ツガイメギツネ-LOVELESSES

第三話 男、フリーター、三十一歳






 怒りと恥は密接だ。
「ミヒト、ユカリさんはどうなったんだ」
「三番地の路地で遺体で見つかりました」
「やっぱりミダさんか」
「そう思われますが、証拠は相変わらず」
「ないんだね」
「ミダさんの護衛が隠滅したような痕跡もあります。第一発見者はミダさんの護衛でした」
「万全の状態を作ってそれを表に出したんだね」
 バーが閉店し、店中の客を追い出したあと、僕はナンバーワンホストの煙草の煙を浴びている。
「ガレナ先輩にどう言ったものかな、タスキ保護官にはなんとかしてお礼を言わないといけない、僕がガレナ先輩に頼まれたんだから、僕が。ミダさんの処理とタスキ保護官へのお礼を一気にしようとしたのは欲張りだったな。ユカリさんならうまいこと切り抜けてくれるかと思ったのだけれど」
 僕は今、何かしらのものに恥じている。この居心地の悪さは、恥じているときのそれだ。その恥を僕は怒りと認識している。恥じなければならないところに追い込んだ何かに対して、ひどく憤っているのだ。
「治安が悪すぎるのも考え物だね。ミダさんには早急に捕まってもらわないといけない、でも僕が警察に行くと僕が逮捕されるからね」
「そうですね」
「ガレナ先輩に連絡を取ってみるよ。ガレナ先輩は頭がいいから、きっといいことを教えてくれる」
「そうですね」
 またとても居心地が悪い。どうも僕は、ニィネの口からガレナの名が出るのが気に食わないらしいのだ。
「ガレナ先輩が登校する時間になったら、ちょっと会えるといいのだけれど。ミヒトは人を払ってくれる? ミダさんがきっとまた出待ちしているから。贈り物の類を持っていても受け取らないで」
「わかりました」
 バーから出て、すぐのところで黒髪のツガイメギツネが居た。ミダだ。傘を差し、こちらを見ると、憐れむように笑った。この女は、何かを見通すことがある。そして僕はいま、それをされたくなかった。知りたくないのだ。ミヒトに所属している幸福しか見ないままでいたい。自分の汚いところなど見たくない。なぜならば自分はニィネの……何だ? 僕はニィネの何だ? 僕はこの考えを見なかったことにした。何かが腹立たしくなった。
「ニィネの大切な先輩を奪わないで。男の嫉妬は見苦しいわよ」
 そのミダの言葉に、僕は鳥肌が震えあがるほどの憤りを感じた。僕は嫉妬をしていたのだ。それを知られたことに猛烈に恥じ、その恥は怒りとなった。
「僕が、あなたと同じように、自分勝手な理由でひとを殺すとでも?」
「嫌ね、ひとを殺す理由なんていつだって自分勝手よ」
 ミダはくすくすと嫌味っぽく笑った。もっともだった。僕は見苦しく、自分勝手だ。認めてしまえば簡単なことだった。あっという間に考えが変わり、僕はこの女に所属したいと思った。上の者が下の者について何もかも知っているのは当然のことだ。だから、僕の恥を知っているのは僕の上の者であってほしいのだ。そもそも僕は、自分の下に人が立つことが昔から嫌で仕方ない。
「ミダさん」
「なにかしら」
「一緒に朝食でもいかがですか」
 ミダは大層驚いたようだった。
「じゃあ傘を持って」
 けれど承諾はすぐだった。僕はミダとの会話の間、ずっと雨に打たれていたせいで、ずぶ濡れのままミダの傘に一緒に入った。
「今日は登校しようかしら」
「いいと思います」
「あなた、きちんと付き添いのふりをするのよ。付き添いならいつだっているし、あなたもそういうのが好きなのよね」
「はい」
「じゃあ今日の担当に連絡を取るから、濡れないように傘をしっかり差していてね」
「はい」
 ミダは携帯電話を小さなバッグから取り出し、何度かタップして耳に当てた。
「もしもし? ミダです。今日は素敵な殿方が付き添ってくれることになりましたので、警護は必要ありません。はい、学校に行きます。朝食もその方ととるので。はい。はあい。ではまた連絡します」
