第三章



 少女は壁に描かれた壁画を見た。赤と黒を基調にした、国王を称える壁画だ。「Q・V」という文字が、デコラティヴな字体で、スプレーによって描かれている。
 しばらく見つめた後、少女は立ち込めるシンナーの匂いに嫌悪を覚えた。描いている間の高揚も揮発していっていた。血液は体の中をめぐっていてこそ清潔だ。それと同じ心理で、少女は壁画を汚いと感じた。
 一本奥の通りで、群衆が沸いている。このヒイロ国の王が食事をとるという。王はほとんど食事をとらない。従い、国民の前で食事をとるだけで、このように一大ムーヴメントとなる。
 この国は雨がよく降る。今日も例にもれず、小雨がちらついていた。それは却って、平和の象徴のように思えた。
 王は飾り立てない機能的な服装をしている。言ってしまえば一見して王には見えないだろう。王が何を食べるのかに興味を持ち、少女は小雨の中でもなお白い、手近な大理石のオブジェによじ登り、人ごみの奥を見た。王は、遠方の、ハネビトと呼ばれる種族が住んでいる、トチという国へ行ってきたらしい。そこで輸入した、ザクロという果物を、同じく輸入物のミルクを飲みながら、食べている。表情豊かな王、チシオは、満面の笑みで天真爛漫に食事をしている。「Q・V! Q・V!」と群衆は沸く。王は男性だが、Q・V、もとい、クイーン・オヴ・ザ・ヴァンパイアと呼ばれることを好む。
 王、チシオは大口を開けてザクロを平らげ、ミルクを口の端からこぼしながら飲み終わり、舌なめずりをして食事を終える。そのさまは獣にも似て、少女は好感を覚えた。王は特別に設営された立派な食卓を立った。群衆は言葉すら失い、ただ興奮に叫んでいる。王は人体の歯にも似た城門を開け、王城に戻ろうと背を向けた。そこで音もなく、王にクロスボウを撃った者が居た。王は手掴みで、飛んできた矢を横から握り、群衆は更に沸いた。王は今日は機嫌がいい。にっこり笑って振り返り、握った矢を手のひらに突き刺し、すぐに抜いた。群衆は王の危機に怒りにも似た声を上げて辺りを見渡している。王の手のひらから血が溢れ出る。その血は滴ることなく、宙に浮いた。王はすました顔で、再び背を向ける。王の手からは血が糸のように伸び、城門を通る頃に宙で『VITA』と形を取った。『ヴィタ』はこの国独特の国民性を謳った挨拶だったが、今日日、挨拶すらも輸出される。今や『ヴィタ』は、先進国の間では、メジャーな挨拶だ。
 王の血液は赤色の金属のような質感の、血液の風船と化した。群衆の中には興奮のあまり気を失ったものもいた。城門が閉まり王が見えなくなると、浮いていた血はべしゃりと地面に落ちた。水銀のように水滴として弾け、一拍弾み、一瞬輝いたのちに土に吸われ、染みを作った。
 城門の前にクロスボウを構えた王の忠臣が歩み出る。すべてパフォーマンスだったことを示した。一瞬の極限のスリルを群衆は楽しんだ。この国のすべてがこの瞬間にある気がした。あの王は、常に刺激的でエキセントリックだ。この国の王としてどこにも恥じない在り方だ。この国の王の嘘はいちどきりであることで有名だ。その王が、危機という嘘を見せた。それがいちどきりならば、この国の危機は二度とないということになる。国民皆がそれを信じたことだろう。
 少女には家がない。少女だけではない、この国には家がない。皆、気分で決めた宿に泊まる。宿は政府が開放している。国民性も、まるっきり自由だ。家で眠るより、気まぐれで決めたその夜限りの宿で、新たな人間関係や初めて食べる味付けの料理に舌鼓を打つのが、この国の一般的な幸せの形だ。あの奇抜で野性的な、チシオという、このヒイロ国の王のあり方は、紛れもなくこの国の王のそれだ。この国の国民が誇る王だ。そしてその王も、この国を大切に思っているのは周知だった。
