寵教師

倫理




 みんなやってる、という言葉には、不思議な力を感じる。
 往々にして、悪いことに使われる。そしてみんなやってるから大丈夫などと言う。言われた側は普通、反論できない。親とか保護者であれば注意をするかもしれない。ただ、友人関係では難しいだろう。なぜならば、「みんな」を敵に回すことになるからだ。わたしくらいの高校生だとなおさら難しい。高校というソサエティで生きている以上、そのソサエティの気分を害するということには、その社会から消されてもいい、くらいの覚悟が要るのだ。
 わたしは今、気になる先輩がいる。女の先輩だ。みんなはわたしをモデルのようだとか、お人形だとか、そういう表現をするけれど、わたしからしたらその女の先輩のほうが、わたしよりずっと魅力がある。
 なんと言ってもお尻が良い。小ぶりで引き締まっていて、可愛らしい。体育着の短パンを履いていると、得も言われぬ気分になる。触りたい。服を脱がせてみたい。わたしの膝の上に座ってほしい。けれどこんなことは誰にも言えない。「みんな」こんなことは口にしない。けれどわたしは確かに、その先輩に、そういうことをしたいと思っている。自分のセクシャリティについては考えたことがなかった。バイセクシャルでもレズビアンでもなんでもいい。とにかくわたしはその先輩のお尻に、高級車を試乗するときのような胸の高鳴りを感じているのである。
 わたしは幸いその先輩にはよくしてもらっており、一緒に食事をとる機会があった。先輩とはよくイタリアンのレストランに行っていた。先輩は言った。ちょっとパスタを食べてほしいの。わたしは言われた通り、ペペロンチーノをいただいた。舌が少し痛くなるくらい唐辛子が効いていて、ガーリックの風味もよく、パスタは細めで歯ごたえが心地よかった。先輩はその間、ミルクのジェラートを食べながら、わたしの口元をじっと見ていた。それでわたしが食べ終わると、また来ようね、と言ってくれた。先輩が何を考えているのかはわからなかったが、大抵「みんな」わたしをそういう風に扱うので、違和感はなかった。わたしはたぶん、ごはんを奢られる星のもとに生まれているのだ。
 その食事の席を立つときに、ふっと先輩のお尻に目が行ったのだ。先輩はチアリーディング部だったので、下校のときは大抵体操着の短パンだ。その日も学校帰りだったので、当然そうだった。そのときにわたしは、とても乱暴な興味を持ってしまったのだ。先輩を、いや、先輩のお尻を、どうにかしたいと思うようになってしまった。
 そして今日、先輩はまた、下校のあとにそのイタリアンのレストランに誘ってくれた。二つ返事で承諾した。
 先輩はわたしにメニューを尋ねない。先輩がわたしのメニューを決め、さっさと頼んでしまう。そのほうがわたしも気が楽だった。先輩という目上のひととの食事でメニューに気を遣いたくないのだ。
 今日はカルボナーラだった。たまごとチーズの香りが心地よい。ソースは甘いばかりでなく、きちんと胡椒も効いていた。パスタはフェットチーネと書いてあった。幅が広い太いパスタだ。先輩は今日はストロベリーのジェラートを食べながら、わたしがそのカルボナーラを啜るのをじっと見ていた。
 その途中、先輩の携帯電話がメッセージを受信した。いちどで終わらず、何度も何度も受信した。先輩はわたしに、ごめんね、と断って一瞬だけメッセージを確認した。そのアプリケーションがわたしの視界の隅に映った。見たことがないアプリケーションだった。トークアプリのようだった。
 先輩はまた、また来ようね、と言って、その日もそれで別れた。わたしは家に戻ると、すぐにアプリケーションを検索した。思ったよりすぐに見つかった。トークアプリ自体はたくさんあるのだが、それぞれ基調とする色が違う。先輩は赤いアプリケーションを使っていた。それですぐにアプリケーションを携帯に入れ、先輩を探した。
 あっけなく見つかった。女性の利用者自体が非常に少ないのだ。売り文句には「出会えるアプリ」と謳ってあった。本当に簡単に出会えてしまったわけだ。
