はぁい、じゃあカオルの言うとおり、ロキソニンでいいでしょう。男子諸君、クッキーか何か持ってない?」
「俺ウィダー持ってます、プロテインのですけれど」
「部長男前ぇ」
 アミナをあたためながら、日比谷が黒松に感嘆する。
「じゃあアミナちゃん、ウィダーもらって、ゆっくりこのお薬を飲んでみてね。20分くらいで効くから、もうちょっとだからね」
「はい……」
 アミナは日比谷にウィダーの封を切ってもらい、ロキソニンを1錠流し込んだ。
「よし、アミナちゃん、あとは時間が過ぎるまで待つだけ。男子諸君、帰っていいわよ。先生が108円あげるから二人でガリガリ君でも買って食べて」
「しけてんなあ」
「要らないならあげないのぉ」
「素晴らしいなあ」
 カオル先生と日比谷先輩の会話はいつも楽しそう、わたしも混ざりたいなあ。アミナはそう思って時計を見た。あと19分以内でこの痛みは消え去る。
「アミナちゃん、お大事にね。病気じゃないといいね」
「ありがとうございました、日比谷先輩、黒松先輩」
「柏崎、明日の部会は休め。言っておかないと病院へ行ったその足で部会に来られそうで困る」
「あるある」
 黒松の言葉にカオルが笑う。
「じゃあまたね、アミナちゃん」
「しっかりな、柏崎」
 殿方のいなくなった保健室は一瞬意識が薄らぐほどの静寂に囚われた。
 しかしそれは一瞬でしかなかった。
「カナタ先生! 急患! 急患!」
 日比谷が廊下で叫んでいる。駆け寄る足音がして、ドアを開けた黒松が「止血の用意をしていてくれ」と真剣な口調で言う。
「なぁに、黒松くん」
「赤羽がひどい出血をしている」
 黒松があがった息のまま答える。「ほら、おんぶ!」と廊下の音が聴こえてくる。
「平気ですって……」
「赤羽はまだ習ってないかもしんねえけど、教えの基本! 怪我したら安静に!」
「教えっていうか常識……う」
「ほら痛い! 乗っかって! 早く! あーもう、なら多少の恥は覚悟することだね!」
「うわあっ」
 のしのしと重たくなった歩く音が聴こえ、黒松が保健室のドアを開ける。
「赤羽くん!?」
 カオルでさえも大声を出したのでアミナは気になってしまった。まだ7分しか経っていなかったが、痛みを忘れて興味に溺れている。
 ぽた、と、リノリウムに鮮やかな赤色が滴った。アミナのものではなく、日比谷に横抱きにされた赤羽のものだった。 赤羽の左右の膝から足首にかけて、ベージュのパンツが赤く染まっているに飽き足らず、右足の靴が脱げて裸足のかかとからは厚地のパンツでさえ吸いきれなかった鮮紅が滴っている。紺の半袖のシャツからのぞく右腕は規則正しく細い縦じま模様の傷口を晒していた。こちらは出血は少ないが、内出血が酷い色になっている。二次災害として、アミナは自分の状況を思い出してしまい、再び痛みに悶えることになった。あと6分で本当にロキソニンは効くのだろうか。
「あらあら、赤羽くん、意識しっかり持ってね。男子諸君、わたしの声が届く程度に適宜呼びかけて」
「了解!」
「わかった」
「カナタちゃん、救急車要請して。止血はわたしたちがやるわ」
「助かる」
 カオルがハサミとガーゼを持ってくる。
「日比谷くん、黒松くん、まず手袋をして」
「はい」
「はい」
 ふたりとも、緊張を通り越して冷静になっている。
「処置の仕方を教えます。わたしがやるから指示に従いながら覚えてしまいなさい」
 カオルの指示で、日比谷は長椅子の上に膝から足先までが来るように赤羽を床に寝かせた。「ズボンはアキちゃんに買ってもらいなさい」と言って血でべとべとのボトムを足首部分からハサミを差し込んで裂いた。傷口が露わになる。レジメンタルのような細く規則正しい縞模様の傷口だった。範囲が広い上、ひどく裂けている。それを見たカオルはボトムの脚の付け根をハサミで切り開いた。
「男子諸君」
「うす」
「ッス!」
「脚の付け根のいちばん太い血管が内股にあるから、切ったところから手を入れて探して、圧迫して。止血だから遠慮要らないわ、思い切り押しなさい。赤羽くん、聞こえてる?」
「あ、はい……」
「赤羽くん?」
「……」
「赤羽! おい!」