 「Q・V」という呼称は、ミロ国の王、G・Fことグランドファザー・メイロが使い始めたものだ。ミロ国は何でも省略したがる、と、最初チシオはうんざりしていたが、国民が「Q・V」と沸く様子を見て、満更でもない様子でミロ国から機械や技術を輸入するようになった。白い石製の城門の奥では、政治機関が日夜働いているという。だが、少女はその世界のことはよく知らない。ただ、雨がよく降る、風の強いこの場所を、居心地のいい国だと思っていた。

***

 押し寄せるシロは、我々ハネビトに、絶望を見せた。
 ヤミの軍団はシロに火炎放射器で対応しようとするが、大ぶりな武器が構えられるよりも早く、シロは軍人の頭を啄み喰らい取ってしまう。まるでイチゴでも狩るように、シロは軍団の頭をひとつ、またひとつと喰らっていった。これでは、我々ハネビトがどんなに頑張っても、シロがその気になれば一瞬で我々は絶滅するだろう。
 辺りが、軍団の血で赤く染まった。悲鳴はどこか遠く聞こえた。ヤミが指揮を取ろうとしていたが、自衛で精一杯なようだ。王、ヨルはチルの傍で、ただ、すべてを見ていた。決して軍団を見捨てたわけではない。彼らの最期を、静かな瞳に映して、心から哀しんでいる様子だった。ヨルは知っていた。王としての自分が君臨しなければ、目の前のすべての彼の軍が、無駄死にとなるのだ。
 一方で、不思議なことが起きていた。軍団よりも、リヒテイユ騎士団のほうが善戦する。
 軍団はひとりひとりを数える暇もなく、断末魔だけを残して赤く倒れる。
 不意に、そこに、不釣り合いなほど明るい声が響いた。
「あっはっは! 久しぶりだねえ! チル!」
 はっと見上げる。上からの声だ。機能的な、飾り気の少ない服を着た青年が、上空から落ちてくる。周りには赤いブヨブヨとした質感の、小ぶりな翼のようなものを幾つか纏っていた。
「いい景色だねえ! あっしは昔から、赤が大好きでねえ!」
 チルは目に見えて怯えた。かかとの高い靴が後ずさる。それを見たヨルは落ち着いた声で呼びかけた。チル、俺の傍から離れるな、チル。
 見えるのは、血の赤に覆われた地面、軍団の死体と、僅かな生き残った軍団はヤミの傍に固まって背を預けあっていた、それに伏したナミダとカナエ、生き残りの数えられる程度のリヒテイユ騎士団員、そして獰猛なシロたち、だが様子がおかしい、シロたちは嘴を振りかざし、何かを振り払おうとするように身をよじり始める。
「苦しいかい? 苦しいだろうねえ! あんたたちには! 血を飲む資格なんてないんだ! それはねえ! あっしの専売特許なんだよ!」
 青年がそう叫びながら合図をすると、地面に広がる血の赤が、まるで命を持ったように脈動し始める。私は気付く、血の海の中で足が動かない、しかも先程の黒い塊のようには払えない。
 青年は手を下にぶんと振り下ろした、すると、地面の血が青年の真下、燃えた果樹園のあたりに、太い柱のようにずいと集まる。地面に散ったはずの血液が、純粋な赤い水となって、再度命を与えられたようだった。
 そして青年は着陸した。ざばと大きな音を立て、集まった血の柱に落ちた。青年の周りにあったブヨブヨが、クッションの役割をした。そのブヨブヨも血液の色をしているのが視認できる。
 重力に従って、青年の体が血の柱に沈む。数メートル沈んで勢いを殺したあと、ゆっくりと足を地面につけた。役目を終えた血の柱が弾け飛ぶ。比較的近くにいた私は、動けないままその血を大量に浴びた。目を開けると、ヨルがマントでチルと彼自身を包んでいた。
「よお」
 青年は静かにヨルとチルに歩み寄る。
「貴様!」
「よせ」
「陛下」
 豪奢な鎧を血に濡らしたヤミが、斬りかかろうとする。それをヨルが止めた。
「今日という今日は、許さないよ、チル、あっしはあんたが嫌いだ。魅力的なあんたが嫌いだ」
「チルに手を出すな」
 ヨルは静かな声で言った。
「あっしは、クロ国にはなんにも言えないんだけれどね、シロ国には、言いたいことがたくさんあんだよ」
「俺に免じて、チルを許してくれないか」
