寵教師

寂寞




「柏崎さん、読モとかやってるの?」
 読モ、雑誌の読者モデルだろうか。高校生の会話にはよく出てくる。けれど、わたしは興味が持てなかった。不特定多数に顔と体を晒して、着たくもない服を着て、時間を拘束され撮影をすることに、魅力を感じないのだ。
 みつせカオルというドッペルゲンガーとの一戦を終え、わたしはほんの少し考え方が変わってきていた。少し周りを信じてみようか、そう思えてきていた。でも、ドッペルゲンガーに会わない時間が続いていくだけで、あのサンドイッチの味は風化してきてしまっている。今日は、目の前の同級生がチーズ蒸しパンを買ってくれていた。あまり噛まなくて済んで良い。わたしは食事があまり好きではないのかもしれない。
「うーん、やったことないなあ、どういうのなの?」
 同級生が鬼の首を取ったように喜んだ。わたしが、教えて、とひとこと言うだけで、この目の前の女子高生に多大な幸福を与えることができるようだった。
「知らないんだ! 柏崎さん可愛いし、スタイルいいし、いいと思うんだ、お小遣い稼げるって噂だよ! きっと億万長者になるって!」
「そぉんなに?」
「マジマジ」
 わたしは微笑んだ。同級生はとても嬉しそうに大笑いしている。雰囲気にのまれてしまえば楽しい会話なのかもしれない。ただ、わたしはそれだけのことができないでいた。ふとした瞬間に、相手を不快にさせるかもしれない、そう思うと、絶えず考えを巡らせながら会話をするしかないのだ。そしてその会話の仕方が、周りへの受けがいいことも知っていた。でも、楽しそうだな、こうやって話せたら楽だろうな、そんな感情が、どろどろと喉を通って、消化されずに胃のあたりにわだかまる。わたしの胃はチーズ蒸しパンを消化するのに一生懸命で、ほかのことができないのかもしれない。
「雑誌を読めばいいの?」
「正直読んでなくても行けると思うよ、柏崎さん可愛いもん!」
「ありがとう、そうかなあ」
 ふうん、と思った。褒められたときの、ほんの少しの居心地の悪さが、わたしに興味を持たせた。その読モになったら、きっとこの居心地の悪さをもっともっと味わうのだろう。わたしはこの感覚にさっさと慣れてしまいたかった。
 ちょうどその日だった。わたしは学校帰りに、ショッピング好きの同級生がファッションビルで豪遊するのを眺めていた。同級生は似たような服を二着試着し、どちらにしようか考えたいと言ってカフェのテラス席でわたしとティータイムをとっていた。同級生が注文を追加しに席を立っている間のことだ。
「きみ、可愛いね」
 こういうときに、わたしはひとを睨めたらよかったのに、と常々思っていた。席に座ったまま見上げると、スーツの中年男性がひとりでわたしの近くに来ている。慣れた手つきで名刺をわたしに差し出す。
「モデルとか興味ない? きっと……」
「ちょっと!」
 同級生だった。ケーキ二個とお茶とフラッペの乗ったトレイを持って、その怪しげな男性に速足で歩み寄った。
「何の御用ですか!」
 質の悪いナンパか何かだと思ったのか、同級生はものすごい剣幕だった。わたしがどうにかされると、お茶の相手が居なくなって困るのかもしれない。確かにそのケーキは大きいし、ひとりで食べるのは気が引けるだろう。
「失礼しました」
 スーツの男性はそんな扱いにも臆せず、テーブルに名刺を置いてすたすたと去っていた。
「アミナ大丈夫?」
「うん……」
「なにもされてない? ナンパ?」
「なんだろうね、モデルって言ってた」
「マジで? スカウトじゃん!」
 同級生は打って変わって、トレイをテーブルに置き、向かいに座ると、満面の笑みを浮かべて名刺を手に取り、眺めはじめた。
「ごめんねアミナ、知らないで追っ払っちゃった」
「いいよ、わたしもモデルとか興味ない」
「言ってみたいわー」
 同級生は大笑いした。わたしは微笑んだ。同級生は自然にわたしの前にケーキとお茶を置いた。わたしはただ「ありがとう」と受け取り、マグカップをとった。赤くて甘酸っぱい。ハイビスカスのお茶のようだ。
「でもさ、アミナ、モデル、マジで向いてると思うよ、やってみたら?」
「そうかなあ」
「読モから芸能界とか、割とある話らしいよ。アミナならアイドルとかでもウケると思うし」
 ますます興味がなかった。自分が働くさまが想像できなかった。
「とりあえずその会社の雑誌読んでみなよ。怪しくないならマジでいいと思う」
