第一章



 白い正方形の紙を鶴の形に折る。出来上がったトゲトゲとしている、鶴の死体を模した白い紙を、くしゃりと握りつぶした。羽根も首も背骨も歪に折れ曲がった。それを口に含み、噛まずに飲み込む。口蓋からは異物感、通り越した食道は痛痒さを訴える、しかし胃に至るとその存在は脈々とした命を持った。途端に猛烈な吐き気が襲ってくる。座り、体を折って、口を胃よりも下に向ける。すると、グロッタル・ストップの二十秒間に似た苦しさのあと、口からは鳥の卵がつるりと出てきた。唾液にまみれたその卵はすぐに内側から鼓動し始め、びりびりと紙製の殻を割って雛が生まれた。粘液に包まったその雛は、まとわりつく私の体液だったものを、邪魔そうに身をよじって破る。すると、雛は目を開けた。ブラックホールにたとえたくなる綺麗な黒目だ、静脈血を魔女の大釜で煮詰めたような黒だ。左手側にあったこの城の窓を開けてやる。広がるのは、真っ白な世界だ、ひとつひとつ記憶が欠如していった後の初期言語資料のような白だ。雛が羽ばたいていくのは、私が折り紙で作った城下町だ。紙製の地面、紙製の木々、生命の気配のない世界で、雛は別の鶴の群れに混ぜてもらい、すぐに白すぎる空間と同化して見えなくなった。
 世界でも一握りの、この国を知っているひとたちは、ここをシロ国と呼ぶ。

***

 私は狩りを終えて煙草をふかしていた。背中の鳥の羽が煙を揺らした。
 今日仕留めたあの化け物、シロは四体。何体出てくる気なのかわからないが、無尽蔵というわけでもあるまい。一体ずつ仕留めていけば、いずれ終わる。それは私が無職になるときなのだが、このトチ国にとっては望ましいことだ。
 シロは我々ハネビトの背中の羽を喰らう。従って我々ハネビトはシロを狩っているのだ。私はそのシロを狩る、リヒテイユ騎士団の団長を務めている。
「マツロお姉ちゃん」
 食道の裏口を開けてナミダが私を呼んだ。
「ご飯ができたよ。カナエも水を浴びたし、ご飯にしよう」
「そうだね」
 ナミダは熊の耳のように結い上げて結んだお団子の髪を傾けた。
「今日も……何かあったの?」
 ナミダは敏感だ。雰囲気で相手の様子を把握する力が高いと思う。
「カナエは何も言っていなかったけれど……亡くなったかたも、今回はいないって」
「何でもない、何でもないよナミダ。ご飯にしよう、お腹が空いてるんだ」
 カナエは一緒に狩りに出た屈強な青年だ。カナエも気付いているはずだ。
 シロの数が増えている。最近は狩り残しも増えてきた。私は内心の焦りを誰にも見せないようにしているが、皆が気付くのも時間の問題かもしれない。だが、怯えず生きたい仲間を生かすのが私の仕事であるし、信条である。
 この焦りは、ナミダに伝えるわけにはいかない。少なくとも、リヒテイユ騎士団長の私が言うべきではない。ただでさえシロは、我々ハネビトにとって脅威なのだ。皆の不安を煽ってもいいことはない。
「本当かなあ? でもいいよ、今日はエイラのサラダとイチゴのミルク和えだよ! 豪華でしょ」
「エイラの実が採れたのかい」
「二年ぶりに実がなったの。エイラ商人のかたが、こっそり食べなさいってくれたの。皆で食べよう」
 エイラという植物は根も葉も実も花も茎も、万病に効く。最近は隣国のミロ国からエイラの葉を輸入させてほしいという案件が多いらしい。私は狩りが専門だから詳しくは知らないが、ナミダは詳しいだろう。彼女は果樹園を両親と一緒に営んでいる。この国の輸出は果物がほとんどなので、両親の輸出業を手伝うナミダは異国の知識も多少あるようだった。
 私は煙草を手製の灰皿でねじ消し、皆の待つ騎士団用の食堂に入った。皆がわいわいと、小ぢんまりしていながら活気のある空間を作っている。
