h2作品タイトル(○○シリーズ)(章)

墓地のらららら



 最愛の兄、メメキを亡くしてから、ムクは自宅にこもりがちになった。
 見舞いに来る僕らやキツネたちを迎えることこそ厭わないものの、学校は忌引きとして休み続けている。
 今日も僕はムクの家にいた。ムクは、彼の趣味らしいクロスワードパズルを、見舞いに来たナナミヤと一緒に、床に座って解いている。日報を書くためにテーブルと椅子を借りている僕も足元が暖かい。床暖房だろう。
「ここはおめえ、『とんずら』よ」
「『とんずら』……?」
「若えもんは知らねえのか。『とんずら』は、たとえば『泥棒が警察の気配を感じて早々にとんずらする』とか、『その彼氏は鬼のような女とのデートで、嫌になってとんずらを決め込んだ』とか……」
「逃げるってこと?」
「まあ、そうさなあ、こう、大胆に逃げる感じだな」
「へえ、じゃあここは『らりぱつぱ』でいいの?」
「ああ、『らりぱっぱ』だな」
 ずいぶんマニアックなクロスワードパズルを解いているようだ。でも、ナナミヤも、そして誰よりムクも、楽しそうで本当によかった。
「ところでムクよお、お前、どこでピアノなんて練習したんだ? 家にねえよな?」
「ピアノ……?」
 ムクがきょとんとしている。僕もきょとんとしていた。
「墓参りのたびに弾いてるだろ、毎晩の夜中の外出についてなら、保護官に隠すことでもあんめえよ、こいつはそんなことでお前を怒鳴ったりしねえ」
「待って待って、ナナミヤ、なんのこと? 僕は夜中に外出もしなければ墓参りには行ったことがない」
「あ? ……そうか」
 ナナミヤがにやにやと笑いだす。
「こいつぁ、案件だ、保護官」
「はい?」
 話を振られたものの、まったく何が何やらわかっていなかった。
「これから温くなる、そんな今の季節にちょうどいい肝試しの案件よ、保護官!」
 肝試しが真夏以外にちょうどいいと言われているのも初めて見たし、何よりナナミヤがなぜそんなに楽しそうなのかわからないでいる。
「めかしこめ! 墓地に行くぞ、保護官、ムク!」
 ナナミヤはひとりでガハハガハハと笑いながらコートを取りに行ってしまう。あまつさえ鼻歌まで聞こえてくる始末だ。
 ムクを見ると、斜め下を向いて何事か考えているようにも見えるし、ただ放心しているようにも見える。
 ムクはもしかすると、メメキの死を、誰よりも受け入れられていないのかもしれない。だから墓参りにも行けない、かといってメメキのいない学校にも前のように行くことができないでいる、そんな気がする。
「ムク、ここはひとつ、楽しんで行こう」
 僕が椅子から立ち、ムクの肩を軽く叩く。ムクは反射のように「うん」と頷いて、そしてしばらくして大きく瞬きをすると、もういちど、「うん」と言った。腹をくくった顔をしている。
 この黄昏どきに墓地に入って肝試しするという不躾な行動に、いちばん尻込みしているのは、僕かもしれなかった。何か出る。なけなしの第六感が、そう言っている。



 ナナミヤが墓守のための掘っ立て小屋の鍵を片手でチャリンチャリンともてあそんでいる。
 この墓地は特殊な水葬式だ。
 墓地だと言われなければ、誰しも『綺麗な湖だ』という感想を抱くことだろう。
 芝生に囲まれた深く大きな湖は、このサララビ地区で命を落としたキツネたちを、何人も何人も飲み込み、青い透明を輝かせている。
 墓標は、重たい手のひら大の石に名を書いたものだ。その墓標も、ならわしとして、この湖に投げ込まれることになっている。墓標を湖が食らうことが、布施として、また、安らかな眠りへの祈りとして、そういった文化として根付いている。
 この墓地の墓守をしているナナミヤは、道中でことのあらましを語ってくれた。