 ミダは電話を切った。すぐ左に開店準備を終えたカフェがあった。ミダが、そこにしましょう、と言った。
 ルウ街のカフェは、小奇麗にしているツガイメギツネの女性とずぶ濡れの僕に対しても慣れた対応だった。夏の雨の生臭さを、心地よい冷房が乾かしてくれる席に通された。
「食べたいものはあるの」
 ミダが僕に訊いた。お任せします、と僕は言った。
 ミダが席に通したクルーに、そのまま注文をした。Bのセットをふたりぶん、スイーツはおまかせ、珈琲は食後に。
「かしこまりました」
 店員はすぐ戻っていき、そしてすぐに生ハムとチェダーのサンドイッチ、海藻のサウザンサラダを持ってきた。
「いただきます」
 ミダが嬉しそうに微笑んで、両手を合わせた。僕はこの女性を抱くところを想像した。決してそんなことはないのだろうけれど、ミダが自分に抱かれてくれるような錯覚を味わった。彼女の食事はどこか性的だった。
 そうして僕は久しぶりにきちんとした朝食をとった。ユカリのグラタンから数えれば二食続けて摂ったことになる。これはとても珍しい。
 ミダはベリータルトと珈琲を平らげてすぐに、行きましょうと言って店を出た。会計は僕がした。思ったほど高価ではなかった。
 ミダが鼻歌交じりに登校する頃には、雨は上がっていた。それでもミダは日傘と称して傘を差させ続けた。
「ミヒトさん、ちょっと警備が厳しいみたい。いつもより保護官が多い。何かあったら隠さず洗いざらい話しなさい、ニィネ経由でわたしと知り合ったって事実は、彼らには有効だから」
「わかりました」
「話したいなら、わたしにいけないことをしようと思っていることも話していいのよ。あと付き添いはもういいわ。ここは分校、本校のほうに行っていていいわよ。わかっていると思うけれど、ミカさんやガレナさんが今日は向こうに登校している」
 ミダはそう残し、傘を差している僕を置き去りに学校へ走っていった。上の者に何もかも見透かされるのは、逆に気分がいいものだ。
 ミダの分校への登校は保健室登校のようなものなのだろう。がちがちの警備でないことが、女学生の事件を人間が軽視している証拠だった。人間は必要に迫られたら、きっと簡単にツガイメギツネを何者かに売り渡すだろう。
 僕は言われた通り、本校に向かった。歩いて十五分ほどだ。道は、昔、ニィネの付き添いで来た頃に覚えていたままだった。ミダの傘は立派なつくりだったが、それゆえに捨てるわけにもいかず邪魔だった。
「だから、ガレナ。タスキ保護官は謹慎中だから、無理を言ってはだめよ。謹慎が解けたら私から伝えておくから」
 そんな会話が聞こえてきた。僕の耳は、ガレナという名前に鋭敏に反応した。そちらを見ると、グレーのスーツに紫のパンプスの女性が、白い毛並みに紫の瞳のツガイメギツネに、何事か説得を試みているようだった。
「どうしてもだめなの?」
「だめというか……お勧めできないわ」
「職務上?」
「……そうね」
「じゃあ、ナズナはちょっと駅前でユカリさんあたりとお茶でもしてきなよ」
「そんな」
「心配してくれるのは嬉しいけれど、僕はタスキ保護官に今お礼を言わないといけない気がするんだ。どうしてもね。だから、ナズナは、お茶をしてきたら?」
「ユカリさんなら亡くなりましたよ」
 考えるより先に言葉が出ていた。しかしながらナズナとガレナがこちらを見る頃には、発言の動機が分かっていた。ニィネのためだ。ニィネをいい存在にすることで、僕は自分を認められる気がしていた。優れた所有者に仕えることはステータスだ。
「あなたは……」
「ミヒトさん!」
 戸惑うナズナと、嬉しそうに顔を輝かせるガレナがいた。
「ミヒトさん、ニィネは元気にしていますか? お仕事が忙しくて、もう半年以上学校に来ていない。例の保護官の話をしたら、任せてほしいとも言っていたけれど、忙しいんでしょう?」
「ガレナ、そんなことをしていたの」
 ナズナが驚いている。
「ニィネはルウ街で元気にしていますよ。今日もお店の主役です。ニィネもガレナさんに会いたがっていました」
