ツガイメギツネ-LOVELESSES

第七話 女、保護官、二十三歳



 ユカリの葬儀には、仕事が忙しくて出席できなかった。最近、このサミミレ地区の治安が悪い。サミミレ地区は広く、海もあり、ルウ街もあり、学校もある。海の上も、ルウ街も、専門の保護官がついている。普通の保護官では手に余るということだろう。私が受け持っている学校周辺、特に担当のミカ・ガレナ兄弟関連で、昨今、死者が相次いでいる。正直、海やルウ街を受け持つような、能力のある保護官でなければ、学校周辺の未曽有の危機は避けられない気がしていた。それでもやらなければならない。今は謹慎中だが、ルウ街の担当を目指しているタスキという新人保護官の熱意を、私もまた持たなければならない。ただ、タスキは謹慎、カザセはあの調子だし、上司も部下も私と似たり寄ったりで、人間にはツガイメギツネの管理などはできないのだと言われているような気がしていた。私は最近、自分が生きていることを恥ずかしいと思うようになっていた。何も成し遂げずに生きていることが、恥ずかしくてならない。もう何日、食器を洗っていないだろう。
 最近毎日ため息をついている。ベッドでタオルケットの上に縮こまって座りながら、ユカリを思うと涙が出た。中学時代、バドミントン部の部長をやっていた私を、ユカリは面白がって、同級生だというのに「ナズナさん」と呼び出した。ミカを思うと嗚咽が出た。ミカの炎上商法をもっとたしなめればよかった。ユカリと関係を持った時は祝福した。ふたりとも大好きな存在だった。なぜ私は一度にふたりも、大切な存在を失わなければならないのか。「なぜ」の先にはいつも、何もない。意味のない、こだまのような自分の声が反響するだけだ。
 このふたりだけではない。クレープ屋の彼も、自分如何で救えたかもしれなかった。朗らかな向日葵を枯らしたのは自分なのだと思った。ルウ街の救急はルウ街の病院に所属する。受け入れ態勢を整えるために時間がかかったらしいが、ならば多少遠くてもサミミレ地区の辺境で丁寧な治療を受けさせ、安静にさせればよかった。マァネと名乗った向日葵はスラム街のワゴンの中で枯れたとマァネ担当の保護官から報告があった。死体は当然残らなかったが、何でも、クレープから成る吐瀉物から判明したらしい。さぞかし苦しかったろう。何の罪もない向日葵であった。最も直近に関わりのあった保護官である、私のせいだ。
 ろくに眠れていないが、そろそろ出勤しないといけない。ガレナを思い出すと、またため息が出た。ツガイメギツネたちの前では、私は完璧でなければならない。ガレナには特に、心配をかけてはいけない。肉親を失ったガレナが一番つらいのだから、私は強く在り、護ってやらなければならない。
 ガレナさえいなければ、自分は楽になるのか? 一瞬脳をかすめた問いには、ノーと繰り返し答えた。これ以上護るものがなくなったら、私が居る意味がなくなってしまう。
 大きな音がして、私は飛び上がった。仕事用の携帯電話だった。耳を塞いでしまいたかった。ガレナからだった。震える手で出ると、ガレナは、少し独りで居たいから、今日は学校へは行かない、とのことだった。私は案じる素振りをしながらも、内心ではほっとしていた。これで少し自由な時間が増える。
 よし、と、ベッドから降りた。カーテンを開けた。寮の中にいて腐っているから、きっとこんなにも絶望しているのだ。バドミントンで怪我をしてずっと横になっていた時だって、全身がだるくてつらかったが、そのあとウォーミングアップをしたら一気に元気になったものだ。きっと私は適宜外に出たほうがいいのだ。なぜなら私はまだ大丈夫だからだ。ガレナは、あの話しぶりなら家にいるだろう。私は、外に出る。たまにしか日の目を見ない、真っ白い生地に、大きな青いユリの柄のワンピースを着て、ぱっと遊びに行こう。仕事で出向く先々に居て私をじっと見てきた女学生の死も、前向きにとらえよう。不謹慎だが、不気味なストーカーが居なくなったと思えばいいのだ。ガレナの誕生日、駅からずっと付きまとわれていたあの日は、とても気味が悪かったものだ。あれが死相と言うものだろうか。
