寵教師

戸惑




 それからわたしは、十九時ころ、よく勝手に先生の家に遊びに行った。そうでもしないと繋ぎ止められない関係だった。連絡先を交換していなかったので、わたしから動かないと、二度と会えないような気がしていた。先生はきっと、わたしがいなくなったら、また出会い系アプリで危ない遊びを始めてしまう。
 けれど、高校一年の冬、わたしはインフルエンザに罹り、家に二週間近く居なければならなかった。気が気ではなかった。先生が心配だった。軋む関節も暑苦しい布団の感触も、確かに苦しかったが、ずっと先生のことを考えていた。
 例の出会い系のアプリケーションで先生に連絡をとろうかと思ったが、メッセージはこれ以上は課金制で送れないとアラートが出てしまった。無論、インフルエンザではカードは買いに行けない。
 そんなことがあったので、インフルエンザを治して三日ほど経った、自宅療養が終わった日、先生に連絡先を訊こうと決めた。久しぶりに学校へ行き、快気祝いと称されたもらいもののお菓子はワインレッドの携帯エコバッグに入れるほどたくさんになった。先生と一緒に食べようと思い、わたしは今日も、サンドイッチと呼ばれた定期券で先生の家へ向かう。
 十八時半、先生の家のチャイムを鳴らす。でも先生はパッと見てわかるほど、げっそりとしている。しかしながらわたしを見ると、花が咲いたように元気になった。
「あら、アミナちゃん、久しぶり」
「お久しぶりです」
「入って。あ、いや」
 先生は慌てたように、そして恥ずかしそうに、あのね、と言った。
「スーパーマーケットまで、デートしようか」
 たぶん、わたしの夕ごはんを買おうとしてくれているのだ。わたしはこういうときに、普段は遠慮などしない。けれど、先生は見るからに具合が悪そうなのだ。わたしもインフルエンザ明けなので、体調不良のつらさは心得ているつもりだ。
「わたしのごはんなら、大丈夫ですよ」
「ううん。わたしもおなかがすいたから」
 先生なりの気遣いだろうか、そんな風に食い下がられたら、わたしがどうこう言えることではない。気遣いを断ることは、往々にして関係を悪くする。
「じゃあ、行きます」
 言うとおりにすることにした。先生はほっとした表情をした。
「アミナちゃんが来てくれてよかったわ」
 先生は意味深長にそう言って、紺のピイコートを着た。白いハイネックのセーターにもよく似合っていた。黒いタイツの上の靴は、いたって普通の黒いパンプスを選んだ。わたしは下校後なので、制服とローファー、紺のハイソックスとコート、落ち着いたトリコロールのマフラーだった。


 先生の家からすぐのところに、小ぢんまりとして、ひとの少ないスーパーマーケットがあった。わたしが先生にいつもご馳走になるサンドイッチの具材を買うのかと思ったが、先生はぽいぽいとたくさんの商品を籠に入れていく。フランスパン、燻製のソーセージ、シュレッドチーズ、白ワイン、小麦粉、ブロッコリー、イチゴの乗ったミルフィーユ。
「いっぱい買うんですね」
「ごめんね」
 わたしは責めたつもりはなかったので、きょとんとして謝り返すしかなかった。
「こちらこそ、急に押しかけてごめんなさい」
「いいの。来てくれてよかった。今日はクリスマスパーティーでいい?」
 そう訊かれたときには既にセルフレジでの会計が終わっていた。わたしは「はい、嬉しいです」と言った後、言葉を探した。なにか可愛げのあることを言えればいいのだけれど、うまく思いつかなかった。ただ、クリスマスを二週間も先取りしてお祝いできることが、楽しみな気持ちもあった。何より、好きなひととクリスマスパーティーができることが幸せに感じた。
「もうそんな時期ですか」
「そうよ。チキンレッグも売っているけれど、わたし、クリスマスパーティーくらいは、アミナちゃんに手料理を食べてもらいたい」
「いつも手料理をご馳走になっているのに」
「サンドイッチのこと? ねえ」
 先生はぷんすかと怒った。
「今日は腕によりをかけて作りますからね。サンドイッチくらいがわたしの本気だと思ったらだめよ、アミナちゃん。こう見えて、ひとり暮らし長いんだから」
「はあいごめんなさぁい」
 ふたりで笑いあう。いいクリスマスパーティーになりそうだ。