 アプリケーションでは先輩の自分撮り画像がアイコンにされていた。白い生地に黒いレースが印象的な下着姿だった。わたしはもったいなく思った。正面から鏡に全身を映して撮っているため、お尻が見えないのだ。男性にアピールするには、先輩のお尻をもっと見せたほうが効果があるように思えた。そのくらいわたしは、その先輩のお尻が好きだった。
 わたしはそのアプリケーションで先輩をゆすったり、何かを仕掛けるつもりはなかった。ただ先輩を知りたいだけだった。先輩が出会い系をやっているからといって何も変わらなかった。また先輩にレストランに連れていってほしいと思った。
 そのままわたしは、その先輩のアイディーをツイッターで検索した。裏垢という名前のアカウントがヒットした。顔を画像加工アプリのスタンプで消してある、大人向けのアカウントのようだった。たくさんの写真があった。中にはお尻がよく見える写真も多かった。わたしはその写真をダウンロードし、携帯に保存した。特に用途があるわけではない。わたしは先輩を知りたいだけだ。
 そこから、先輩のツイッターと出会い系アプリを追いかける日々が始まった。わたしは出会いたいわけでもないので、プロフィールは偽名と「よろしくお願いします」のひとことだけ、アイコンもなし、ツイッターはリストインすらせず毎日手動でアカウントを検索した。
 しかしながら、意外な形でわたしは先輩のことを諦めざるを得なくなった。見つけてしまったのだ。わたしを家に呼んでおいて、連絡先も交換しないまま、教育実習が終わったら音沙汰すらなくなった、みつせカオルという女性が、そのアプリケーションを利用していたのだ。
 彼女は自分撮りではなかったが、見たことのある台所とホットサンドメーカーのアイコンだった。プロフィールには、暇、と書いてあった。
 わたしは思わずメッセージを送ってしまった。正直なところ、送るつもりはなかった。ただ、一時の気の迷いで、文字数制限のため長々とは書けなかったが、「先生、お久しぶりです、サンドイッチおいしかったです」というメッセージを、彼女に向けて送ってしまった。自分が先輩に抱く不思議な執着を、彼女に解決してほしかったのだと思う。こんな感情は、誰にも言えなかった。もともと感情を口に出すほうではないが、ますます言えなかった。先輩の立場も危うくなりそうだったし、自分の異常性を咎められるのも嫌だった。ただ、みつせカオルという女性は、わたしがかんしゃくを起こしたように泣いても、動じることはなかった。彼女ならなんとかできると信じていた。
 返事は比較的すぐに来た。「久しぶり。ちょっと通話しない?」とのことだった。わたしはふたつ返事で電話ボタンをタップした。先生は三コールで出た。
「アミナです」
「やっぱりアミナちゃんだったのね。どうしたの、何か困ったことでもあった?」
「やっぱり、わかるんですね」
「だって、わたしは、教え子を家に呼んでおきながら、実習が終わったらあいさつもなくいなくなった先生よ?」
 その件について何か思うところがあったのだろうか。けれど、まだそれは訊けなかった。
「それで、どうしたの」
「また、会えませんか」
「そう。わたしの家でいい?」
「はい」
「道はわかる?」
「はい」
「十九時を過ぎたら大抵いるから、好きなときにいらっしゃい」
「わかりました」
「またね」
 先生との通話はそれで終わった。わたしは次の日、同級生や後輩、先輩方の誘いを全部断って、サンドイッチと称された定期券で下校してすぐ電車に乗り、先生の家に行った。まだ十八時ころだった。けれどチャイムを押すと、先生はすぐに出てくれた。
「いらっしゃい、アミナちゃん」
「お久しぶりです」
「入って。ごはん、まだ?」
「はい」
「パスタでいい?」
「……はい」
 先生は何かを察した風に、くすりと笑った。
「サンドイッチのほうがいい?」
「はい」
「わかった」
 招き入れられ、靴を脱いで上がった先生の家は、相変わらず物がない。
 先生はまたホットサンドを作ってくれているようだった。わたしがベッドに座ろうとすると、デスクでいいわよ、と言われた。デスクに座ると、すぐにホットサンドを振舞われる。ハムとチーズのサンドイッチだった。
「ごちそうさまです」
「お粗末様」
「おいしかったです」