「会いに行こうよ! ナズナ、いいでしょう?」
「ミヒトさんと仰るんですね」
 ナズナが警戒した風に言う。
「はい、初めまして、ナズナ保護官」
「初めまして」
 ナズナは僕が居なければ、危ない友人とつるむのをやめるようガレナに言っていただろう。ナズナの目は懐疑に満ちていた。
「学校に、ニィネを呼びましょうか?」
「いいの? お店の主役なんでしょう?」
「ですから、ちょっとだけですけれど」
 ガレナは嬉しそうにはしゃいでいる。ナズナはガレナが居る手前、変に牽制できないのだろう。何か言いたげに、ガレナを見ている。
「ナズナさん、ガレナが学校から出なければ、きっと変なことは起こりません。ニィネを呼んでもよろしいでしょうか?」
「そう、ですね」
「ナズナ、お願い!」
 ガレナの懇願に根負けしたように、ナズナは僕に、お願いします、と言った。
 僕はニィネを電話でたたき起こす羽目になったが、特に咎められなかった。ニィネはあっという間にタクシーを使って学校へ来た。ガレナと感動の再会を果たし、心底嬉しそうに笑っている。
 僕はナズナと、遠くから様子を見ていた。
「……ユカリが、亡くなったって、本当なんですか」
 ナズナがぽつりと言った。
「はい。今朝の事件です」
 ナズナは押し黙る。
「もっと、話してあげればよかったな」
 ナズナは細い細い声で言う。涙をこらえているようだった。しかしながら、いずれこうなることはわかっていたのだろう。唇をかむ姿は、難関大学の入学試験結果発表に向かう、不真面目な高校生を思わせた。悔しさと、諦めと、納得と、受諾だ。
「あなたも、ユカリとそういう関係だったの」
「未遂ですね」
「じゃあ、未遂ではあるけれどユカリの仕事は知っていたのね」
「そうですね」
「ユカリが十八で就職するときに、もっと引き留めればよかった。でも、ユカリは仕事に誇りを持っている様子だったから、って言い訳をして、私はあの子を見捨てたんだ」
 ナズナ、と、ガレナが呼んでいる。
「ニィネの弟さんがクレープ屋をやっているんだって、ナズナ。食べに行きたい」
 ナズナは一瞬困ったように口をつぐんだ。
「警備が大変ならナズナも、ミヒトさんも一緒に来てよ、僕はニィネと久しぶりに会えて嬉しいし、次にいつ会えるかもわからないんだ」
 それもそうね、と、ナズナは考え考え言った。きっとナズナはユカリの死に、まだ混乱している。納得いかない様子のナズナを置いてきぼりに、ガレナは楽しそうに舞い上がっているし、ニィネはこの上なく幸せそうだった。ニィネは普段通りの困ったような笑い顔のはずだが、今日ばかりは至上の幸福の笑顔だった。
「じゃあ、行きましょう、すぐそこです、ルウ街方面ですが、ルウ街には入りません。歩いてすぐ着きますよ」
 ニィネの駄目押しに、ナズナは、とうとう、わかりました、と言った。当初は学校から出ない約束だったが、それを忘れてしまうほど、きっとナズナはユカリの死に動揺しているのだろう。
「ナズナさんは、保護官なんですよね」
 歩き始める頃に僕が話しかけると、ナズナは端的に、そうです、と答えた。少し黙った後、言葉を継いだ。
「友人ひとり護れなかった、無様な保護官です。はは、自信、なくなっちゃったな」
 ナズナは歩きながら、下を向いて笑った。
「どうしたのナズナ、具合が悪いの?」
「そんなことないわ。気にしなくていいわよ」
 僕が何か言うより先に、ニィネとずっと話し込んでいたガレナが振り返ってナズナを見ながら問うたが、ナズナは強がった。ニィネが立ち止まる。右手にクレープ屋のワゴンが見えた。
「マァネ、僕だよ」
 ニィネがワゴンの中に声をかける。金色の耳がカウンターからぴょこんと覗く。現れたのは、髪を脱色したツガイメギツネだった。右手に食べかけのクレープを持っている。
「休憩中だった?」
「もぐもぐ」
「食べてからでいいよ」
 マァネと呼ばれたツガイメギツネは、口いっぱいにクレープを頬張っており、話せる状態ではなかったが、すぐに咀嚼を終えて飲み込み、兄さん、と言った。