 白いサンダルは買ったまま箱に入っていた。メイクはいつもよりもラメを多く使い、煌びやかにした。ウェーブのかかっている髪もアップにした。着飾っている間は何もかもを忘れられた。玄関の姿見には、保護官のナズナは居なかった。ただのひとりの夏の女が居るだけだ。私は思い切ってルウ街へ歩き出した。実は私はルウ街をよく知らない。カジノにでも入って豪遊すれば気分が晴れるかもしれない、そのくらいの気持ちでルウ街へ入った。ほかの娯楽を思いつくには、私は娯楽というものを知らなさ過ぎた。
 朝のルウ街は荒々しい繁華街特有の喧騒はなかった。私は息を吸い直して、気の向くまま歩いた。夜になればきっと賑わうのだろう。だが私は昼間の人間だ。健康的な楽しみを見つけようと、どこまでも物怖じせず歩いた。野良猫が赤ちゃんを連れて歩いている。野良猫だって、このルウ街で子猫を護っているのだ、私にツガイメギツネたちを護れないはずがない。今日の休みが終わったら、私はまた毅然として隙のない有能な保護官に戻れるはずだ。元気が出てきた。ほら、ウォーミングアップをすれば私というものは元気なのだ。
 青いユリのワンピースを揺らしながらひたすら歩く。そうしているうちに正午を回ったようで、ルウ街が動き始める。私は店を開けたばかりの中華まん専門店で、あんまんをひとつ買って食べた。久しぶりのちゃんとした食事だった。帰ったら食器も洗おう。洗っていない箸がなくなって、出来合いのお惣菜を割りばしで食べていた。今日は何か食材を買って帰ろう。料理だって下手なほうではない。その辺の出来合いのお惣菜よりは美味しく作れる。
「ナズナ保護官……?」
 私は一瞬で全身に鳥肌が立った。自分が保護官だということは忘れていたかったのに、都合の悪いことだけ忘れていたかったのに、ただの夏の女でいたかったのに、通りの向こうから歩いてくるこのミダという女は、どこまでも他人を、あらゆる意味で狂わせる。胃の中で、あんまんが消化されるのを嫌がっているような不快感があった。
「あのね、ナズナ保護官、私、ニィネを愛しています、だけれど、もう彼に贈り物をする必要はないの、ガレナさんにお願いした海の近くのソフトクリーム屋さんに予約を取る必要がなくなった、だけれどね、そんなことはどうでもよくて、ソフトクリームなんて子供じゃないんだから! それでね、ニィネが、ああそう、ガレナさんに伝えてほしいんです、ソフトクリーム、でも私はニィネを愛している、ああ、困ったわ、ニィネの、ニィネは紅茶が好きだったかしら? ベーコンのサンドイッチよりも? その子猫、可愛いわね、クソが! ねえニィネはあれが、スティックシュガーは好き?」
 全身に入っていた力が抜けていく。よくわからない。まったくよくわからないが、ミダが脅威でないことはよくわかった。意味以前に統語がおかしくなっている。これでは何の脅威にもなり得ないだろう。
「ミダさん、とりあえず、落ち着いて」
「落ち着いています、私はひとり、ずっとひとり、スナック菓子とイタリアンだと私は嬉しい、ニィネが、汚らわしい、汚らわしい汚らわしい、偽物のニィネ、偽物の私、わたし、ああ疲れたわ、誰かアセロラのジュースを頂戴、でもガレナさんにはソフトクリームは必要なくなったって言わなくちゃ」
「ミダさん、大丈夫、大丈夫だから落ち着いて、ガレナには、ソフトクリームの予約をキャンセルさせればいいのね?」
 ミダは、マァネのクレープを食べていたあの日、ガレナを連れ出して、海の近くのソフトクリーム屋の予約を取ってほしいと頼んでいたのだ。確かにソフトクリーム屋は予約なんて普通は取れない。ただ、ガレナはどうやら店主と顔なじみだそうだ。その店主とガレナはミカ経由で知り合ったらしいが、ミカは仕事が忙しいため、ガレナに頼みたかったらしい。ミダからニィネへのサプライズと聞いて、ガレナは快諾していた。
「そう、そうです、ナズナ保護官、ガレナさんにはそう伝えてください、それでね」
「わかったわ」
 遮る私に構わず、ミダは続けた。
「どうしてナズナ保護官はそんな格好で外にいるの? 私もニィネもガレナさんも苦しんでいるのに」