「よかった。それで、どうしたの」
 はて、自分はどうしたのだったか。どうもわたしは、この、みつせカオルと話をすると、緊張してしまうのだ。初めて見かけたときからそうだった。ドッペルゲンガーとして認識していたのは、きっとその緊張のせいだ。
「ウォーミングアップに、わたしがあのアプリを使っている話でもする?」
 そうだった。いろいろ聞きたいことがあるのだった。
「お願いします」
「わたしね、基本的に暇なの」
 彼女は間髪入れずに話し始めた。
「でも誰かと関わっていたい。肉体関係とかは考えたことがないけれど、知らない誰かでもいいから、人間に接していたいの。幸いわたしは女性だから、出会い系ではたくさんアプローチが来る。危ないかもしれないとわかってはいるけれど、普段暇を持て余しているほうがよほど危ないの。暇だと要らないことをたくさん考えてしまって、考えがまとまらないまま変なことをしそうになる。それでも時間は余ってる。それがわたしには耐え難くてね」
「寂しいんですか?」
「寂しい、になるのかしら。アミナちゃんと別れるときは寂しかったけれど、普段のはそれを思うと、寂しいとは別の感情かな」
「わたしと離れるとき、寂しかったんですか」
「それはそうよ。定期まで渡して、仲良くなりたかった子を、むざむざと手放すのよ?」
 先生は一瞬、目をぎらつかせた。
「屈辱だった。でも変なことをして、アミナちゃんに嫌われることのほうが、よっぽど怖かった」
「今更だったでしょう。抱きしめておいて、定期を渡しておいて、家に呼んでおいて、怖かったんですか」
「言うわね」
 先生はくすくす笑って、でも、寂しかった、と言った。
「先生は、恋愛で、わたしのことが好きなんですか?」
「恋愛っていうか、手放したくないの。アミナちゃんと、ずっと一緒に居たい。アミナちゃんがなにを考えてなにをするのか、ずっと見ていたい。アミナちゃんが誰を好きになって誰と関係を持つかすらもずっと知っていたい。どんな顔をするのかを四六時中見ていたい」
 わたしは思わず例の先輩を思い浮かべた。先輩に抱く感情と似ていたからだ。
「先生、わたし」
 言いよどんでしまったが、先生はゆっくり待ってくれた。
「そういう風に思っている先輩がいるんです」
「そう」
「先輩のことが知りたくて、使っている出会い系アプリまで追いかけて、ツイッターの裏アカウントまで毎日見て、先輩にパスタを奢ってもらうたびに次が待ち遠しくて」
「ごめん」
 先生は突然話を遮った。
「やっぱりわたし、だめだ」
 やはりわたしは異常だったのだろうか。不安が体中に満ちた。このみつせカオル以外の誰も、わたしのこの不可思議を解き明かせるとは思えなかった。
「アミナちゃんのことが好き。恋愛感情がある。今まではさっき言った通り、アミナちゃんのことを知れればなんでもよかった。でも、実際、だめだ。実際アミナちゃんが誰かをそういう風に思うのなら、無理矢理にでもわたしのほうを向いてほしい」
「そう、ですか……」
「アミナちゃん、わたしの恋人になってみない? 束縛はしない。誰とごはんに行ってもいいし、長く会えなくてもいい。でもずっとそばにいてほしい。アミナちゃんがその先輩に同じようなことを思うなら、わたしはもうアミナちゃんと会わないほうがいい。何をするかわからない」
「いえ、わたしは先輩にはそういうことを思ったことはありません。ただ、お尻がいいなって……」
「お尻?」
 先生はきょとんとしていた。わたしははっとした。思わず言い訳で出てきた言葉だったが、いちばん知られたくなかったことだった。
「あ、ええと」
「その先輩のお尻が好きなの?」
 先生は問い詰めるわけでなしに、優しい声で言った。
「そうなんです……先輩に恋愛でどうこうってわけじゃなくて、先輩のお尻が、本当に可愛くて……男に生まれていたら、たぶん犯罪を犯しています」
「よかったじゃない。同性を活かして楽しむべきよ」
「変に、思わないんですか」
「変なわけないわ。わたしもあるもの、わたしは殿方に多いんだけれどね。わたし、殿方の股間を見るのが大好きなの」
「股間」