「メニューを見せてよマァネ、四人分の仕事だよ」
「かしこまり!」
 元気な雰囲気のキツネだ。ニィネとよく似ているが、纏う空気が根本的に違う。ニィネが夜ならば、マァネは昼だ。ニィネが微笑めば月下美人が花開くが、マァネが笑えば向日葵が咲く。
 四人でメニューを覗き込む。定番のチョコレートバナナからモンブラン、それに餃子風などの変わり種まである。
「マァネくん、どれがおすすめ?」
 ガレナが目を輝かせて訊いた。
「お昼時なので、お惣菜系が満足感があるかもですよ! そのあと上がりにデザート系を食べればその辺のランチより満足すること間違いなしでっす」
「マァネ、普通のひとはクレープはいちどにひとつだよ」
 ニィネが苦笑して言う。
「すみませんね、弟は、三食クレープで生きてるんです、ガレナ先輩。僕からのおすすめは、ピーチメルバやベリーセレクションなどのデザート系です」
「それもおいしいと思います!」
 マァネが言葉を添える。
「じゃあ、僕はピーチメルバにしようかな」
 ガレナの言葉から、注文が始まった。ニィネはベリーセレクション、ナズナはチョコレートバナナ、僕はお好み焼き風のクレープにすることにした。
「かしこまり! 少々お待ちを!」
 マァネが手際よくクレープを焼き始める。職人技とも呼べるような手際をガレナが目を輝かせて見ている。そんなガレナを、ニィネは嬉しそうに見ている。
「ミヒトさん、このお店は初めてではないんですか?」
 ナズナが訊いてくる。初めてですよ、と答えると、勇者ですね、と言った。
「でも、やっぱり殿方は、お昼ご飯はお肉がいいんですか?」
「僕は朝が軽かったので」
「はいはいはい! できましたよ! まずピーチメルバね、白いお兄ちゃんね、次にベリーセレクション、兄さんね、その次はチョコバナナね、お姉ちゃんね、最後でごめんねお好み焼き風だよお兄ちゃん、召し上がれ!」
「私もいいかしら?」
 不意だった。後ろを見ると、ミダが立っていた。
「あらあらお嬢さん、どうぞどうぞ、メニューは……」
「ニィネと同じものを」
「かしこまり!」
 マァネが再び仕事を始める。
「ミダちゃん……?」
「ガレナさん、お久しぶりです」
「やっぱりミダちゃんだ、久しぶりだね、もう具合はいいの?」
 ガレナがまくしたてる。
「大丈夫です、実はもともと具合が悪くておやすみしていたわけではなくて。ちょっと大事な用事があったものですから」
「はいお嬢さん、ベリーセレクションだよ」
「ありがとう」
 ミダが受け取ると、ガレナは「いただきます」と言ってクレープにかじりついた。僕たちもかじる。お好み焼き風クレープはちゃんと豚肉も入っており、本格的だった。
 ふっと、黙ってしまったニィネを見る。ミダを警戒しているのだろう、ガレナをかばうように、間に入ってクレープを食べている。
「おいしい」
 ミダが満足そうに言った。マァネが満足げに笑っている。
「ガレナさん、ちょっと相談事があって。ガレナさんにしか頼めない」
「どうしたの、ミダちゃん」
「場所を移してもよろしいですか?」
 ニィネがさりげなくナズナの袖を引いた。ナズナも判っていると言いたげに、歩き出してしまった二人をさりげなく追いかける。ナズナはガレナを殺す気かもしれない。その際はナズナが居れば、身を挺してでも護りきるだろう。
「兄さんも大変だね、仕事の付き合い?」
「何の話だい、マァネ」
「あのお嬢さん、どうもよくないなあ、お客さんにこんなこと言いたくないけれどね。あ、どう? スイーツのあがりにレモンのさっぱりしたクレープは」
「僕は結構」
 マァネは確かに向日葵のように笑うが、今は、例えるならばゴッホが描いた向日葵のような不気味さを感じた。マァネのせいではない。ミダが活き活きとした向日葵に禍々しい影を落としたのだ。向日葵は日陰を知ってこそいれど、本能的に好まないだろう。
「お兄ちゃんはどう、お好み焼きのあがりに甘いクレープ」
「じゃあいただきます」
