寵教師

ホンモノ



 赤羽キヨラという後輩がいる。赤羽の異常性に気付くのは簡単だった。この大学の制度で学生ひとりにつきひとり当てられる担任が、ファーストネームで呼ばないのだ。担任は普通、この大学の目的である、コミュニケーション能力のブラッシュアップのために、ファーストネームで学生を呼ぶはずだ。そこに気付いたのが始まりだった。これは、いかがわしいにおいがする。その興味が募っていた。赤羽キヨラへの興味はそこから始まったと言ってもいい。
 そこで試しに、キヨラ、と呼んだことがあった。そのとき、赤羽はさして変な応対をしたわけではなかった、しかし俺はそこで赤羽には感じなかった肉欲を、なぜかキヨラに感じた。それは、たまたま初めて彼の担任、利府アキマサですら呼ばないようにファーストネームで呼んでドキドキした、とか、赤羽キヨラの秘密を暴きたかった、とか、そういうものはどうでもよくなる、あからさまなキヨラへの欲情だった。利府アキマサもは夜はキヨラと呼んでいるだろう、そんな妄想までした。
 そして赤羽キヨラと彼の担任を見ているうちに、それは妄想ではなく確信になっていった。利府アキマサの口が、『キヨラ』と動いたように見えることが、ときたまあった。そして赤羽キヨラが嬉しそうにするのも見てしまった。あまりに観察しすぎて、利府アキマサと目が合ったことすらあった。
 それ以来、俺は赤羽キヨラをわざと『赤羽』と呼ぶようにしている。『キヨラ』が怖い。次に『キヨラ』と呼んで再び欲情してしまったら、俺は彼を無理矢理にでも組み敷いて、彼の担任、利府アキマサから奪い取りたくなってしまうだろう。
 そんな中のある日だ。俺は軽音楽部の部長をやっているので、音楽室に馴染んでいる。赤羽もいつの間にか溶け込んだ。日比谷ユウヤと柏崎アミナと俺の3人が主な話し相手だが、赤羽は日比谷と柏崎の会話に加わらないこともある。日比谷と柏崎はあまり倫理的な関係ではないので、赤羽の第六感が働くのかもしれない。そういうとき、俺は堂々と赤羽キヨラの隣に行って、ウィダーを飲み込むことができる。
「部長、それ、好きなんですか」
 赤羽が俺のウィダーを見ながら話しかけてきた。赤羽は軽音楽部の部員ではないが、日比谷も柏崎も俺をそう呼ぶので、うつってしまったのだろう。今は日比谷と柏崎は、日比谷が持ってきた大きな未開封のショップバッグを柏崎が開けて、「これ欲しかったんだあ」「でしょ! 絶対欲しいし絶対似合うーって俺のなかのアミナちゃんが叫んでたんだ」と騒いでいる。
「好きっつうか、俺あんま食欲ねえほうなんだよ」
「もしかして朝と夜も?」
「朝は野菜生活。夜はヨーグルト。完全食だろ」
「担任の先生はなにも?」
「おまえんとこみたいにずーっとべったり居るわけじゃねえからなあ、俺のところは」
 赤羽は斜め下を向いて少し考えた。赤羽の考える時間は、なんとなく、待っていてもいらいらしない。
「食欲なくても、甘い物なら入りませんか」
 痛いところを突いてくる。実は俺は甘いものが好きだ。なんとなくそれだけのことが言い難い世の風潮だけれど、野菜生活はトマトよりもキャロット派だし、ウィダーもブドウ糖の味がするから好きだ、やけ食いの日はヨーグルトにフルーツを入れる。
「おいしいお店、知ってるんです」
 そういうことがあって俺は、校門前の木陰で、こうやって赤羽キヨラを待っている。まだ15分も前だ。好奇心が俺を急かしていた。赤羽キヨラとふたりきりで話したら、なんとなく赤羽についても、キヨラについても、つまり赤羽キヨラの二面性について、知ることができる気がしていた。
 赤羽は5分前に走ってきた。
「ごめんなさい、部長、俺もしかして時間間違えました?」
「11時半だろ。今11時25分。常識的でいいんじゃねえの」
 俺は容赦なく照りつける日光を睨んだあと、赤羽と視線を結んだ。
「あと、『部長』は今日はおやすみだ。黒松タカユキの相手をしてほしい、赤羽」
 赤羽はなぜか「ありがとうございます」と言った、おそらく反射だろう、そして少し間を置いて「黒松先輩」と呼んでくれた。可愛い後輩だ。
