ツガイメギツネ

シイタケのじゅうじゅう



 その日、雑貨屋にはいい香りが立ち込めていた。6月の雨の日のことだった。天候のせいか客は僕以外にいなかった。僕は雨の香りも嫌いではないのだけれど、このいい香りは異質だった。雨よりももっと本能的に『いい香り』だった。
「コタビ」
「……まあ、いらっしゃい保護官。何かお探しなの?」
 レジ横、ゆったり座れるソファにいたコタビは、僕が声をかけると律儀に立ち上がって挨拶をくれた。もしかすると、うとうとしていたところだったのかもしれない。まつげが絡み合って、雨の日独特の眠気を訴えていた。
「いや、何か、不思議な香りがしないかなと思ってねぇ」
「香り……新しく入ってきたボディクリームのアプリコットかしら」
「アプリコット……たぶんもっと香ばしい香りだと思うんだ」
「火事かしら、大変」
 大変、と言いながらもいつも通りゆっくりとした口調で、コタビは「ミタビ」と奥に声をかけた。しかしながら返事がなく、コタビはもういちど、やや大きな声でミタビを呼んだ。そうするとようやく奥から返事が来た。なあにお姉ちゃん、いまシイタケ焼いてるの!
「……だそうです、保護官」
「シイタケ……なるほどねぇ、シイタケはよく焼いて食べるんだよ、かゆくなるからね」
「伝えておきます、ありがとう、保護官」
「いいえぇ、もうちょっとお店を見ていきますね」
「どうぞごゆっくり」
 そうだ、この香りはシイタケが焼ける香りだ。納得がいくと途端に腹の虫が鳴いた。コタビとミタビの店はいろいろな雑貨があるけれど、さすがにシイタケの香りの品物はないようだった。トルテとチリルの食堂に行って、シイタケがあるかどうか訊いてもいいかもしれない。そのくらいには、おいしい香りだった。
 そうやって考えながら店の中をぐるぐると回った。何か買って帰るつもりではあるけれど、まだ何も買っていなくても癒される空間だ。
「お姉ちゃん、お昼だよ」
「まあ、ありがとうミタビ。交代するわね」
「任せて!」
「今日のお昼は何?」
「シイタケの和風グラタンだよ、初めて作ったけれどおいしくできたと思う」
 レジのほうで会話が聞こえた。目があうと、ミタビが来客を心から喜ぶ笑みを浮かべた。
「いらっしゃいませ保護官! 保護官、お昼は?」
「まだだねぇ」
「だったら! もしよかったら召し上がっていかない? チリル直伝のシイタケの和風グラタンなの。シイタケはとってもとっても体にいいんですって」
「そうなのかい」
「そうなの、わたし『シイタケの話』の読書感想文でお小遣いをもらっちゃった」
 知らない書名だった。
「どういう話なんだい」
「ざっくり言うと、シイタケは体にいい、なぜならば食べている間は死なない、そんな話ね」
 どんな話なのか見当がつかないけれど、お小遣いをもらうような課題図書ならば、きっとしっかりした本なのだろう。
「グラタンのアイデアも、そこから?」
「ううん、それは、わたしがお小遣い貰った話をチリルがきいて、レシピを考えてくれたの」
「なるほどねぇ」
「チリルみたいにバーナーで焼き色をつけたりはできないけれど、おいしくできたと思う。これからもいっぱいお小遣いを稼いで、いっぱいおいしいものを食べたいわ。ねえ、どうですか?」
 ミタビが再び昼食を誘ってくれた。僕は乗ることにした。シイタケが嫌いではないということもあったが、何よりも、ミタビが心を砕いて書いた読書感想文の評判を祝いたかったのだ。
「じゃあ、お言葉に甘えていただいていこうかなぁ」
「わあい! じゃあ上がって上がって保護官。わたしは店番があるから、ちょっと待ってね、お姉ちゃん、お姉ちゃあん、保護官にもシイタケわけてあげて! 召し上がっていくって」
 ミタビが奥に声をかけた。少しして、奥からコタビが出てきた。右手の指先に氷袋をあてている。
「お姉ちゃん、どうしたのそれ、大丈夫なの」
「おや、やけどかな、コタビ」
「そうなの保護官。まさかお皿があんなにあっつくなっているなんて」
 右手のやけどは不便だろう。
「でも、大丈夫です。保護官、どうぞおあがりくださいな」
「では、失礼しますねぇ」
 奥に通してもらう。床に物がない。とても片付いた家だった。
「いま用意をしますね」
 コタビが言う。けれど、その焼けた指先では大変だろう。
「コタビ、もしご都合がよければ、僕が用意するよ。おててがひどくなったら大変だ」
 コタビは少し迷ったようだ。けれど、さほど時間をおかずに、お願いしますわ、と言った。
 オーブンから出したらしい鉄板の上で、大きな皿の中にシイタケとマカロニのグラタンがあった。ホワイトソースとチーズの香りも顔をのぞかせる。大きなスプーンと深めの皿を借りて、シイタケのグラタンを取り分けた。そのままテーブルに置かせてもらう。
「ありがとう、保護官。お手数をかけて申し訳がありません」
「気にしないで、おてて、お大事にねぇ」
「ありがとう。しかも、ミタビったらまた強引に誘ったんじゃないかしら」
「いやまさかぁ。僕もシイタケの和風グラタンなんて食べるのは初めてだ。とても楽しみだよ」
「そうなの、ならいただいてしまいましょうか」
「そうしよう、いただきます」
 コタビもいただきますを復唱して、スプーンを手に持った。やけどをしたのは指先なので、スプーンを使うのはさして不便ではなさそうだ。
「保護官、『シイタケの話』はご存知でいらっしゃるの?」
「いや、聞いたこともなかったねぇ」
 こってりと芳醇なチーズの隙間から、あっさりした和風だしの香りと柔らかなシイタケが覗く。こってりとあっさりの混ざり合いで、いくらでも食べられそうだ。
「そうですのね、わたくしもみんなが知らないご本で感想文を書いてもどうしようもないのではないかって話をしましたの。でも、妹は書き上げましたし、あまつさえお小遣いまでもらった。わたくしはあんまり本は好んで選んで読もうとはしないのですけれど、妹は本が好きで、ときどき眩しくなってしまいますの」
 コタビは、ふう、とグラタンに息を吹きかけて、口に運んだ。フリルの生成りの服に頭飾り、さらさらの金髪の少女の小さな口にスプーンが含まれるさまは、どこか神々しかった。
「僕も常識の一環として読んでみようかねぇ」
「妹の選ぶ本はいつも勢い任せですの。2時間くらいお暇なときに、ちょうどいいかと思いますわ。店にもありますので、よろしかったらご覧になっていって。薄い、小さな文庫本です」


「タスキ保護官、珍しいですな、読書ですかな」
 署に戻ると、りりりんに本のことを尋ねられた。今日は平和に雨が降っているだけだ。
「ミタビに教わった本ですぅ、読み終わったら、りりりんもいかがです?」
「ミタビですな、あの子の選ぶ本は勢いがよくて、気付くと2時間くらい経っている」
 りりりんまでコタビと同じことを言った。たぶん、ミタビのことを、コタビくらいよく知っているのだろう。準保護官としてそうやっているりりりんは、きちんとしたひとだなと思う。
 一気に読んだ。なんとなく時計を見ると、2時間経っていた。
「お、タスキ保護官、いかがでしたかな? どんな本なんです?」
「ああ、なんというか、食べている間は死なないシイタケは体にいい、みたいな話でしたねぇ」


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