 その言葉だけ、ミダはゆっくりと見通すように言った。実際は変わらぬ語調だったかもしれないが、そんな気がした。強い放射線が、何の感覚もないまま体を通り抜け、そのあと重大な健康被害を生む様に似ていた。ミダの言葉は私の細胞を破壊するに充分だったろう。言葉が通り過ぎた後に、じわりじわりと吐き気がするくらいの自己嫌悪があった。
 ミダはそのあとはまたすぐに、まとまりのない言葉を話し始めた。しかしながら、すべて通り抜けていく。ミダの言葉によって生まれた、レンジの中に入れられた猫のように徐々に絶望的な苦痛を訴え始める自己嫌悪を、私はうまく処理できない。そうだ、私はどうして、ワンピースにサンダルなんかで繁華街をほっつき歩いているのか。今日もキツネたちは身の危険を感じて怯えているし、担当の保護官たちだって激務に追われているだろう。担当がないとはいえ、私だけが楽をしていいわけがないのだ。今からでも身だしなみを整え、出勤しよう。
「そうね、ミダさん、気を付けて戻ってね」
 それ以降のミダの言葉は一切頭に入ってこなかった。出勤する。それが私には、とても億劫だったが、いちばん必要な気もした。こうやってルウ街で遊んでも、いちばんの気がかりである仕事を片付けなければ、真に気が休まることはないのだ。
 どうやって帰ったのかは覚えていない。気づくと寮にいて、スーツを選んでいた。全く頭が働かない。紺のスーツにした。いつも着ているような気がしたが、違ったかもしれない。どうでもよかった。机の上にふたつ、あんまんが置いてあった。買って帰ってきたような気もする。夕食と明日の朝食になるのだろう。
 スーツを着て姿見を見た。何の取り柄もない女が映っていた。髪を結ったままだった。いつも通り、髪を下ろす。ししおどしに泥水が滴り傾くような、言い知れない衝動に駆られて、私は目の前でのうのうと生きている女を殴りつけた。固い鏡の感触が拳を伝って肩に響いた。鏡は頑丈で割れることもなく、少し歪んだくらいだった。髪が邪魔に感じて、その歪んだ鏡も見ずに、はさみで適当に切った。髪を握った手を離すと切り取られた髪は力なく床に落ちた。少しすっきりした。その勢いのまま出勤した。
「だめでしょ、もうこれ」
 職場に入るなり聞こえてきた言葉だった。見ると、ニィネとマァネを担当していた中年男性の保護官がつぶやいていた。
「俺たちじゃ手に負えないよ」
「なにがあったんですか」
 私が尋ねると、その保護官は、へっ、と笑って吐き捨てた。
「マァネだけじゃなくニィネも死んだ。もう、この区のツガイメギツネは、無理でしょ、おしまいだよ」
「縁起でもないことを……」
 学校の統率をしているキツネの担当が、冷静に言った。先程の中年保護官と同期の保護官だ。しかしながら冷静であれど、誰の心も動かさない声音だった。現状を覆すには、量も質も足りなさ過ぎたし、足りさせようという努力も感じられなかった。
「だって、だめだもん。ナズナ保護官だってそう思うでしょ」
 不意に話を振られ、私はあいまいに、そうですね、と言うしかなかった。
「俺は担当のキツネが生きてる限り仕事しますけれどね」
「じゃあ担当がない俺は、ちょっと休んでもいいかなあ。なんだか疲れちゃったよ。ナズナ保護官、疲れたよねえ」
「そうですね……」
 職場全体が、こんな雰囲気だ。「だめでしょ、もうこれ」という言葉が、空間にリフレインする。電話が鳴った。誰も取ろうとしない。仕方なく私が保護官たちの前を遮って腕を伸ばし、取った。
「はい」
「こちらカザセ、ナズナ?」
「はい」
「あんた、気をつけなね」
 電話はそれきり、切れてしまった。
「何の電話」
 上司が言った。上司も疲れ切っている。
「カザセから、私に、『あんた、気をつけなね』だそうです」
「ふうん」
 上司は特にメモも取らず、指でペンを回しながら聞き流した。
「暗号でしょうか」
「何か思い当たるの、ナズナくん」
「いえ……」
「じゃあ考えても仕方ないよ、カザセくんのことだから変わってるんだ、何でもないだろう」
「でもカザセは遊びで仕事をするひとじゃ……」
