寵教師

幻覚(柏崎アミナ×みつせカオル)




 自分以外に人間がいる実感がないのだ。
 わたしのほかに人間がいることを教えてくれたのは、とある教師だった。
 高校の教育実習生は、みつせカオルと名乗っていた。そのときは、そういう名前の幻覚が増えた、それくらいに思っていた。
 そんな考え方なものだから、誰かにご飯を奢ってもらっても、物を贈られても、遊んでもらっても、良い気持ちはしていなかった。
 自分の幻覚が酷くなっていくだけのように思えていた。
 だから、その教育実習生を目の前にしたとき、とうとうドッペルゲンガーが現れたのだ、と、腹を括ったのだ。そのみつせカオルとかいう女は、わたしと似すぎている。もう少しましな幻覚を見るようではあるのだけれど、この世というものを見ていない。
 少なくとも、わたしが見ている世界を見ていない。対立した幻覚を見ている。
 そうでなければ、彼女が見ているのが、現実なのだろう。どうにせよ、わたしが見ていないものだ。
 楽しそうに昼食の癖にアップルパイを食べて談笑している柏崎アミナというものが現実なのだ、と言われている気がしていた。
「帰らないの?」
「帰りますよう」
 その問答は18時のことだった。
 わたしはドッペルゲンガーと一対一になることを、渾身で避けていた。そいつに隙を見せてはならないのだと、本能的に知っていた。
 幻覚でない何かが言うのだ。たぶん、わたしの幻覚を壊しに来るのはこいつなのだ。本能はまだ幻覚が必要だと判っている。だから言うのだ。エンカウントしたら倒すか逃げなければならない。
「残念」
 ドッペルゲンガーはそう言って、教室の夕映えのカーテンをまとめ始めた。それを見ながら、3つ先の教室の同級生と学校を後にした。今日の夕飯は、その子が買ってくれた、タマネギとマスタードのクロックムッシュだった。そのまま、その子に家まで送ってもらった。
 そしてわたしは、家の裏口から学校に帰ったのだ。
 教室はもう施錠されていた。19時45分だった。秋の出来事だ。陽はもう落ちていた。
「ねえ、帰ったのだと思ったわ」
「ああ、先生」
 開戦だ。暗い廊下で、互いに逃げ道は後ろにしかない。倒すか倒されるかだ。こちらは不意討ちを喰らい、不利だ。
「ねえ柏崎さん。落し物があるの」
「わたしのですか?」
「サンドイッチ、落としていったでしょう」
 面食らったら最後だ。危機感から、自分の声がフラット気味になったのが判った。
「サンドイッチですか?」
「そう。食べていくといいわ」
「サンドイッチを?」
「そう」
「いつのサンドイッチですか?」
「ああ、賞味期限は、見たところまだまだだから安全よ」
 わたしに隙が出来た。
「ねえ柏崎さん、帰らないの?」
「帰りますよ。サンドイッチを頂戴します」
「ああ、こっちにあるわ」
 ドッペルゲンガーは、わたしを通り越して職員室へ向かおうとしたようだった。
 油断以外のなんでもなかった。
 擦れ違おうとする一瞬で、わたしは動けなくされた。
 抱き締められているのだと、なかなか気付けなかった。
「アミナちゃん、わたし、もうあなたの先生、いやだなあ」
 高校生の、怖いもの見たさだったのかもしれない。わたしは、意図したか、しなかったかは判らない。ただ、もう動けたのに、動かなかった。
「先生のうちは、アミナちゃんにこうやるだけで犯罪でしょう、ただの20歳と17歳なら、悪く言っても援助交際で済むのに。歳はサバを読んでいるけれど、つまりはそうでしょう?」
 先生は、身体を離すと、わたしのスカートのポケットに何か平たいものを突っ込んで、行ってしまった。
 周りに誰も居ないことを確かめた後に、わたしはポケットに手を入れてみた。
 サンドイッチと表現されたものは、電車の定期券だった。
 家においで。そう言われているのだと解釈した。ただし、先生の家に行くには、先生の住所が必要だ。家に帰らないと、高校の連絡先一覧はない。
 あるいは、走って追い駆けるだとか、色々な手段は在るには在るのだ。
 でもわたしは、とりあえず最寄りのコンビニエンスストアでサンドイッチを買った。
 歩きながら少しずつ食べた。あまりに美味しくなかった。おなかもふくれない。雨が降り始めた。傘は持っていない。
 都合のいい幻覚が終わったのだ。


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