寵教師

入学式のストレンジ



 変な大学に入ってしまった。
 入学式は、学生ひとりひとりにつく担任とふたりきりで行うという。
 また、全寮制と謳われるその寮に入ってみると、ダブルベッドが真ん中に鎮座ましましているホテルにしか見えない部屋が、廊下にずらと並んでいるようだった。そして寮は担任とふたりで使うという。これではまるで同棲だ。
 けれど希望もある。俺の担任は、俺が浪人している間のピアノコンクールで俺に賞をくれた、利府アキマサ先生なのだ。俺を覚えていてくれるかはわからないが、それでもいい。この変な大学で唯一心を許せる存在が知っている人物だというのは、とても心強い。
 俺はベッドに腰掛けて、きょろきょろと寮を見回していた。入学式まであと4分もある。
 しかし、部屋にピアノがない。本当に俺はここでピアノを学べるのだろうか。
 そのとき、こんこん、とノックが響いた。
 利府先生だ。きっと利府先生だ。俺は緊張に背筋を伸ばして、ドアまで走った。
 ドアを開ける。気管支が苦しいほど心臓がポンピングしている。
 そこに居たのは、しかしながら、先生ではなかった。
「初めまして」
 やや赤いがつやがあり真っ直ぐな髪をポニーテールにした背の低い女子が俺を見上げていた。
「柏崎アミナと申します。隣の部屋なのでご挨拶に参りました。こちら、つまらないものですが、召し上がってください。よろしくお願いします」
 アミナはウサギの柄の紙袋を両手で差し出した。
「あ、ありがとう。あの、ごめん、俺こんな寮だって思ってなくて、何も用意してないんだ。でも、仲良くしてくれるか?」
「いいともーです! もちろん仲良くしてほしいです」
 アミナがぷるんとした唇を横に伸ばし、魅力的に笑った。
 可愛い。とても可愛い。しかも礼儀正しくて、俺に対して敬語、でも固くなりすぎず茶髪で、胸はさほど大きくないけれどハイウエストスカートがよく似合っている、非処女感は漂っているが、このアミナという子は絶対にイイ身体をしている、しかも隣の部屋、これは期待できる寮だ、そうに違いない。
 カーペットを踏みしめる音が聴こえて、鼻の下を伸ばしていた俺は邪魔されることに少し苛立つ。その靴音は隣の部屋で止まった。
「アミナちゃーん! あれぇ、アミナちゃん? いないのぉ?」
 ドアをノックしながら、というか最早キツツキのようになりながら、グラマーな体型をぴっちりしたカットソーと膨らんだスカートに包んだ女性がアミナを呼んでいる。
「じゃあ、失礼しますね」
 アミナが俺に小さく礼をして、その女性に駆け寄った。
「カオル先生、お久しぶりです」
「あらぁアミナちゃん、お外に居たのね。入学式を始めるわよ、部屋に入りましょ」
「はい」
 アミナとカオルが隣室に入る。
 この廊下は、もとから静かだった。しかしアミナの控えめな声がなくなるだけで、こんなにも物悲しい静かさになるものなのだと思い知った。
 利府先生は、まだだろうか。俺は廊下を見渡す。
 いない。
 少ししょんぼりしながら、俺は部屋に戻ることにした。
 ドアを開けると、内線の電話が鳴っている。
 俺は慌てて受話器を取った。取ったはいいものの、何を話したらいいかわからず、息を吸っては止め、吐き出して、また吸い、という動作を2回繰り返した。
「……赤羽くんかな?」
 受話器から、電波状況が悪いのか、ひずんだ声が聴こえた。
「はい、赤羽キヨラです」
 俺の声は弾む。この声は知っている。
「利府アキマサです。赤羽くん、入学式を始めたいんだが」
「はい!」
 利府先生だった。しかも俺の名前を憶えてくれた。嬉しくて仕方なくなって、元気のいい返事が出る。
「女の子との用事はもう済んだかな?」
 見られていたのか。遠慮させてしまっただろうか。
「赤羽くんがあんまり楽しそうだから、声をかけるのが申し訳なかった。しかも赤羽くん、さっきの子……柏崎くんのこと、気に入ったんだろう」
 利府先生は、段々と声を細くしていった。なんだろう、昔、女の子を振ったときと同じような雰囲気だ。違うのは、あのときと違い、うざったさを感じないこと、それどころか、見ていてくれたのだという喜びすらあったということだった。
「ええ、まあ……好みのタイプだったので」
「赤羽くん、今から僕が入学式を行いに行ったら、迷惑かな?」
「えーそんなまさか!」
 俺は思わず笑ってしまったが、先生は冗談を言ったわけではなかったらしい。少し沈黙があって、そのあと利府先生はようやっと困ったように笑う。
