寵教師

服を脱げ



 その夜、俺はアキマサ先生に紹介されたピアノスコアを図書室で借り、音楽室に居た。時刻は17時50分。もう少し居ても許されるだろう。
 連弾の曲のため、全貌を掴むのが難しい。先生のパートにも目を通すことにした。
 もしかしたら、先生と連弾ができるかもしれない。そう思うと、どんなに難しくても面倒だとは思わなかった。
 知らず知らずのうちに集中していたらしい。音楽室には、いつの間にか人が集まり始めていた。俺の演奏を聴きに来たわけではないらしい。早く出ていかないかな、と、全員の顔が語っているように思えた。
 掃除当番と思しき男子が、黒板消しでチョークを拭っていく。
 黒板はピアノの傍にあるので、俺は少し嫌な気持ちになった。俺がいつまでもいるのがいけないのだけれど、ピアノだって些細なゴミで調律は狂ってしまうし寿命も短くなる。
「おい」
 低いドスの効いた声が教室の奥から聞こえ、俺はいったん演奏をやめた。
「おまえさあ」
 どうやら俺に話しかけているらしい。目が合う。
「1回生だろ」
「そうだ」
「俺は3回生」
「よろしく」
「よろしく! って、そんな話をしてえんじゃねえんだよ」
 ウィットに富んでいるが、あからさまな敵意を感じた。細い彼の目が、黄昏の中で光っているように見えた。
「なあ、1回生」
「ああ」
「敬語も使えないのか」
「使う必要がない」
「なぁまいきなガキですねえ、部長」
 黒板消しの男が口を挟んできた。
「おまえはまだ喋るな」
「すんませーん」
「で、おまえ、名前は」
「……」
 こんな殺伐とした状況で名乗りたくなかった。部長と呼ばれた男が息をついて、名乗る。
「俺は黒松タカユキ」
「よろしく」
「よろしく! って天丼やりてえんじゃねえんだよ」
 敵意は本当に俺に向けられているものなのだろうか、なんとなく違うような気がしてきた。
「おまえは。名前名前」
「好きに呼べばいい」
「そんなしてっとおまえ食われるぞ」
「そうならないために練習しているんだ」
「練習と食われないのと関係ないだろ」
「は? 場に食われるのは大抵が練習不足か緊張か不調だ」
「そういう話してえんじゃねえんだよ」
 黒松はばりばりと長めの茶髪をとかすように掻き毟った。
「名前言いたくないんなら、服を脱げ」
「は? なんで」
「きちんとしたルールを教えてやらないといけない」
「あ?」
 俺は凄んでみるが、黒松は微動だにしないで俺を眺めまわしている。
「部長、もう脱がしちゃいましょうよ」
「おーまーえーはー黙ってろ」
 黒松が酷く苛立って言った。
「トレーナーだけでいい。脱げ」
「脱いだらどうなる?」
「綺麗にしてやる」
 綺麗に……?
「どうせもう汚れっちまってるんっしょ?」
「日比谷。いい加減にしろ」
 口を挟んできた日比谷と呼ばれた男は「すみゃーせん」と笑っている。
「おまえのその悪癖は改めるべきだと俺は思うぞ、日比谷」
 黒松がため息をつきながら言った。
「あれ、なんでわかったんスか」
「おまえはなあ。そういう感情をもっとうまく表現できたら、振られる回数も減ると思うぞ」
 内輪話に興味はなかったし、時計の針が静かに1本になる瞬間も見逃して久しい時間になっていた。俺はピアノに飛んだチョークを手で払い、ハンカチで拭いた。
「おい、服脱げっつってんのがわかんねーのか」
 この15分で耳にタコができたに違いない。俺は思わず大きなため息をついた。なんてしつこい痴漢達だろうか。
 観念することにした。トレーナーの下にはきちんとカットソーを着ている。無造作に脱いで、よく見もしないで黒松に投げつけた。
 しばらくして、トントントン、と音がし始め、むくれていた俺は音の方向、黒松のほうを向いた。
 黒松は、俺の来ていたトレーナーの肩に飛んだチョークの粉を払ってくれていた。黒いトレーナーだったので、帰り道、後ろ指を指されてしまうことだっただろう。
「……オラ。大体とれた。帰ったら洗濯しろ」
「……ありがとう……」
 この行為をするための強請りだったというのだろうか。
 良い奴じゃん。俺は素直に黒松に心を開いた。
「えっ? えっ? 部長?」
 残った日比谷がひどく慌てている。
「ヤんねーんスか?」
「おまえはなんでそうなっちまうかなあ……おまえは根はいいんだよ、葉っぱがちょっとひねくれてんだよなあ、真っ直ぐにしたらモテると思うぞ」
 日比谷はおろおろしている。
「オラ。やることわかってんだろうな、日比谷」
「あー、はい」
 日比谷は背筋を正し、頭を下げた。
「すんませんっした」
 俺が口を開かない限り、日比谷は頭を上げそうになかった。
「いや……別にいい」