 日比谷が血管を探しながら泣きそうな声を出した。
「キヨラ」
 黒松が赤羽の耳元で、低く掠れた怒っているような声で呼びかけた。赤羽は大きく息を吸い込んで目を思い切り開いた。日比谷が「うお、すげ」と小さな声で呟く。
「キヨラ、指示がまだだったな」
「先生……?」
 赤羽の声は怯えているように細い。
「俺だよ、わかるか」
 赤羽は緩慢な動きで黒松の顔を見た。
「黒松部長……タカユキ部長」
「そうだ。俺がわかるな」
「はい」
「なんでこうなったか覚えてるか」
「はい」
「言ってみろ」
「いろいろ、ありました、どこから、言いましょう」
「じゃあ質問に答えろ」
「はい」
「足首を動かせるか、そのときに痛みはあるか」
「動かせます、痛いのは、ない……です」
「なら痛い場所はあるか」
「ありません」
 黒松が小さく「駄目だな」と言う。
 アミナははっと気づく。とっくのとうに25分以上休んでいた。急いで担架から起き上がり、眩暈も痛みもなくなっていることを確認した。リノリウムをストッキングで歩いてカオルのところへ行き、言う。わたしも手伝います。
「アミナちゃん、じゃあ腕をお願い。手袋して、消毒した多めのガーゼで軽く拭ったら、肘の裏の血管を押さえて。採血するところね。もう片手がもし使えたら、その時はガーゼの上から握力の限りで握って。救急がそろそろ来るから焦らないで着実な止血をして。内出血は色は酷いけれど大丈夫よ、まず血が足りないから止血」
 アミナは聞きながら既に動いていた。血管を見つけるのに手間取ったが、右手で傷口を押さえていたため出血は少なくなってきていた。
「カオル先生」
「なに」
「意識はあるんですけれど、解離しちまってるかもしれません」
「変に力が入るよりいいわ、呼びかけを続けて。カナタ、救急は通じた?」
「どこも受け入れ拒否。いま回してもらってる」
「こういうとき嫌われ大学は厳しいわよね」
 カオルが呟く。
「利府アキマサ先生に連絡は」
「今、向こうは豪雨で停電していて、電波も悪すぎて携帯もネットもつながらない」
「ついてないわね」
 大人たちが小さな声でやりとりをする。
 その間に、黒松と赤羽の会話は少しずつ進んでいた。
「キヨラ、寮は独りで出たのか」
「はい」
「何をしに出たんだ」
「エレクトーンを弾こうと思って」
 日比谷が小さな声で毒づく。あーあれか、いつか事故るってわかってたじゃんかよ。
「独りで寮を出て、独りでエレクトーンの貸し出しの手続きをしたんだな」
「はい」
「アキマサ先生は」
「先生は今日は学会が東京であるっていうので、いないんです」
「そうか。どんな気分だった」
「ふわふわして、寂しいです」
 縛り付けていないと飛んで行って割れてしまうヘリウムガス風船のよう。アミナは赤羽にそういう感想を持った。
「エレクトーンの話に戻ろうか」
「はい」
「独りで運べる重さじゃないだろう」
「……いいえ。運べました」
「そうか。どこかで転んだのか?」
「はい、5階のエスカレーターで」
「どれくらい転んだんだ」
「上から、ずっと」
「エレクトーンは」
「動作確認をして、故障がなかったので返却しました」
 日比谷がうめいている。うへぁ、よくやるねえ。応えるようにアミナが日比谷に話しかける。4階から5階までその足で上がったんですよね。だろうね。信じられません。
 カナタが痺れを切らし、電話をスピーカーモードにして、奥のロッカールームに入る。
「黒松くん、赤羽くんの血液型は」
「AのRh+」
「いっぱいあるからいっぱい入れちゃいましょ」
 輸血をすると言うのだ。養護教諭にはその資格はない。カナタがカラカラと輸血の準備を整えていく。カオルは苦い面持ちでそれを見て処置を続けている。
「黒松くん」
「はい」
「なるべく長く赤羽くんと話して」
「わかりました。キヨラ、聞こえたか」
「ん……なんか、耳、とおい……」
 カナタが手早く、アミナが押さえていないほうの肘を取り、消毒をして針を刺した。血管が細い。痛がるなら痛がれ、と言わんばかりに血管を探し、なんとか刺さった感触があった。
「キヨラ。痛いところはあるか」
「え? あ……いいえ」