「そうかなあ……」
「わかったわかった、雑誌適当に買ったげるから」
 同級生は、やれやれ、という風にフラッペを啜った。断る理由もなかったので、ありがとう、と言った。同級生は「アミナはわたしが居ないとだめなんだから」と言った。
 結局、同級生は服は買わなかった。代わりのように、わたしに先程の男性の名刺に書いてあった会社の雑誌を二冊買ってくれた。外堀から埋まっているように感じた。段々と、わたしはモデルとして働く自分を想像し始めていた。とても面倒くさそうだけれど、別に避ける理由もない気がしていた。
 翌日は、学校で任意の講座が開かれた。放課後の一時間を使って、大学へ進みたい生徒にアドバイスをくれるらしい。わたしは進学する気でいたので、出席することにしていた。出席者は二名だけらしい。まだ高校一年生だ、仕方ないかもしれない。
 わたしのほかには知らない男子生徒だった。見るからに真面目で、四六時中教科書を読んでいるような雰囲気だ。わたしが講座の教室に入ると、少し目線を上げて、どうも、と会釈をした。わたしはにっこり笑って、こんにちは、と言った。男子生徒はすぐに教科書に視線を戻した。わたしはふたつ隣の席に座った。窓が近い。この席ならば、逆光で黒板が見えないということもないだろう。
 講座自体は、正直なところ、たいしたことはなかった。常識の範囲内の話と、ちょっとした宿題が出て、例題だから解いておいて次回の講座に出るように、とのことだった。
 男子学生は遠方から来ているようで、講座が終わるとすぐに電車の定期券を学生鞄から取り出しながら、下校していった。
 わたしは、家で勉強をするのが好きではないので、なるべく学校で宿題を終わらせるタイプだ。居残りの許可を得て、例題を解いていた。恐らくは実際の試験の問題だろう、少し難しい。十七時から始めた宿題は、十八時にあのみつせカオルが見回りに来ても終わらなかった。
「柏崎さん」
 わたしはそのドッペルゲンガーの声を聴き、大きな後悔に襲われた。どうもこの教育実習生と話すのは、先程の宿題以上にわたしには難しいのだ。
「そろそろ下校の準備をしてね」
「わかりました」
 わたしは渋々下校の準備を始めた。宿題を家に持ち帰るのは、わたしには本当に億劫なことなのだ。
 帰りは誰を誘って夕食をとろうか。携帯電話の連絡先を眺めながら席を立つと、ドッペルゲンガーはわたしを呼び止めた。
「これ、柏崎さんのかしら?」
 見ると、机の横にかけておいた本屋のビニール袋だった。うっすらと、化粧の濃い女のアップの顔と、大きなフォントのタイトルが見える。
「そうです。ありがとうございます」
 わたしは一刻も早くこの場を去りたかった。ドッペルゲンガーに読者モデルの話なんて振られたくなかった。わたしはそれを恥と思っていた。
「柏崎さんも、雑誌を読むのね。私服は見たことがないけれど、きっと素敵なんでしょうね」
 違和感があった。この女は、本気でわたしを褒めていない。
「モデルとか、やってるの? いいかもしれないわね」
 違和感は更に募る。
「インテリ系の美少女モデルとか、本当に素敵だと思うわ」
 なんだろう。語調が、聞いたことがないものだった。
「そうなら、学校にもあんまり来なくなるのかな。ただでさえ教育実習は短いのに、会えなくなっちゃうわね」
 はっとしてドッペルゲンガーの顔を見る。彼女に感じた違和感は、寂しさだった。彼女は、わたしがその道に進むことを、寂しがっている。
「先生……」
 わたしは言葉に詰まった。ひとを寂しがらせてしまった。いや、それ以上に、わたしは自分のドッペルゲンガーを寂しがらせてしまった。つまり、わたしは自分で自分を寂しくさせているのだ。
 寂しさなんて、覚えていないくらい昔にしか感じたことがないようなものを、わたしは今、目の当たりにしている。
「なあに」
「帰り、駅に、います」
 それしか言えなかった。先生がサンドイッチだと言って渡してくれた定期券は、まだわたしのバッグの中にあった。
 そのまま逃げるように学校を出た。駅の改札付近で立って彼女を待つ。下校ラッシュの人の多さにも彼女はいなかった。そのあと少しひとがまばらになり、社会人たちの帰宅ラッシュが始まる。先程の下校ラッシュ以上の人の量だ。わたしは人の邪魔になりながらも、ずっと彼女を待った。待たなければならない気がしていた。彼女が来るという確信もあった。