「……赤羽くんが今、性欲に苛まれていないのなら、それでいいんだ。これは冗談だよ」
「セクハラですって!」
「あっはは」
 利府先生は高めの声で笑ってくれた。
「赤羽くんが過ごしやすい学生生活になることを祈っているから、柏崎くんとも仲良くするといい。じゃあ、入学式を始めよう」
「はい! ……え、電話でですか?」
 部屋に3回のノックが響いた。
「恥ずかしい話、ずっと部屋の前にいたんだ。こんなたちだから、僕は学生に怖がられている。赤羽くんは僕を怖がらないでくれるといいのだけれど」
「き、切ります!」
「うん。怖かったら逃げるといい」
 利府先生の言葉も半分に電話を切り、ドアまで走って鍵を開け、思い切り引き開けた。
「利府先生!」
 俺の呼びかけを聞くが早いか、利府先生はドアが開くのにぴったり合わせるようにするりと部屋に滑り込み、俺を抱き締めた。俺のほうが少しだけ身長が低い。
「利府先生……?」
「アキマサ、でいいよ。敬語も要らない」
「アキマサ先生……」
 アキマサ先生が俺の後頭部を押さえている手が少し震えている。密着する身体からは高く速い鼓動が伝わってくる。
「赤羽くん……どうしよう、緊張する」
「緊張? 先生なに緊張してんの。俺のほうが緊張するべきなのに」
「赤羽くん、入学式の内容は知っているかい」
「え……?」
 何も聞いていない。
「なにか、大変な式なのか?」
「大変だよ」
 俺は固唾をのんで先生の続きを待った。
「向かい合って、祈るんだ」
「……祈る?」
「相手の幸せのために、祈る。でも僕は多分、自分の幸せのために祈ってしまう。そんなことをしたら僕は教師失格だ。せっかく赤羽くんと会えたのに、離れないといけないなんて嫌だ」
「待って、先生、待って、祈るってなんだ? ここは音大だろ? 祈る? は?」
 俺は完全に混乱していた。
「そっか、音大だと思っていたんだね……」
 先生は俺と身体を離した。左頬に先生の手が触れる。
「ここの学科名は面倒くさいからね。教響学科は、誤解を恐れず平たく言うと宗教みたいなものを身に着ける学科だよ。教えに共鳴することで、コミュニケーション能力を鍛える。就職先は様々だ。コミュニケーション能力さえあれば、大抵の職場には何らかの形で関われる」
「……じゃあ、アキマサ先生からはピアノは習えない?」
「赤羽くんが望むのなら休み時間にでも教えよう」
 俺は少し落胆してしまった。俺は音楽をやりたくて入学したのに、まるで詐欺だ。よく調べなかった俺も悪いけれど、けれど。けれど、の先がない。俺が悪いのだろう。先生がつらそうな顔をしている。自分のせいだと思ったのかもしれない。そうだよお前のせいだよ、と、混ざり合う感情のうちのひとつは叫んでいたが、客観的にも、主観でさえも、俺がノータリンだったせいだ。
「赤羽くん。赤羽くんは、何を祈る?」
 思考を読んだように、先生が問う。
「アキマサ先生が、これ以上の詐欺をしませんように」
「なんて答えだ」
 先生は完全に体を離してくすくすと笑った。冗談が受け入れられて、俺も可笑しくなって一緒に笑った。
「先生は何を祈ってくれるんだ?」
「ひみつ」
「なんだよ!」
 先生は額を押さえて大声で笑い出した。俺もつられて笑う。
「ときに、赤羽くん、赤羽くんは今20歳だね?」
「ああ」
「じゃあ、僕は怒られないで済むわけだ」
 何のことかわからず、俺はきょとんとした。
「赤羽クンガ僕ノ調教ニ耐エラレマスヨウニ」
「ん? 先生、今なんて?」
「きちんと祈ったよ」
「聞こえなかった」
「言霊には伝わったから大丈夫」
「気になる」
「一緒に楽しくやろうねっていうことを、少し僕らしく表現しただけだよ」
「なんだ、びっくりした。なんかの呪文かと思ったよ。俺も一緒に楽しくやりたいし、一緒に祈らせてくれよ。ちゃんと真面目にやるからさ」
「うん、じゃあ、僕の言うとおりにするんだよ」
「もちろんだ」
「いい返事だ。できるだけ優しく教えていくからね」
「ああ」
「赤羽くんと僕が、あるべき関係になれますように」



 その『あるべき関係』というのは、あの頃の俺には予想もつかないものだった。
 先生はあの時からもう、俺とこうなりたかったんだ。
 あるいは先生は、今の俺達よりもっと遠くの『あるべき関係』を見ていたのかもしれない。
 俺たちは随分と変わった。


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