 食堂と言ってもそれほど大きくはない。二十ほどの机と三十か四十の席が並んでおり、厨房は奥の裏口近くに一つある。我々はあまり炎を使った料理をしないので、厨房は質素だ。食糧庫もそれほど大きくない。我々は果実を主に食べるので、食糧庫に入れるのは輸入品がほとんどだ。今日のメニューに使われているミルクは人気があるので、食糧庫に常備されている。だがそれくらいだ。この国の輸出入の主な相手先は、隣の先進国であるミロ国だ。このトチ国は、残念ながら先進国とは呼ばれていない。我々ハネビトは、政で何とかする国民性ではないし、王も軍隊も居ない。皆が集いたいときに集い、食べたいときに食べ、眠りたいときに眠る。
「騎士団長」
 裏口から入り、皆の様子を眺めていた私に、近くの席に座っていたカナエが気付いて声をかけた。カナエは騎士団でも腕利きの狩人だ。輸入された知識の武道を、自己流で学んでいるらしい。そのせいか身のこなしに無駄がない。私を呼んだ一動作で、見る者が見ればきっと彼の腕は伝わるはずだ。
「相席、よかったら」
「ああ、ありがとう」
 私はカナエの向かいに座った。カナエは人のいい笑顔を見せてくれた。だが、その笑顔は束の間でしかなかった。
「ナミダが、心配していた」
 私がミルクに口をつけるなり表情の曇ったカナエは、迷い迷いに言った。快活な性格のカナエだというのに、誰にも言えないでいるような雰囲気だった。
「俺は、何かナミダにしてやれないだろうか」
 カナエの筋肉質な手が、木製のスプーンを持って震えている。カナエはナミダのことを大切に思っているし、ナミダもカナエによく懐いている。よく二人で散歩に出ているのを見る。そのときのナミダは、家の手伝いをしているときよりもずっと楽しそうだ。
「まず、カナエ、ナミダが我々を心配するのは当然だ。我々は命を賭した仕事をしている。だけれど、我々がナミダを心配する職業ではないことはわかるね? カナエがナミダを心配するのは、騎士団員だからではない。カナエが、カナエだからだ。私から言えることは、月並みなことしかない」
「それも、そうだな」
「月並みなことを言うと、カナエはもっとナミダを大切にしてやればいいのにと思う」
「だからその方法がわからないって」
「嫁にでも迎えたらどうだ」
 カナエは少し眉を寄せた表情のまま、一拍置いて真っ赤になった。
「よ、嫁……」
「悪い話ではないだろう」
「でも、さ……」
 カナエは一生懸命何かを考えている。
「騎士団長に言うべき言葉じゃないのはわかるけれど……俺はこんな仕事だし、ナミダが未亡人になったりしたら、俺、あの世でもやりきれないよ、それに、俺はいいけれど、ナミダだって、俺でいいかどうかわからないんだぞ」
「そうならないようにすればいい。案じてばかりいて、心が弱っているんじゃないか? 私の分のサラダも食べるか? なんだカナエ、まだエイラに口もつけていないじゃないか」
 カナエはうっと言葉に詰まった。目をさまよわせ、観念したように一拍、ため息をついた。
「これは、その……ミコ先生のところに持っていこうと思って」
「……ウイング・ロスの患者たちか」
「そう、俺たちはちょっと悩みながらでも元気に生きてる。でも、シロに片翼を食われた奴らは、皆、毎日自殺の衝動と戦っているんだ。エイラの実を食べたら、ちょっとは元気になるかもしれない」
 私たちは黙りこんだ。食堂の喧騒が耳鳴りの引き際のように遠くなる。この件は、深刻な問題だ。
 私の考えでは、エイラの実はカナエが食べるべきだ。ウイング・ロスの患者たちは、ほぼ、望みがないのだ。ならば、まだ戦えるカナエが、健康になったほうが有意義だと思う。
 だが一方で、ウイング・ロスから回復した例が、一件だけある。何を隠そう、医師をやっているミコがそうなのだ。我々は歴史に詳しくないが、私が知っている中で、ウイング・ロスを克服し、命があり、あまつさえ働いているのは、ミコ先生しかいない。その例を、二つ、三つと広げていけたら、それは我々ハネビトの大きな希望になる。だが、リスクは大きい。カナエを失うわけにはいかない。
「そもそも、病人たちに、エイラの実は行き渡っているだろうか、カナエ」
「さあ……どうなんだろうな」
「様子を見てくる。カナエはここに残るか?」