「嫌だね。だからどいてよ。あんたが居るうちは、あっしは手を出せない」
「どかない」
 場は完全に膠着した。この戦争を表現したような構図だった。
 それを壊したのは、一台の空飛ぶ船だった。静かに、しかし確かに、この戦場に近づいている。厳かな重い機械音が、だんだん耳に届き始める。
「ミロ国か」
 ヨルが静かに呟いた。
「ヤミ」
 ヨルに呼ばれ、ヤミが敬礼をした。ヤミは、いや、黒い軍団は、我々と違い、血の中でも動けるようだ。ばしゃんと、足元の血の海に波が広がる。
「ミロ国は、ここを治めたいのか」
「は。このトチ国はミロ国の管轄、治めても問題ないと世界会議は判断しています」
「待ってくれ」
 口を開いたのは、医院を追い出されたミコだった。
「言っておくが、ハネビトに権利などない」
 ヤミが言った。挑発だったのかもしれないが、ミコは動じなかったし、私も特に何も感じなかった。もともと、政に明るくないうえ、権利がほしいとも思わないのだ。
「我々は権利が欲しいわけではない」
「ならば何を言うことがある」
「まだ間に合う患者が多い」
 ヤミは一瞬言葉を失った。
「僕は医者だ。治療させてもらえないだろうか」
「ばっかじゃないの」
 赤い青年は割って入った。血の海は赤い青年がミコに歩み寄るとおりに、反発する磁石のように道を譲った。
「あんたは、その辺で死にかけてるクロ国に、殺されかけたんだよ?」
「僕もこんな酷い外傷を大量に治療したことがない。僕がもし彼らの治療をするなら、僕に命を預けてもらうということになる、それは、僕に殺されかけるということだ」
「不思議なひと」
 青年は吐き捨てた。
 そうこうしている間に、空飛ぶ船は、集落のはずれに着陸した。こうして見ると大きい。重たい機械音が、胸の奥に響く。
「チシオ」
 ヨルのマントの中から顔を出さないまま、チルが青年に声をかけた。
「なに」
「シロを、殺してあげて。苦しんでる」
 辺りに残ったシロを見る。確かに、嘴に絡みつく血によって苦しい様子だ、つらそうにのたうっている。
「あっしは確かに、シロをいつでも殺せる。ただ、あっしとの相性が悪いクロ国は、シロが苦手だ」
「ならば」
 ヤミが言う。
「ここを治めるのは、ミロ国の仕事かもしれない」
 言葉に導かれるように、船から降りてきた、品のいい紳士が歩いてくる。左右にひとりずつ、護衛をつけている。
 青年は、ちっと舌を打って、右手で空を切った。合図のようだ。その瞬間、シロたちが、一斉に動きを止め、絶命したように倒れ伏した。
 ヨルはゆっくりと問うた。
「三国戦争は、停戦か、ヤミ?」
 ヤミは言葉に詰まった。その挙措は物語っていた。ヤミは、ヨルの指示なしにこの停戦を導き、それをヨルに見通されて何も言えなくなっているのだ。ヤミはこの場にヨルが来ることを予測していなかった。そこから計算が狂っていっているのだろう。
「あっしは、停戦でもいいよ。そもそもトチ国なんてなくても、あっしのヒイロ国は自立しているし幸せだから」
「チル」
 ヨルが呼びかけた。
「私は、果物が食べたいの」
「なら、俺が買ってやる」
「それなら、停戦でもいいわ」
 トチ国は、シロ国、クロ国、ヒイロ国のような先進国ではない。だから、この地を巡って三国戦争が行われていることを誰も知らなかった。どこかで戦争が起きている、その程度の認識では、国を護るに足らない。
「妖精が居る国で、争うべきではない」
 紳士は言った。
「お初にお目にかかります。ミロ国のG・F、メイロです。我が国はトチ国には主にミルクを輸出しています。商人のかたから伺っていますよ、リヒテイユ騎士団の皆さん。そこの片翼の医者が仰るとおりです。怪我人の手当てを急ぐべきでしょう。その間、一時的に私がここを治めましょう。ミロ国は、三国戦争では中立国を貫くつもりです」



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