 家に着くと、先生はすぐに食事の準備を始めた。後ろ姿が、やはり少し痩せたように思う。
 デスクの上のパソコンを片付け、いつの間にか増えたもう一人分の椅子を、先生はわたしに勧めた。椅子はわたしのために買ってくれたのかもしれない。デスクのチェアと同じデザインだったが、新しいことがわかる。
「先生、少し痩せましたか」
 小さな鍋でチーズと小麦粉、ワインを溶かしている先生の後ろ姿に言う。
「そうね……アミナちゃんが来なくなって、もう来ないのかなって思ったら、食べる気力がなくなっちゃって」
 先生はその言葉を言おうかどうかとても迷ったようだったし、わたしも反応に困ってしまった。
「ごめんなさい、わたし、インフルエンザに罹っていて」
「インフルエンザ?」
 とてもびっくりした風に、先生がこちらを振り向いた。
「アミナちゃん、家でひとりでしょう? 無事でよかった……」
 よく知っているものだ。わたしの家は医療系の共働きで、親の出張も勉強会も多い。親は病院の手配だけして、出張へ行ってしまっていた。うつすわけにもいかなかったので、そのほうが気は楽だった。
「はい、ずっと連絡せず、ごめんなさい」
「連絡先、交換してなかったものね」
 食べたら交換しましょうね、と、先生は言った。異論はなかった。
 先生は固形燃料と鍋の支えを組み立て、上に鍋を置いた。チーズフォンデュだった。
「先生、お料理、こんなにできたんですね」
「簡単なものだけね。でも普段はサンドイッチよ」
 先程と打って変わって謙虚にそう言った先生はわたしの向かいに腰かけた。きっと先生は、本来は謙虚なひとなのだ。
 独特のフォークで一口大のパンを刺し、チーズにくぐらせる。芳醇な白ワインの香りが脳を酔わせる。
「いただきます」
「召し上がれ」
 胸のあたりが温かくなる。とてもおいしい。いくらでも食べられそうだ。
「おいしいです」
「よかったわ」
「でも、いいんですか? 先生、ひとり暮らしでしょう。こんな豪華なお食事」
「最近食べていなかったから食費は浮いているし、恋人とのディナーに、お金に糸目をつけるつもりはないわ。あと、たぶん思っているほど高くないわよ」
「こんなにおいしいのに」
「手前味噌だけれど確かにおいしいわね」
 先生はチーズにソーセージの燻製を通し、おいしそうにハフハフと頬張っている。ほんのりと、これが幸せってものなんだな、と思った。


 チーズフォンデュもミルフィーユも食べ終わり、ひと息ついたところだった。
 先生の家にはテレビがない。空白の時間はあくまで空白だ。しかしながらわたしはその空白が、とても居心地がよく感じられていた。
「いっぱい食べました」
「もっといる?」
「もう入りません」
 ふたりでただくすくすと笑いあうだけの時間が、ずっと続けばいいと思った。
「連絡先、交換してもいいですか」
「ああ、そうだったわね」
 先生が忘れていた風に、立ち上がってバッグまで携帯電話を取りに行く。わたしは少し違和感を覚えた。先生はわたしの連絡先を知りたいと思ってくれていないのだろうか?
「アミナちゃん」
 不意打ちだった。先生はデスクに腰かける途中で、わたしの頬にキスをした。
 何事もない、と思えればよかった。
 けれどわたしは、そんなことをされるのは、初めてだったのだ。
「ごめんなさい!」
 なぜ自分が謝っているのかわからなかった。なぜ椅子から立ち上がったのかわからなかった。なぜコートも着ずに外に出たのかわからなかった。なぜ走っているのかもわからなかった。自然と涙が出てきた。寒い。皮膚の裏は熱い。自分は何をしているのだろう。かろうじてポケットに入っていたスマートフォンを、とりつかれたように操作する。指先は当たり前のように、この駅の近くに住んでいる男子生徒へメッセージを送信していた。その男子生徒ではなくたってよかった。むしろ、きちんと話すべきなのは、あの、放っておけない女性のはずだった。
 男子生徒はすぐに来てくれた。不良気味の彼の明るい髪色ですぐにわかる。
「柏崎さん」
 わたしはその男子生徒に駆け寄り、胸に縋りついて泣いた。
 男子生徒は驚いていたが、何も訊かずにわたしを待ってくれた。
 涙は止まらなかった。
 わたしはこんな風に、身勝手にひとを利用することはできても、身勝手にひとを愛することはできないに違いない。
 泣いているせいだけでない震えが男子生徒に伝わり、彼は言った。とりあえず喫茶店に入ろう、コートも着てないじゃないか。わたしはただ何度も頷いた。涙は止まらなかった。
 いつの間にひとに感情を見せられるようになったのだろう、と、どこか冷静な頭が考えていた。
 誰もかれも幻覚に思えていたころの感覚は、もう思い出せない。