「俺も行く」
 ここでは離席しても食事を勝手に取られることもない、平和な土地だ。私たちは集落のはずれにあるミコの病院を目指した。
 この集落は小さく、山に囲まれ、安全だ。隠れ家のようだと思う。
 皆の家には庭があり、おのおのが果物を育てている。ブドウだったりキウイだったり、様々だ。土壌が豊かで、大抵の果物は育つという。
 その家々を越したところに、ミコの病院がある。白い壁はナースのマサキが毎日朝に掃除をしているそうだ。
「ミコ先生! こんにちはー!」
 病院の扉をノックしながらカナエは声を張り上げた。扉が内側から開く。
「カナエ……」
 出てきたのは、ナミダだった。エイラの実の乗った盆を持っている。焦点の合わない目がゆっくりと我々を見た。
「マツロお姉ちゃん……」
「ナミダ、どうした」
 尋常でない様子だ。
「何だ、ナミダ!」
 しびれを切らしたカナエがナミダの両肩を掴むと、ナミダは顔を歪ませて、しくしくと泣き出した。
「マツロちゃん」
 奥からナースのマサキが呼んだ。マサキは男性だが、挙措は貴族の女性じみて優雅だ。この国では珍しく、濃い化粧をしている。異国に修行に行っていたと聞いたが、その時の名残だろうか。
「ユカリちゃんが、ご臨終よ」
 マサキの言葉に、ナミダは盆を落とし、声を上げて泣き出した。エイラの実がばらばらと広がる。カナエが悲痛な表情をしてナミダを抱きしめている。
 ユカリ。騎士団員で、よく笑う女性だった。些細なことでも、ナミダやカナエを笑わせてくれる明るいハネビトだった。大好物の梨を食べている間だけは静かだった。
「マサキ。彼女は最期に、何と?」
 ナミダの泣き声にかき消されそうな、薄っぺらい言葉が私の口から出た。
「最期の言葉は、『お魚が食べたい』だったわ」
「なんで。お魚なんて輸入してあげればよかった。どんな高級魚だって人の命には代えられないのに! なんで皆、ちょっと周りが頑張れば済むことを悔やんで、死んでいくの……」
 ナミダはしゃくりあげながら叫んだ。奥から医師のミコが出て来た。
「ナミダちゃん、ナミダちゃんはこの前、ユカリちゃんが食べたいと言っていたリンゴを、持ってきてくれたね」
 ミコが穏やかな声でナミダに言った。
「サチエちゃんのときも、輸入物のチーズをたっぷり、持ってきてくれたよね」
 ナミダは泣きながら、ただ頷いた。涙をぬぐう手の甲が受け止めきれずに滴をこぼす。その滴は抱きとめるカナエの腕の服に吸い込まれ、小さな染みを作った。
「ナミダちゃんはよく頑張ったよ。僕たちもよく頑張った。皆、よく頑張った。ナミダちゃん、ご飯がまだだろう。家々を回ってエイラの実を届けていたようだから。ご飯にしよう。僕たちは、何を失っても生きなければならない」
 ミコの毅然とした態度に、ナミダは徐々に泣き止んでいった。ミコが微笑むと、ナミダは目元をエプロンのポケットから出したハンカチで拭いた。ミコの整った顔立ちが笑えば大抵の女は赤面して言葉を失うが、ナミダはそうではないらしい。盆を持ち直し、散らばったエイラの実をカナエと一緒に集めた。カナエは唇を噛み、何も言わなかった。言葉はなくても、悔しさが伝わってくる。
「ミコ先生、あと何人……いますか」
 ナミダは言葉を選んだ。
「カズくんとハカセくん、ハミちゃんだね」
「じゃあ、先生のところにも、エイラの実は間に合いましたね」
「行き渡ったのかい」
「はい」
「じゃあ、ナミダちゃんは食堂に戻るといい。よく噛んで食べるんだよ」
 そこで、扉がノックされた。
「誰か……いるんですか……?」
 細い声が扉の奥から聞こえる。
「患者さんかな」
 ミコが扉を開けると、見覚えのない見目の女性が立っていた。
 肌が白く、見たことのない装飾のドレスも白く、雰囲気も儚い。
 全体的に、白い。
 胸騒ぎのするような、空虚な色だ。



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