 自然と歩き出す。店はすぐそこだ。11時からランチが始まるという混む時間に予約をとるほどの執念がなかっただけで、別に店の前で待ち合わせても構わない距離だった。
「アキちゃんはよくお出かけ許してくれたな」
 利府アキマサの話を振ると、赤羽はいつも幸せそうにする。俺のところもこれくらい仲良くできたらよかったのだが、世の中そんなに甘くない。
「黒松先輩はしっかりしているから、だそうです」
 敵認定されていないということだ。情けなくもあり、なぜか安堵もあった。安堵は、赤羽キヨラについて知りたいが、深く関わってはならないと、心の神経のひとすじが叫んでいたがゆえだった。
「ああ、日比谷先輩とアミナも、今日の店、気に入ってるみたいですよ」
「そうか。あとでしめる」
「え? えっ?」
「柏崎はまあ許してやる」
「えっ、なんでしめるんですか」
「俺、甘いもの、好きなんだよ」
 慌てていた赤羽があからさまにほっとした顔をする。俺の意地っ張りだとわかったらしい。
「じゃあ、きっと気に入りますよ」
 赤羽の笑顔はシャッターが切られたように俺の目に焼き付く。
 青信号の横断歩道を渡って、店につく。待たずに入れた。
 並んでいるきらびやかで豪華、上品でおいしそうなケーキや、思わず持って帰りたくなるクッキーやチョコレート、そしていい香りの紅茶、こんなものたちに囲まれて、幸せにならないでいられるだろうか。
 しかしなんとなく迷うのも恥ずかしい。困ったときの鉄則、大きい物を選んでおく。
「俺、決まりました」
 意外と赤羽がすぐに言う。
「早いな」
「前から食べてみたかったんです」
 店員を呼ぶと、ケーキの妖精のような可愛らしい顔をした女性の店員が来た。
「メロンタルトひとつと、レモンティーをアイスで。俺は以上」
 俺が言う。
「ジューシーとろぉり焼きチーズチキンのキッシュと、サンドイッチDプレートをひとつ。冷たいそば茶ください。俺も以上です」
 かしこまりました。店員が品よくお辞儀をして、奥に行く。
「赤羽、意外と食べるんだな」
「なんだか、先生と来るときは遠慮してしまうので。黒松先輩なら、許してくれるかなって」
 赤羽が笑う。そうかアキちゃんとはデートで来ていたのか。複雑だ。
「そのときは、どういうの頼むんだ? ……キヨラ」
「ええと……イチジクのパイとミルクティとか」
 キヨラが笑う。さすがはキヨラ、またずいぶんとギリギリアウトな選び方だ。
 そうしていると、サンドイッチのプレートがまず届く。サンドイッチのほかにサラダとグラタンもついて、豪華だ。おいしそうだが、少食路線の俺にはとても食べられない。
「食ってていいぞ」
「あっ、じゃあ、いただきますね、ありがとうございます、あ、ひとくちどうですか」
 キヨラがサンドイッチを差し出す。
「じゃあ」
 俺はひとくちかじった。キヨラとサンドイッチのイメージ同士が結びつき、キヨラの手からサンドイッチを食べる、それだけのことが、あまりに興奮を煽ってくる。
「……美味いな」
「よかったです」
 どこかで、赤羽キヨラの二面性は、利府アキマサによって作られたものだと思っていた。
 けれど、これはどうやら、違う。作りものは、こんなに精巧でない。
 赤羽キヨラは、見る者によって、見え方が違うのだ。
 赤羽、と呼んで、俺が連想するのは、赤羽という可愛い後輩だ。
 キヨラ、と呼んで、俺が連想するのは、利府アキマサに作られたと思っていたセクシャルな赤羽だけれど、キヨラは初めから赤羽キヨラの中にいたのだ。当たり前のことだ。赤羽キヨラは、赤羽キヨラでしかない。
 俺がキヨラにそういうイメージを持ってしまった以上、キヨラはその通りに見えるのだ。それだけのことだ。
 なぜなら、サンドイッチを頬張るのは、赤羽でもキヨラでもなかったからだ。そういった第三者による作りものではない、普通の大学生、赤羽キヨラだったからだ。俺はまだ、赤羽キヨラというものに、固定のイメージを持っていない。


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