 黒松が少し声のトーンをあげた。
「エレクトーンで何を弾こうと思ったんだ」
「なんでもなかったんです」
「ただエレクトーンと一緒に居たかった?」
「はい」
「寂しかったんだな」
「はい、とても」
「キヨラ。今日は俺のところに来いよ」
「先輩の?」
「久々に飯でも行こうぜ」
「先輩、おなかすいてるなら、食べてきていいですよ、俺は、大丈夫です、先生が、せんせ、あ、え……? あ、っく、が」
「キヨラ? ……おい」
「パニックの過呼吸です、手袋借りますね」
 アミナが声を出して、脈を押さえる左手はそのままに、右手を離し、ビニール手袋を取って赤羽の口に宛がった。
「赤羽さん、大丈夫ですよ、ゆっくり息しましょう、赤羽さん、聞こえますか、聞こえたら息を吐いてください、赤羽さん」
 アミナはゆっくりと大きな声で赤羽に語りかけた。
 赤羽は7往復ほど身体を強張らせるおかしな呼吸をしていたが、アミナが繰り返し呼び掛けると大人しくなった。
「赤羽キヨラ、目え開けろよ」
 日比谷が呼ぶと、赤羽は静かに目を開けた。呼吸も脈も落ち着いている、と、黒松がカオルとカナタに言う。
 日比谷も冷静に状況を見ていた。赤羽キヨラは随分長い間、夢を見ている。最初に意識が飛びそうになったときは、利府アキマサを連想させて起こした。それなのに目の前には利府アキマサはおらず、これまで一緒に居ることを教え込まされすぎてきた、そのいびつなほどの愛情は、矛盾に耐え切れなくなりひび割れた。過呼吸が起きた先程のケースでは、その矛盾から抜け出すため、アミナは敢えて『赤羽さん』と呼び、自分を自覚させた。だが、これだけで安定するはずがない。もともとの、調教に蝕された寂しさは未だ深くにある。それを、どうするかだ。
「俺が誰だかはわかる?」
「はい、日比谷ユウヤ先輩」
 カナタが輸血の終わった空袋を取り換え、次の血液を流しこむ。
「俺さ」
「はい」
「あのさ」
「はい……?」
「あなたのことが好きでした!」
 空気の流れが一瞬止まったようだった。けれど、日比谷が考えつく最良の手はこれだった。意識を寂しさから逸らさせ、誰かが何とかする。俺が時間を稼ぐ。俺は頭はよくないから、ここに集った優等生たちになんとかしてもらうだけの時間を作るのだ。それだって立派な仕事だ。日比谷がそう考えている間に、黒松が察したようだった。目が何かを考え始める。
「……俺も、日比谷先輩のこと、好きですよ」
「マジで! じゃあキスしよ!」
「えー……」
「えーって何! キスしよ! セックスしよ! 利府アキマサ先生が帰ってくるまででいいから、俺と付き合って! あと1時間もしないで今日が終わるよ、赤羽。明日の6時の新幹線で帰ってくるんだろ! それまで俺と付き合ってよ! 7時間だけ付き合ってよ! ね!」
 カオルが「替わるわ」と黒松の止血を引き継いだ。
「…………」
 赤羽は視線を小刻みに揺らしている。何か考えている証拠だ。考えているうちは、意識は飛ばないし、輸血もいいペースで進んでいる、出血もおびただしいものはましになっている。
「ね、お願いします! 付き合って!」
「先輩、俺は……先輩だって、わかってる、でしょう、あの」
「わかってる、わかってるよ、でも、お願い!」
「……ええと」
 その瞬間だった。外で足音がする。そして、「キヨラ」と大声で呼んで、探すような声がする。
「アキマサ先生!!」
 赤羽の意識は完全に覚醒した。カオルやアミナ、日比谷を振りほどいてでも外へ行きそうだ。
「先生、ここです、俺はここです、先生!」
「キヨラ! 探したよ、ただ、少し待っていなさい。僕はキヨラにお土産があるんだ、きちんと見せたいから、もう少し待って。キヨラ、怪我をしているね。しかも脚だ。だから、キヨラを僕の部下に運ばせよう。もう少し、がんばれるだろう」
「はい、先生、どれくらいですか」
「キヨラがよくなったら、すぐに会う。だから早くよくなりなさい。身体の力を抜いて、静かにしているんだよ、ゆっくり息をして、でも誰かが傍に居たら、そのひとと話すこと。できるね」
「はい!」
「あとでまたな」
「はい、先生」