「ミヒト正気かい?」
 ニィネが目を白黒させる。
「朝ごはんが軽かったもので」
「食べるなら、ワゴンの中に入って、かけて食べてもいいですよ。いやね、いくらカンカン照りでも、普通のお客さんには中になんて入れやしないんですよ。ただ、お兄ちゃんは、いいクレープ仲間になれそうですからね」
「確かに日が照ってきたね」
「兄さんも入る? クレープ食べる?」
「ああ食べる食べる」
「暑いんで窓も閉めますね」
 冷房の効いたワゴン内で、全員で二つ目のクレープを平らげた。快適だった。外は恐らく灼熱だろう。それにクレープ自体は軽いものではないが、美味しさから入ってしまった。マァネのクレープは実際のところ、とてもおいしかった。
 食べ終わり、ガレナとナズナが心配になってきた。外に出ることにした。ワゴンの扉をマァネが開けると、マァネは何かに引っかかったように足をもつれさせ、車道に倒れこんだ。特に大きな悲鳴はなかった。クラクションの音がする。急ブレーキは昨今の車では音がしないのだったなあ、と、悠長に思っていた。
「あら」
 マァネが軽自動車に跳ね飛ばされる頃、ひとりで日傘をさしたミダが、通りの向こうからこちらを見ていた。驚いて、すぐに携帯電話で救急を呼んでいる様子だ。
「なんだ、ミヒト」
「外に出ないほうがいいかと思います」
「なんなんだ、ミヒト!」
 ニィネが声を荒げる。その声を聞いたミダは、少し笑ったような気がした。
 救急車はすぐに到着した。ぼろきれのようになったマァネと僕、ニィネとミダが救急車に同乗した。マァネは失神している様子だ。しかしながら、一向に救急隊が動かない。
「救急、おい、どうなっているんだ」
 ニィネが声を荒げる。
「ねえニィネ、私、あなたを狙ったつもりだったの。ガレナさんに取られるくらいならいっそ、って。だからね」
「ミダさん、今は救急だ、その話は後で聞くから」
「なにを言っているの? これは私の救急車なのよ、ニィネ。弟さんがどうなってもいいの? 嫌なら私の言うとおりにするのよ? ああ、幸せだわ、ニィネ、私、いま、とてもとても幸せだわ」
「わかった、わかったよ、どうすればいいんだ!」
 ニィネは泣きそうな顔で叫んだ。
「マァネさんか、ミヒトさんか、どちらかを殺して。これは罰なの。ニィネが悪いのよ?」
「できるわけがない」
「じゃないと私があなたを殺すわ。計画通りにね。ニィネは私がこういう風にするのがいいのよね、非道な殺人鬼の女でいてほしいのよね、それで逮捕されてほしいのよね、でもまだ遊んでいたいでしょう? 私に追いかけられるのはスリリングで楽しいでしょう?」
 ニィネは呆然とした。僕は黙って考えを巡らせていた。これ以上、僕の主をミダの好きにさせたくない。ならば心は決まっていた。
 ミダに掴みかかる。ミダが悲鳴を上げる。その悲鳴に呼び寄せられた『ミダの救急隊』が僕を押さえ込む。とにかく精いっぱい暴れた。やむを得ず殺される、それが望みだった。そうすれば、僕は主というものを護れる。ミダのブラウスを掴んで力の限りに引くとボタンが飛んだ。ミダの表情は見なかった。ニィネは何もできずに立ったままだ。無力な主と状況を支配している新しくできた主人、両方の視線を集めながら暴れていると、後頭部にひどい衝撃を感じた。背後にはミダの救急隊員が警棒のようなものを持って立っていた。
 主人と名の付く生き物はふたりとも護りきった。主人、僕の絶対の存在たちだ。けれど、彼彼女らのことを考えると、とめどない恥と憤怒が身を焼いた。
 僕は、主人たちの無能さを恥じ、怒っているのだ。僕が感じてきたステータスに落書きをされたのと同義だった。身を粉にして得てきた満足感は、ひっくり返り、愚かさを恥じる怒りとなった。
 何の役にも立たない怒りだった。僕は自分以外の誰かを恥じ、最期に意味なく怒っている。恥と怒りだけでは、肉体は動かない。


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