 喫茶店は、涙が止まらないわたしと、一見不良じみた風貌の困りきった男子生徒を、奥の席に入れてくれた。修羅場だと思ったのかもしれない。
 優しくされればされるほど、つらかった。裂傷だらけの体で三十八度のぬるま湯に浸かっているように、しみいる優しさの感触は鋭い痛みを伴った。
 男子生徒はホットコーヒーをふたつ注文した。わたしはしゃくりあげるのが少しましになっていた。
「それで、どうしたの、柏崎さん」
「あのね」
 泣きすぎてカエルが死んだような声しか出なかった。
「恋人が、わたしを愛そうとしている」
 男子生徒は何も言わなかった。涙で見えなかったが、状況が理解できずに困っていたのかもしれない。
「今日、久しぶりに恋人に会って」
「インフルエンザだったもんね」
「クリスマスのパーティーをして」
「そんな時期か」
「キ……キス……」
 涙がぶり返してきて、唇をかんだ。それでも涙はぼろぼろとあふれてくる。
「ひどい」
 泣きながら、やっとのことでそんなことを言った。何がひどいのかわからなかった。でも、心の中は、あのみつせカオルを責める気持ちでいっぱいだった。ひどい。それしか出てこない。
「なに、レイプ、とか?」
 男子生徒は声を潜めた。わたしは涙が飛び散るほど横に首を振った。
「キスされたの!」
 わたしはやっとの思いでそう叫ぶと、またわあわあと泣き出してしまった。
「ええと……無理矢理……とか、じゃ、ないんだろ?」
 必死に頷く。
「わたしだってキスくらい恋人なら普通にするってわかってる! でも!」
 わたしは一生懸命、自分の涙の原因を探した。探しあてた言葉は、どうも間抜けなものだった。
「わたしを愛さないでほしい……」
 口に出してしまえば、すとんと腑に落ちた。そうだ。わたしは愛されたくない。むしろ、愛のないセックスとか、そのあたりのほうがずっと楽に思えた。
 それを察したのか、男子生徒は少し考えて、あのさ、と切り出した。
「でも、柏崎さん、俺がこれから柏崎さんのことレイプしたら、嫌でしょ。嫌って思えなくても、それはただの意地っ張りだよ。絶対嫌」
 わたしは処女だった。想像もつかないけれど、確かに妊娠とか、そういう取り返しのつかないことは嫌だった。
「たぶん、その恋人のところから走ってきたんだろう。真冬にそんな薄着で、二十二時に俺みたいなのを呼び出すくらい大変だったんだな」
「大変だった。大変だった!」
 涙は止まらない。男子生徒は続けた。
「でも、この件は、たぶん柏崎さんが悪いよ」
 涙がぴたりと止まった。わたしは今までの人生で、自分が悪いと断罪されたことがないに等しかった。
「好きでもないひとと恋人になったらだめだ」
「そう、だよね……」
 納得しかけたが、わたしは自問自答で偽を出した。
「でも、違うの。わたし、そのひとのことが好きなの」
「好きなの?」
「うん、でも、キスされるなんて思ってなくて、びっくりして……」
「愛さないでほしいんじゃなくて、びっくりしちゃっただけだったりしない?」
 考える間をつなぐように、いつの間にか机に運ばれていたコーヒーを、彼はひとくち飲んだ。
「あるいは、愛される前に、準備が必要だったのかもな」
 しっくりきた。その通りだった。ひとこと断りがあったら、キスくらい承諾しただろう。
「そうだと思う……急に可愛がられると、困る」
「柏崎さん、そういうところあるよね。女友達と話してる時も、一歩引いて見てるでしょ。当事者になるって大変なことあるよな」
「うん」
 わたしはすっかり落ち着いていた。その通りだった。この男子生徒は、成績こそよくないが、よく周りを見ている。感謝と驚きがあった。
「あのひとも、それくらいわたしのこと、見ててくれればよかったのにね」