 俺が声を出すと、ようやっと日比谷が頭を上げた。とても悔しそうな顔だった。そんなに俺を犯したかったのか。悔しいというか、なんだろう、腹が減っているような顔だった。
「じゃあ、改めて名前を訊いてもいいか」
「ああ。俺は赤羽キヨラ。担任は利府アキマサ先生」
「アキちゃんちの子かぁー」
 日比谷が何やら頭を抱える。
「アキちゃんもとうとう担任か……精々がんばってみればいい、赤羽」
「……なぜ? 特に問題ない」
「日比谷、あまりひとの担任の悪口を言うものじゃない」
「へーい」
 黒松にたしなめられ、日比谷は自分もハンカチを取り出して、鍵盤を一本一本掃除し始める。
「なんかあちいな。アイス買ってこい、5000あれば足りるな」
「わかった」
「おまえに言ってんじゃねえんだよゲスト様、俺は漫才しに来たんじゃないんだ、ええ加減にせえ! オラ、漫才は仕舞だ」
 答えた俺だったが、どうやら見当違いだったらしい。
「先輩の漫才めっちゃウケる」
「ウケてるおまえが買ってこい日比谷! ハーゲンダッツ! 20分で戻ってこい!」
「俺! 俺なんスか! えー! なんで!」
「あと19分だぞ」
「ひゃー! いってきましゅ……おつかいがんばりましゅ……」
 黒松が五千円札を取出し、日比谷はそれを受け取って廊下をダッシュしていった。
「……悪ぃな、赤羽」
「いや、こっちこそ意地はってごめん」
「日比谷はなあ、まあ、特定の相手にはああなっちまうんだよ。でも根っこのほうはまっすぐだから強姦もストーキングも盗聴もしない。安心してほしい」
「な、何の話?」
「あんまり日比谷を嫌わないでやってほしいって話」
「それなら、全然」
「あの、赤羽さん」
 話に突然入ってきたのは、入学式の日に隣の部屋だったアミナだった。部屋にはアミナだけではなく、20人くらいの学生がいることにようやっと俺は気付いた。
「さっきの曲、部長とわたしの十八番で、部長が下手側弾けますよ」
「マジで! 俺上手側!」
 俺はつい嬉しくなって大きな声を出した。
「合わせるか?」
「合わせたい!」
「じゃあ1回分お代もらうぞ」
「お代?」
 黒松がつかつかと俺に歩み寄り、俺の額に口づけた。黒松はかなり背が高い。
「きゃー! 部長キス魔!」
「魔じゃない。今さらだろ、柏崎。赤羽、俺とキスフレしてくんね」
 そこで携帯電話が鳴った。俺のだった。アキマサ先生からだった。俺は黒松にことわって、メッセージを開く。
『ばんごはん、なにがいい? 音楽室にいるんだね。お友達はできたのかい』
 なぜわかるのだろう。監視カメラはついているが、それを見ているとか、そんな感じだろうか。
『餃子たべたい。友達できたし、キスフレ?かなんかに誘われてる』
『黒松くんかな? キスフレの意味を訊いて、慎重に判断するといい』
『先生はキスフレって知ってる? キスフレンド、で合ってる?』
『僕は少し遅かったのかな?』
 俺は頬を染めたデフォルメのウサギのスタンプを送った。
 鷲がハンカチを食いしばるスタンプが返ってきた。
「……ええと、キスフレは、だめらしい、黒松ごめん」
「赤羽、せめて先輩ってつけるか部長って呼ぶかしたほうがいいと思うぞ。あと敬語」
「黒松先輩」
「日比谷もな」
「わかりました」
「なんだやればできるんじゃん。ご褒美」
 今度は頬にキスされた。
「アキちゃんには内緒な」
「あっもう言ってしまいました」
「俺が消えたらそのせいだからな」
 アキちゃん、2年くらい前からおかしいんだよ。コンクールでアキちゃん珍しく特別賞をあげた子がいるらしくて、入学してきたら担任になるんだぁ、ってふんわかしてんだよ、それまでバリバリに厳しかったんだぜ、考えられねえよ。この大学はコネクションのあつまりみたいな場所だから、おまえの後にその子入ってきたら、おまえ担任変わるかもな。アキちゃんのそいつへのこだわりはすごいらしいぞ、学長に直談判までしたらしい。それで、
「アイスー!」
 戻ってきた日比谷先輩が勢いよくドアを開けて叫んだ。
「……話しすぎたな、合わせる前に帰ってきちまった。赤羽、見学していってもいいし、アキちゃんが呼んでるなら行ってやれ」
「わかりました。見学は日を改めます。大変お邪魔しました」
 俺は軽く会釈をして、ピアノを仕舞って部屋を出た。
「あれ? 赤羽、変わったっスね」
「これならおまえも迂闊にいじめられないだろ」
「えー……ねえ部長、素直になるってそんなに大事なことスかねえ?」



 それが黒松先輩、日比谷先輩と俺の出会いだった。
 こんなに長く付き合う関係になるとは、思いもしなかった。




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