 誰もが会話とおのおのの役割に集中していて意識しなかったが、救急車のサイレンが保健室の真裏で停まったところだった。



 それで終わったわけではない。救急車は来たものの、病院の受け入れ態勢が整わない。夜の帳を赤い目がぐるぐる、ぐるぐると掻きまわして何かを探すばかりだった。
 赤羽は救急車の中で、ぼんやりと上を見ていた。腕には正式な輸血が行われ、意識がはっきりしてくるとともに、脚と腕が痛み始める。そして、ぼんやりと、変な夢を見た、と思っていた。先生は今、豪雨の東京だ。会いに来てくれるはずがない。相当会いたいんだなあ、と、平和な考えをしていた。
 救急隊は、縫うだの縫わないだのの話をしている。それはまあ痛いよなあ、と、赤羽は発進することのない救急車内で冷静に考えていた。考えることができるのだから、もう命に別状はないのだけれど、縫う、となると、少し心持が違ってくる。できれば、痛いことは嫌だった。
「あの」
 赤羽は決死の覚悟で救急隊員に話しかけた。心の奥底に、この人たちに失礼なことをしてはいけない、と刻み込まれていた。暗示にかかりやすいタイプなのだ。
「平気なので、次のひとを助けてあげてください」
「ああ、気にしないで」
「……はい、ごめんなさい」
 謝った赤羽を、救急隊は不思議な目で見た。
「……君、おうちのひとに、ひどいことをされていないかな?」
「あ……よく言われるんですけれど、そういうのじゃないんです。ここは全寮制で、何かあれば学生一人につき一人担任がいます、その担任と俺はとてもうまく行っているんです。今回は、先生は東京の学会に行っていましたけれど、普段は俺だってこんなボロボロじゃありません」
「……なにをしてこんなになったの?」
「それは……」
 先程黒松に語った体験は、もう忘れてしまっていた。口をつぐんでしまった赤羽は、何対の目が自分を見ているのかが気になり始めて体が震えを起こす。
「大丈夫、大丈夫だから、落ち着いて。痛い?」
「さっきよりは、痛いです」
「心療内科とか精神科歴はある?」
「ありません」
「ふうむ……」
 救急隊員は、今月初めて現場に出たばかりだった。青臭い正義とか、信心とか、そういうものを持っていた。
「あの、ごめんなさい、お仕事の邪魔をしてしまいました。俺は痛いだけで平気なので、ただ横になっていますね」
「キヨラくん、だっけ。少し話さない?」
 キヨラ。その響きは、赤羽の弱り切った精神には強すぎる刺激だった。
「先生……」
 赤羽のまばたきがなくなり、小さな声で最愛を呼んだ。
「うん? どうしたの」
「先生、どうして嘘を吐くんだ」
「なにか思い出したかな?」
「俺がよくなったら来てくれるって言ったのに」
「……キヨラくん?」
「俺のことがどうでもよくなったのかな」
 ぶつぶつと唱え始めた呪文は救急隊員には止められなかった。
「キーヨーラ」
 救急車の死角から聞こえたテノールに、赤羽は身体を震わせて黙り込んだ。
「おまえまだよくなっていないだろう。もう少しお預けだな」
 当然、黒松だった。だが、今の赤羽にとっては、テノールで『キヨラ』と呼ばれるだけで充分なのだ。
「返事は」
「はい……」
「つらいのかな、元気がない」
「つらく、ない」
「つらそうだよ」
「……つらい、です」
 赤羽は瞳から幾筋も涙をこめかみに伝わせた。声が震えて、吐息が乱れる。鼻が詰まり、救急隊員は慌てて気道確保をした。
「ごめんね」
「はい」
「ちゃんと帰ってくるから」
「はい」
「もう少しだけ、待って」
「はい」
「泣けるだけ、泣きなさい。悪いのは僕だ」
「……」
「いいんだよ。返事は」
「……はい」
「黒松くん、僕の真似かい? 上手だね。それとも君は赤羽くんとファーストネームで呼び合うようになったのかな」
 赤羽が飛び起きる。黒松は安堵と緊張が一気に押し寄せる。
「なにをしているんだい。赤羽くんは中なのか?」
 黒松は頭を一瞬で整理した。クオリティの高いかくかくしかじかが黒松の口から語られた。