「アミナちゃん」
 呼ばれた気がした。辺りを見回す。
「アミナちゃん!」
 先生は、人波を縫って、サラリーマンに引っかかりながらも、急いでわたしのほうに走ってきた。
「先生」
「行きましょう」
 先生は寂しさを拭えないままの表情をしていた。わたしはどうしようもない気持ちになった。胸が苦しい。気管支が握りしめられているようだ。なぜこんな気持ちになるのか、考えても判らなかった。次にわたしは、寂しさについて考えた。これもまた、判らなかった。代わりに、先程の宿題にあった、数学の証明問題の答えをひらめいた。どうだっていいことだった。わたしは目の前の存在を、寂しがらせたくないと思っていた。
 先生がわたしの手を引っ張る。そうでもしないとはぐれそうなのだ。そのままなんとか電車に体を押し込み、数駅で降りた。あっという間だった。そうだというのに握った手が汗で滑りそうだ。
「こっちよ」
 先生が駅からリードしてくれる。辺りはすっかり暗い。もう二十一時を回っているだろう。
 先生のアパートは駅から十分ほどだった。
「散らかっているけれど、入って」
 先生は鍵を開け、先に家に入って電気をつけた。ワンルームのアパートで、びっくりするほど物がない。目につくのはデスクの上の薄っぺらいノートパソコンと、横の作業中らしい整頓された書類くらいだ。
 それを見て、わたしは彼女に抱いていた感情を知った。共感だ。彼女は、わたしとあまりに似ている。性格や外見ではない、部屋の形や家の立地でもない。本質的に、考え方が似ているのだ。わたしが感じていた幻覚のような世界の見方だとか、何かを本気で手に入れるために手段を選ばなかったりだとか、そういう部分だ。こんなに娯楽がない家だ、精神的に何かを得ていなければ、日常を送ることが苦痛になるだろう。もしかすると、既に先生は苦痛の中で生きているのかもしれない。ちょうど、今のわたしと同じように。
「夕ごはんはまだ?」
「はい」
「ツナサンドは嫌い?」
「いえ」
「デスクにかけて待ってて」
 先生は冷蔵庫からパンとマヨネーズを取り出し、引き出しからツナ缶とボウル、ホットサンドメーカーを拾い上げ、手早くツナサンドを作ってくれた。
「わたしの分はあとから作るから、先に食べていて」
「いただきます」
「召し上がれ」
 先生のデスクで、緊張しながらツナサンドを食べた。久しぶりに誰かの手料理を食べた。甘い味がした。おいしいと思った。忘れていた感覚だった。体から力が抜ける。なぜか涙腺も緩みそうになり、理性が理由を探した。見つけられなかった。
 高校の面子でとる食事と違って、とても静かな時間だった。ホットサンドは冷める前にすべて食べ終わってしまった。先生は自分の分を作るわけでもなく、ただベッドに腰かけてわたしを見ていた。この家には椅子がひとつしかない。
「ごちそうさまです」
「お粗末様」
「おいしかったです」
 その言葉を言う否や、だめだった。涙があふれて止まらない。先生が抱きしめてくれる。一緒にベッドに腰かけ、先生はわたしが落ち着くのを待ってくれた。泣きながらいろんな暴言を吐いた気がする。モデルになんかなりたくない。みんなみんな馬鹿ばかり。みんなみたいに何も考えず好きなように楽に生きたい。
「それでいいのよ」
 先生はただ繰り返した。それでいい、それでいいのよ。落ち着いた声だった。
 涙が収まると、不思議とすっきりとしていた。
「流れに、逆らえないのね」
「そうなんです」
「そっかあ」
 先生は、少しの沈黙の後、照れた風に笑いをこぼした。
「わたし、本当にアミナちゃんの先生やるの、やだなぁ」
「……先生も、流れに逆らえないんですね」
 先生は一瞬ぽかんとしたが、すぐに「そうみたいね」と笑った。
 安心した。
 このひとは、敵ではないのだ。
「じゃあ、先生の教育実習が終わったら、逆らわずに会えなくなっちゃうんですかね」
 言った後、言葉がひどく嫌味ったらしく感じられた。わたしなりの寂しさの表現だったが、あまりに拙い。
「アミナちゃん次第よ」
 しかしながら先生は余裕をもってそう言ってくれた。わたしの嫌味ともとれる言葉をものともしない。
 その時に、みつせカオルをドッペルゲンガーから卒業させた。みつせカオルが、自分より大人であることを知ったように思う。




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