「じゃあ何の暗号なの」
 私は一秒押し黙って、わかりません、と言うしかなかった。
「じゃあ、そんな感じなんでしょ」
「……」
 重苦しい沈黙があった。時計が十八時を回り、時報が鳴った。
「終礼は省略。各自解散。日直はまあ適当に」
「お疲れさまでした」
 みんな、思い思いの順番で退勤していく。とっとと出ていく者、背広を肩にかけ欠伸をする者、ふらふらとコンビニエンスストアに寄る者、そして、今年から勤務し始めたタスキの同期、新人の男性保護官は、何やら思い詰めた様子でしきりにキーボードを叩いている。
「ジュンくん、定時だよ」
 私が声をかけると、はっとした様子で飛び上がり、時計を見た。
「もうですか? まだミダについての報告が、ルウ街担当に届いてないみたいで、ルウ街担当から問い合わせが来ていて」
「ジュンくんは、真面目だね」
「えっ」
「立派だよ、すごく」
 私には、ジュンが眩しく見えていた。あの雰囲気の中でも仕事に没頭で切る彼を、魅力的に感じた。
「このあと、どう、一杯」
「あ……じゃあ、この件が終わったらになりますが、い、いいですか、ナズナ先輩」
「うん。待ってるよ」
 やる気のないメンバーが帰り、ジュンと私だけになった職場は、驚くほど居心地がよかった。私もジュンを待ちながら、ガレナの報告書を作成した。久しぶりに、つらくなく、まともに仕事ができた。ジュンに、困ったことがないかを訊きながら、自分の仕事を終え、明日に回す予定だった雑務もこなしてしまった。
「ルウ街担当も今日はもういいということだったので」
 二十時半、ジュンはさすがに疲れた様子でそう言った。
「じゃあ、ぱっと飲みに行こう」
「そうですね、ナズナ先輩」
 ジュンが無邪気に笑ってくれる。その笑顔にとても救われた。私はまだやれる。ユカリやミカを失っても、まだ、ガレナやジュンを護りたい。
 飲みとなると、手近なのはやはりルウ街なのだった。適当な客寄せに引っかかってやり、ジュンと居酒屋へ入った。
「ナズナ先輩、髪切ったんですね」
「そう? あ、そうかもね」
「スーツも、いつもグレーなのに、紺、新鮮です」
 ジュンと居ると心が落ち着き、自分が行ったことを冷静に思い出せた。どうしてあんなに荒んでいたのかわからない。私のような有能な保護官にあるまじき姿だった。
「ワイルドな感じで、いいですね」
「ありがとう」
 終始、穏やかな飲みだった。つまみが頬が痛むほど美味しく感じられた。久しぶりのまともな食事だった。ついさっきまで、なぜあんまんごときをまともな食事と言ったのかわからない。きっと少しおかしくなっていた。変な疲労がたまっていたのだ。けれど、もう大丈夫だ。私は私を取り戻した。
「ねえ、ジュンくんは、どうしてそんなに頑張れるの? 正直、今日とか、職場の雰囲気悪かったでしょう」
「ああ、えへへ、ちょっと隣町のサララビ地区の準保護官に、いい顔をしたいんですよ」
「へえ?」
「同じ学校だったんです。一緒に勉強したりして、彼女は準保護官に、僕は保護官になって。なら、みっともないところ、見せられないじゃありませんか」
「可愛いの?」
「変なこと聞きますね」
「いいじゃない」
「可愛いですよ」
 ジュンは照れた風に酒を口に流し込んだ。私はその様子を見て、一気に苦くなった酒にむせた。
 飲み終わっても、家に帰る気にはなれなかった。仕事用のパンプスは、思えば履き慣れた紫のものではなく、黒の新人時代のものだった。足が痛い。でもすべて忘れて歩きたかった。終電で海まで行った。パンプスを脱いで手に持ち、コンクリートの上を歩いた。夜の海はぎらついて見えた。スーツのまま飛び込んだ。傷心に海水が染み込み、果てしない深さに誘われていく。ジュンが居れば、この地区は大丈夫だ。私がいなくても、大丈夫だ。ガレナも、たぶん、大丈夫だ。私が苦しんでまで、手を尽くさなくても大丈夫だ。きっとあの保護官が、私ではない女にいい顔をするために、手を尽くすだろう。私である必要はどこにもない。大丈夫だ。




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