「そうか。黒松くん、お疲れ様。僕が赤羽くんを引き継ぐよ。世話をかけたみたいだ、ありがとう。それから、救急隊の皆様、大変お騒がせしました。赤羽キヨラの担任、利府アキマサと申します。僕が一般的な病院へ一般的に連れて行きますので、どうぞお次のお仕事に行かれてください」
「待ってください、利府先生」
 利府を引き留めたのは先程の救急隊員だった。
「なにかありましたか?」
「赤羽くんを、きちんとしたカウンセリングに通わせてください」
「赤羽キヨラが行きたいのなら構いませんが、赤羽キヨラは人見知りで怖がりです。無理矢理通わせるのは、僕にはできないことです」
「赤羽くん、つらかったんだろう、カウンセリングを受けようよ」
 救急隊員が赤羽に語りかける。
「……ほんとに、先生なのか」
 応える代わりに赤羽が紡いだのは、一縷の疑問、その他はすべて幸福だった。
「先生、先生、俺救急車の中、来て、会いたい、おかえりなさい、おかえりなさい!」
 利府が覗き込むと、担架の中には傷だらけの恋人の姿があった。
「赤羽くん……? その怪我は?」
「覚えてないんだけど、なんか痛いしかゆいしつらい!」
「帰れそうか?」
「帰る! 縫いたくない!」
 救急隊員はどうすることもできなかった。
 こんな人間関係は見たことがなかったのだ。
「降ろしていただけますね?」
「ええ……」
「僕の虐待を疑われたのでしょう」
 利府は静かに言った。
「……申し訳ありませんでした」
「いえ、いいんです」
 利府は打って変わってにこりと笑う。
「足が、多分捻挫か折れているかしていますね?」
「ああ、捻挫のようですが、治療のために受診なさってください」
「わかりました。お手数おかけしました。赤羽くん、帰ろう、おまえ、朝食どころか夕食もまだだろう」
「そうだった」
「何がいい?」
「うーん、あまり食欲がない」
「たまごのおかゆでも食べるかい」
「ニラも入れて」
「わかった」
 会話をしながら、赤羽は車椅子に降ろされ、利府の前に現れた。
 その姿を見て、利府は眉を寄せ、目をきつく閉じた。
「アキマサ先生?」
「ちょっと、待ってくれ」
 3秒あるかないかで、利府は再び目を開けた。
「ごめん。泣きそうだった」
「なんで? 俺全然元気だよ」
「おまえは何があってもそう言うから」
「いいから帰ろう先生、あ、お兄さん、ありがとうございました」
「お大事にどうぞ」
 救急隊員に赤羽が笑って会釈をする。
「少し早かったのは、なにかあったのか?」
「うん? 僕の到着がかい?」
「ああ」
「豪雨で新幹線が止まっていて、根気よく待っていたら一個前のに運よく乗れたんだ。それだけだよ」
 お大事にどうぞ、お大事にどうぞ、お大事にどうぞ。ふたりが話していても沸き起こるその言葉の嵐の中で、ふたりは寮に着いた。
 鍵を閉めると、利府が後ろから車椅子の赤羽をきつく抱き締めてきた。
「先生?」
「ごめんね」
「なんで謝るんだよ」
「僕が下手だったんだ」
「何が」
「少しセラピーをしよう」
「だから平気だって」
「僕と、キヨラとで、セラピーをしよう」
「……ここで?」
「そう」
「……どうやって?」
「知っている限りのことをしよう」
 利府が斜め上から求めたキスは、利府の涙の味がした。
「その服、気に入っていたじゃないか、切られてしまったんだね」
「今度一緒に選んでくれないか」
「いいよ、キヨラが治ったらすぐに行こう」
「あ、待って」
「うん?」
「なんか、先生にムラムラしてたら、血行良くなって痛くなってきた」
 やることがわかっていたのか、と、利府は笑う。
「そうか、じゃあ治ったらにしよう」
「怪我ってやだな」
「病院へ行こう、早く処置をしたほうがいい」
「寮に連れてきた先生がそれ言うんですか」
「仕方ないじゃないか、僕だってムラムラしていたんだから」
 話しながら、笑いながら、利府はもう少し先のことを考えていた。
 しばらく、プレイは控えよう。その辺の大学生と同じようなぬるめの甘い感覚を教えよう。
 しかしながら、自分なしでは自我が保てないほどの教育ができているのなら、それは紛れもなく、僕にとっての悦びだ。


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