「俺はゲイだから冷静に見られるけれど、恋愛対象になっちゃったら、それは見えないよ。好きになるほど見えないところってあるよ」
「ゲイなの? わたし、今お付き合いしているのは女性なの」
「よかった。柏崎さんみたいなひとに惚れられたらどうしよう、困る、と思ってた」
「どういうこと!」
 軽口をたたいて笑いあうことができた。
「そのひとのところにひとりで帰れる?」
「うん。ありがとう」
「ここは俺が持つから。柏崎さん、財布も持ってないでしょ」
「うん……本当にありがとう」
「じゃあ、お幸せに」
「ありがとう」
 わたしは席を立った。速足で喫茶店を出て、先生の家まで走った。外は痛いほど寒かったが、息が切れて頬の裏側が熱い。
 一刻も早く謝って仲直りをして、先生と一緒にお菓子を食べたかった。
 先生の家のチャイムを鳴らす。ただで済むとは思っていなかった。どんなそしりも甘んじて受けるつもりだった。けれど、先生は出てこないし、中で何かが動いている気配もなかった。ドアノブをひねっても鍵がかかっている。
 わたしは困り果ててしまった。定期券もバッグもコートも、先生の家の中だ。かろうじてあるのは携帯電話だけだ。汗が冷えて寒くなってきた。病み上がりにはよくないだろう。先程のゲイの友人の家に泊まらせてもらうしかないのだろうか。
「アミナちゃん……?」
 途方に暮れていると、後ろから声をかけられた。
 紺のコート。ボリュームのあるショートヘア。みつせカオルだった。
「先生」
 引いたはずの涙がまたあふれてくる。
「ごめんねアミナちゃん、寒かったわよね、今開けるから……」
「ごめんなさい、先生、ごめんなさい、わたし、ただびっくりしてしまって」
「中に入りましょう、ゆっくり話ができるように」
 先生は大量のコンビニエンスストアのビニール袋を両手に持っていた。中には菓子類がたくさん入っているようだった。重たい袋を持ったまま、先生はやっとのことで家の鍵を探しあて、開けてくれる。
 靴を脱いで、デスクに腰かけた。先生は袋を椅子の真横に置き、単刀直入にわたしに訊いた。大丈夫?
「大丈夫です。先生、ごめんなさい、わたし、初めてでびっくりしてしまったんです。びっくりして、怖くなってしまった。ごはんもご馳走になって、幸せなことをたくさん味わって、キスもされて、きっと嬉しかった。でも、わたしはどうしたら先生におなじくらいの幸せを返せるのかわからなくて、愛されるのが怖かったんです」
「そうだったのね」
 先生はただ穏やかに微笑んでくれた。
「ごめんね、アミナちゃん。サプライズにしては、悪ふざけが過ぎたかな」
「こちらこそ、あらかじめ覚悟しておくべきでした」
「いいのよ。これからは、お互い気を付けましょう」
 先生は、さて、と、わたしが持ち込んだ菓子と、先生が買い込んだ菓子を眺めた。
「待っても待ってもアミナちゃんが帰って来なくて、諦めかけていた。たった五分くらい、ちょうど出ていただけだったの。やけ食いしようと思ったのだけれど」
「一緒に食べましょう」
 わたしは持ち込んだチョコレートクッキーの袋を開けた。
「まだ入るの? 意外と食べるのね」
「先生だって買ってきたじゃありませんか」
「わたしのは、だって、やけだったんだもの」
 そうそうそれより、と、先生は訊いてきた。
「もう終電もないでしょう。泊まっていくわよね?」
「はい」
「変なことはする前に許可を取るから」
「信じています」
「可愛いわね」
 先生は笑った。わたしも笑った。
 クッキーを口に運ぶ。寝ている間に、びっくりする暇もないくらい、先生と仲良くなれたらいいのに。思っても、お風呂は別だったし、翌朝まで心地よく先生の隣で、目覚ましに起こされるまで眠ってしまった。





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