「スーツとかいいわね。書類仕事でしわが寄っていたりするとなおいいわ。体は鍛えてあるほうが好きかなあ、独特の、殿方の骨盤の形が好きなの。でも脱がそうとかはあんまり思わない、でもわたしがゲイの男だったら道を踏み外しているかな」
 先生はよどみなく話し、言葉を継いだ。
「あのね、わたし、誰かに抱かれるって想像できないの。女性も男性も、抱きたい。そっち側なの」
「ちょっと安心しました」
 わたしは自然と微笑んでいた。先生は不思議そうにしている。それはそうだろう、今からわたしに手を出そうと思えば好きにできる、という話を先生はしているのだ。
「出会い系アプリなんてやってるから、先生のその辺はすごく緩いのかなって心配になってしまって」
「あら、ありがとう」
 先生は屈託なく笑う。
「出会い系で肉体関係を持ったことはないわ。ただの暇つぶしよ」
「ほかには、暇つぶし、ないんですか」
「そうね、はまってるだけだから、もう少ししたら見つかるかもね、でも今は、どんなに人から変な目で見られても、その暇つぶしが楽しいの。わかりにくかったら、アミナちゃんも想像してみるといいわ、自分と関わるひとがいない世界。アミナちゃんだと、一緒にごはんをする相手がいない、とか、放課後誰も付き合ってくれない。学校の先生は授業をして宿題を出すだけ。カフェのクルーはマニュアル通り。行きつけの八百屋さんはトマトをおまけしてくれることもない」
 知っていたんだ。わたしは思わず驚いてしまった。わたしが誰かと一緒でないと食事をとる気がしないことや、先生方によく構ってもらい、可愛がられていることも、カフェで必要以上の愛想のよさを振舞われていることも、近くの八百屋が何かにつけておまけをくれることも、全部知っているのだ。
「そうなったことがないので、想像できないですね」
「そうでしょう。想像を絶するわよ。つまらなくて仕方ない」
「出会い系って、そんなに面白いんですか」
「面白くはないわ。危ない暇つぶしよ」
 ふうん。わたしはちょっと嫌な気持ちになった。危ないと分かっているのなら、やめればいいのに。けれどきっと、わたしの想像を絶する退屈な世界で、先生が生きていくにはそれしかないに違いないのだ。でも、わたしに何かできないか? このひとを、なんとか安全に生かしてあげられないだろうか?
 ふっと思いついたことがあった。わたしもひとのことを言えないことではあった。ただ、わたしはこのみつせカオルという女性を、護りたい、と、強く思っていた。
「わたしが恋人になったら、暇なの、治りますか」
「そうね、きっと治るわ。でも、嫌々やることないのよ? アミナちゃんは、アミナちゃんの人生があるんだから……」
「わたしが先生の人生で何かためになるなら、わたしはそれがいいです」
 先生は言葉に詰まった。
「でも、アミナちゃん、恋人を持ったことはあるの? 恋人って面倒くさいわよ? 食事だってきっと、誰とどこで何を食べたのか知りたくなるし、連絡先だって交換しないといけない、そんなことが一生続くのよ?」
「一生続けられるなら続けてみてください。わたしみたいなつまらない人間のすべてを知って、それでも飽きないって言えるんなら、わたしはそういうひとと一緒に人生を歩みたいです」
「あなたはつまらない人間ではない」
「それを証明してくれるなら、わたしはどれだけ面倒くさくてもいい」
 言葉が自然に口から出てきていた。本心だったのかもしれない。わたしは、自分がつまらない人間だと常々思っていたのだと思う。
 それはそのはずだ。身の程に合わないほど周りに恵まれ、愛され、誰かがいつもそばにいて、ごはんをくれたり、話相手をしてくれたりしているのだ。そんな状態で、誰が自信を持って、自分はそれにふさわしい人間だと言い張れる?
「じゃあ、アミナちゃん、お付き合いさせてくれるの?」
 先生は見たことがないくらい弱気だった。わたしはというと、見たことがないくらい強気だった。
「しましょう、先生。わたしを愛してみてください」
「かなわないなあ」
 先生は嬉しそうに、けれど困った風に笑った。
「よかった、アミナちゃんの先生が終わった後で」





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