 夜になるたび、掘っ立て小屋の1階にナナミヤが飾っているピアノが鳴るのだという。
 ナナミヤは2階にいることが多いため、てっきり墓参りに来たムクが遊びで弾いているのだと思い、邪魔をしても悪いかと、敢えて1階に降りることをしなかったそうだ。
 とうとうその掘っ立て小屋の鍵が開かれた。ナナミヤが先陣を切った。入り口すぐのところにあった冷蔵庫を開ける。橙の明かりが少しばかりの間抜けさと、その裏側に隠れている不気味さを照らし出した。
「おう保護官、お前、潰れっか? 潰れねえなら飲んどけ、墓の周りに咲いてる花の蜜でできた妖酒だ。ムクは10倍に薄めたこいつを舐めとけ、清まるぞ」
 冷蔵庫からは小指ほどの小瓶が出てきた。ムクには平たい皿にナナミヤが少量注いでやっている。
「じゃあいただくとします」
「おう、息が白くなっけどびっくりすんなよ」
「舐めます」
 3人でその酒を舐め終わる。そこまで寒いわけでもないのに、本当に吐く息が白くなった。
「おいしい」
「だろうよ、この俺が採ってるんだからな。俺ぁ何やかやにかこつけて、こいつを飲むのが好きでねえ」
 ナナミヤが笑った。そして続けた。
「この息の色が変わるまでに用を済ませて帰ってくるのが、この墓の礼儀だ。静かな場所だからな、邪魔してっと、そいつぁ怒られても仕方ねえからな」
「どれくらいもつものなんです?」
「そいつぁ住んでらっしゃる輩の気分次第だ。つまり、息の色がなくなったら早々に帰れって思し召しよ」
「なるほど」
 僕が尋ねている間も、ムクが手に息を吹きかけて遊んでいる。意外と肝の据わった子だ。
「じゃあこっちだ、散らかってっけど気にすんな」
「あの、明かりとかは」
「おいおい冗談きついぜ保護官、ここはキツネが休まってる場所だぜ? そんな目の覚めるようなやかましいことはしねえのが人情よ」
 一蹴されてしまった。沈みかけの太陽が窓から差し込む中、仕方なしに、とぼとぼびくびくナナミヤについていく。
「……はぐれそうだねえ」
 とは言ったものの、実際僕が怖かっただけだ。ムクの手を引いて進むことにした。ムクは大人しくされるがままになっている。先程の酒で酔ってしまったのかもしれない。
「このピアノよ」
 窓のすぐ横、ナナミヤは使い古されたアップライトピアノの前で立ち止まった。陽が落ちて既に月明かりだ。その逆光が嫌で、僕は少し横に足を踏み出した。
「いたっ」
「ああ、すみません」
 女性の声がした。反射で謝罪した。
「おう、ミダか」
「ミダです、ナナミヤ」
 ナナミヤが豪快に笑いだす。何がそんなにおかしいのか、とうとう酔いが回ったのか、それとも何かに憑かれたのか、と思っていると、僕も気づいてしまった。
 彼女の息に色がついていない。
 不安になってナナミヤとムクを見る、ふたりとも綺麗に白い息だ、そもそも鍵は先程ナナミヤが開けたばかりだ、ということは、彼女は、この寒い掘っ立て小屋にずっといた変人か、あるいは、その世界のものだ。理屈で考えても第六感に訊いても、どうにも後者だとしか思えない。
 心臓が早鐘を打つ。自分の息が白いのがすべてだった。彼女は恐らく、怒ってはいないのだろう。
「こんなに素敵なピアノがあるなんて最近まで知らなかった。今日も弾いて行ってもいい、ナナミヤ?」
「好きなだけ弾いてってくれや、海賊やってた頃の戦利品だ。調律なんて30年近くしてやれてねえがな」
「いいの」
 ミダがピアノ椅子に腰かけ、弾きはじめる。恐ろしく下手だった。演奏が止まることはないものの、音が協和音と不協和音を行ったり来たりする。
「ノクターン……」
 ムクがつぶやく。ミダが弾いている曲だろうか。この演奏でわかるのは相当なことだ。それともそういう曲なのか。
 しかしながら後ろから見ると、このミダという少女、ボディラインが美しい。死なせておくには勿体ない。それに気づくと顔も気になってくる。
 はっとナナミヤが息をのむ。僕も気づいた。ムクの息だけが、白くなくなっている。しかしながらミダの演奏を妨げてはならないことは直感していた。彼女もひとたび機嫌を損ねれば、一瞬で僕らを好きにできる。
「ばあ」
「うわあ」
 ムクが後ろから何者かに襲われたようだ。ミダの演奏が止まる。僕はすがる思いでムクの手を思い切り引いた。ムクの体が胸に転がり込む。ムクがいたほうを見ると、見慣れた姿が憔悴していた。
「あ……メメキ……?」
 ムクが僕の服をつかみながらも、対象を見た。確かに、それはメメキだった。ただし、とても疲れている。目がうつろで元気がない。
「わたしだよ、その通りメメキだ。ムク、こら。いつまでわたしを寝かせないつもりなの。早く墓標を湖に投げ入れてよ。いっかいも墓参りに来ないってどういうことなの。怒るよ。というか怒ってるよ。そこのお嬢さんは可愛いくせに愛情表現が過剰だし、思ったよりこの世、安らかではないよ。そっちの世がいかにあったかいかやっとわかったよ。でももう戻れないから早くわたしを寝かせてよ」
「やっぱり来てくれた! メメキ! メメキ! メメキメメキ!」
「ほらーこのお嬢さん何なの? 怖い。可愛いのに怖い。何、わたしずっとこの子に付きまとわれるの? ちょっと寝ると必ずショパンのノクターンが聞こえてくるんだ。しかもホンキートンクもいいところの狂った音程だ。半音階が台無しだ」
「メメキ、わたし可愛い?」
「はいはいはい可愛いね、でねムク、わたしは眠たいけれど寂しいから、しばらく定期的にお見舞いに来てよ。おいしい妖酒が作れなくてお花さんにも嫌がられる始末なんだから」
「わたし可愛いの! わたしが可愛いのねメメキ!」
「はいはいはい」
 ミダが飛び掛かりメメキが逃れ、くんずほぐれつしながら僕たちに訴える。
「ムク、墓標は?」
「まだ。名前を彫ってすらいない」
 ナナミヤの問いかけに、ムクが答える。
「じゃあ、今日ここで彫って投げて帰れや。メメキが眠れねえのはさすがに可哀想だろ」
「うん、そうする」
 息が白くないままのムクだったが、なぜか、どこか嬉しそうだ。
「その間、保護官と宴会としゃれこんじまおうか。保護官、酒どうだった? 苦手なら無理にとは言わねえよ」
「いえ、おいしかったのでいただけるのであれば」
「決まりだな。ムク、この石に名前を彫って、あの湖に投げ込むだけよ。湖までは案内するから、とりあえず彫るのだけやっちまえ」
「はあい」
 ムクがナナミヤに案内され、手元だけが見えるようなうっすらとした明かりの元、彫り物を始めた。
 僕とナナミヤは床に座って酒を飲む。ムクの家と違い、底冷えする。それもあり、酒のピッチが速くなる。
「ナナミヤ、あのミダって子は?」
「ああ、保護官は知らねえか。前任の保護官のときの子よ、独り身で生まれてなあ、相方のために祈ることをしなかった。そんなのは珍しいことだから保護官や周りが総がかりになって守ろうとした。おまけに可愛いし体型も黒髪も綺麗だろ、そういうあったかいところで大事にされ大事にされ大事にされて、育った子だ」
 ただなあ、初めての恋が悪かった。彼氏は絶えなかった子なんだがな、初めての恋はホスト相手の叶わないものだった。結果、ミダはストーカーをするしかなかった。いちばんの過ちは、そのホストが事故にあって、そこからミダが助けたときだ。
「ニィネったら、わたしが突き飛ばしたときに、あんなに格好よかったスーツも、おまけに下着も破いてしまったの。絶望でしょ? この世の終わりだと誰もが思うわよね? もう格好いいニィネはいないのですもの。なら、ニィネを殺してしまったほうがいいと思って、そうしたの。だって格好いいニィネはもういない、その絶望がわかるでしょう? 目の前にいるのはパンツの破けた男。でも、わたしがしたことを世界は許さなかった。わたしはヘリで逃げることを決めました。ただ操縦したことがなくって……墜落してしまったの」
 それでもミダは奇跡的に一命をとりとめた。ただ何であれ、ミダはもう何物にも救えないところにいた。それでルメメル病院屋上から、投身自殺だ。
「わたしの愛は本物だったって証明するにはそれしかなかったの。それで死んだわ。それで閻魔様に会って、抱いてくれるように迫ったんだけれど、なぜか時間がほしいって。純粋さと罪を天秤にかけるからって。ひどいと思わない? ひどいでしょう。わたしはただ男のひとがほしいだけなのに。それで地縛霊をしています。それでそれで、このメメキってひとが欲しいの。なんでニィネも閻魔様もメメキも、わたしが抱いてって言っても抱いてくれないの? 今までそんなひとはいなかったわ。どうしちゃったのかしら」
 そんなわけだ。と、ナナミヤは語り終えた。会話を引き継いでいたミダはぷんすかとしている。
 箱入りのお嬢様だ。思い通りにならないことが受け入れられなくて仕方なかったのだろう。
「彫れた!」
 ムクが声を上げる。
「よし、よくやったムク。湖に行くぞ。保護官も行けるな?」
「はいい!」
 横ではメメキがこっそり妖酒に触れようとして青い炎を出してのけぞっている。
「メメキ、触るとその炎で清められておじゃんになるぞ」
 ナナミヤの声掛けで、メメキはあきらめた様子だ。飲んでみたかったのかもしれない。
 とうとう全員で掘っ立て小屋をすごすごと出る。
「わあ……」
「……絶景だろ、ムク、保護官」
 満月を食らう湖は、妖しく煌めいて、この世をすべて飲み込もうとするかのようだった。息が苦しくなる。見惚れて息を忘れてしまっていた。それはこの湖に溺れてしまったことと変わりないように思えた。月は食らわれて尚、湖の中で煌々と生き続ける強かさを持っていた。
「さあ、ムク、思いっきり投げ入れてやれ」
 ナナミヤの声掛けで、ムクは力の限り、墓標を湖に投げ込む。呑まれている月が咀嚼される。
 いつの間にかメメキが見当たらない。代わりに、ムクの息が、再び白くなっている。寒さのせいかもしれないし、メメキがきちんと眠れた証かもしれなかった。ミダもいなくなっていた。
「お疲れ様、ムク」
「うん、タスキも、ナナミヤも、ありがとう。明日は、学校に行こうと思う。だから、帰って寝る」
「そうしな」
 ナナミヤがにっこりと笑う。
「俺ぁ後始末してから帰る。保護官、ムクを家まで頼むぜ」
「了解ですう」
 そこで解散した。僕はムクを家に送り、この地区に建ててもらった自宅で寝た。
 翌朝、りりりんと巡回していると、ムクの姿があった。
 りりりんが僕に向けて言う。
「ムク、学校に行けるんです?」
「あありりりん、ムクはたぶん立ち直ったよ」
「立ち直れるものなんですかな」
 怪訝そうなりりりんだったが、僕はもうムクに、兄弟を亡くした影を見なくなっていた。
 ミダがひとりでも生きていけたのだから、ツガイメギツネが必ずつがいでいなければならないわけでもないのかもしれない。
 むしろ僕はそのケースを追い求めて、ムクを引っ張っていかなければならない。
 ムクを生かさなければならない。
 ムクを、保護しなければならない。
 それがムクから口頭で願われたことだ。たとえあのいっときのムクの強がりや怯えだったとしても、僕はそのことに全力を尽くす義務があるし、死力を尽くす覚悟でいる。


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