第四章



「シャルロット」
 王宮の中庭に夕日が差すのを見ながら、ハヤテは角を持つ大型犬を、シャルロットと呼んだ。
「お父様が、戦場に向かわれた」
 シャルロットはただ静かに、ハヤテの傍にいた。ハヤテが中庭の花園に直接腰を下ろしているせいで、シャルロットが伏せてもハヤテよりも背が高い。
「ミロ国は、中立国なのに。どうしてそんな危険なことを、お父様がなさらなければならないの」
 ハヤテの声がいつもよりも鋭い。シャルロットは困っていると主張するように、鼻をハヤテにすり寄せた。ハヤテはシャルロットの頬に触れて、問う。
「シャルロット、私はどうしたらいいの」
 ハヤテは高貴な育ちの者特有の、聞いていて気圧されるような声を出した。シャルロットは控えめに、鼻でハヤテの眼帯をつついた。するとハヤテは肩が跳ね上がるほど驚いた。その驚きようは、ただの少女そのものだった。手のひらいっぱいに持った色とりどりのキャンディが溶け始めていることを知るような幼さだった。
「そう、そうよね、シャルロット、ごめんなさい。私は。そう」
 その一瞬で、もう迷いや苛立ちはなくなっていた。少女としてのハヤテはいない。この国のナンバー・ツーとしてのハヤテが居た。
「ありがとう、シャルロット」
 ハヤテは立ち上がる。シャルロットも倣った。ハヤテがシャルロットの頭を撫でる。シャルロットは引き締まった尻尾を緩く振った。
「ハヤテ様」
 スタディ・パレスの側近が声をかけた。ハヤテは振り返る。スタディ・パレスを治める姫としての威厳があった。
「取材の申請が来ています」
「何の件ですか」
「スタディ・パレス、報道部のラカツキ様から、トチ国に、王が向かわれたことについてだそうです」
 ハヤテは眼帯を撫でた。それだけで父が傍にいるような気がした。
「承知しました。通してください」
 通されたのは、ハヤテでも知っている、国民的なアイドルだった。
 彼は、肌を一切露出しない迷彩柄の上下に肘当て、膝当てを身に着けていた。あとはヘルメットがあれば軍人だと言っても信じられそうな風貌で居た。
 いつものような、きらきらとした、派手さ、豪華さはそこにない。粛々とした表情は、服装とあいまって、ハヤテに戦争というものを改めて感じさせた。
「トチ国。……」
 彼は、意味深長に言葉を切りハヤテに向かって微笑んだ。
 彼が話を聞かせる手腕に長けていることをハヤテは知る。
 そのあと彼の口は、流暢に取材を始めた。
 ハヤテが会話の違和感に気付く頃には、いつの間にか、彼は交渉を要求してきていた。スタディ・パレスの長として、ハヤテは背筋に冷たい汗を滑らせた。この男は、何者だ?

***

 クロ国が我々に対して使ったのは、殺傷能力の低い、麻酔銃のようなものだったという。
 だがハネビトの翼は繊細だ。ナミダもカナエも、翼を動かすことはできなくなってしまったとミコが言っていた。
 特にナミダの、ウイング・ロスからくる、うつが酷いという。翼が動かないことに加え、両親と一緒に運営していた果樹園が目の前で焼き払われたのだ、無理もない。カナエはというと、ナミダのために生きようという意志が見えるという。ただ、いつ折れるか判らない。ハネビトにとって、翼を失うのは一生の喜びを失うことと似た絶望だ。
 ふたりのことは別室で寝かせているという。ふたりともいつ心が折れるか判らない。片方が折れたら、もう片方も折れるだろう。また、ふたりとも同室ではないことを望んだという。互いに、弱った自分を見せたくないのかもしれない。
 カナエは半端に龍と化したまま、治らないらしい。私が見舞いに行くと、白い病室に、二本の角と長い牙、そしてそれに不釣り合いな悲し気な瞳で、ベッドの上に居た。
「やあ、騎士団長」
 カナエは私を見ると、うまく笑えない顔で笑おうとしたようだった。
「煙草をどうぞ」
「あ、ああ」
 カナエは異常に見えるほど冷静だった。私はそんなカナエを目の前にして緊張してしまい、言われるまま、手は覚えている通りに煙草に火をつけた。妙な胸騒ぎがした。カナエは、何かが変わってしまっていた。それは外見の奇怪な変化ではなかった。カナエという存在が、見当たらなくなり始めている。目の前のこれは、いったい誰だ?
「シロを狩っていたときでさえ、こんなに死が近くに感じられたことはない」
 私が病室でひと息つくと、開口一番カナエは言った。
「これから、どうしたらいいのかわからない。ナミダのことも、こんな体じゃ幸せになんてしてやれない。もう、お終いにしたい。とても疲れた」
 私の締め付けられる胸では、何も言えなかった。肺に煙草の煙がわだかまりを作る。カナエはどこか遠くを見たまま続けた。
「ナミダは、家庭環境がよくなかったんだ」
 どうにも厳しい家で、ナミダは従順に育った。やれと言われたことは全部やった。その結果がこれだ。ナミダはなにひとつ、自分の好きなことをできなかった。家庭の悩みだって、俺にしか話さなかったという、それは、聞いたか、騎士団長?
 私は答えた。私は聞いたことがなかったな。
「じゃあきっと本当なんだな。騎士団長の言うとおり、さっさと嫁に迎えてやればよかった。そうすれば、果樹園なんかじゃなく、ナミダが本当にやりたかった美容室くらい、させてやれたかもしれない」
 美容室がやりたかったのか。私が携帯灰皿に灰を落としながら問い、向き直るとカナエは顔を背けていた。
「ナミダはああ見えて、他人を自分の力で変えることが好きだし得意だ。相手の言いたいことを察することにも、両親の機嫌取りで長けている。あと、ナミダは、ミロ国の『人形』という玩具を欲しがっていた。人間によく似た形をしていて、服や化粧、髪をいじって自分好みにする玩具なんだと。買ってやればよかったな。とても高価なんだ。でも、こんなことに」
 カナエは言葉を詰まらせた。息をつめ、吸い直して、言葉を継いだ。静かな声だった。
「こんなことになるなら、買ってやればよかった」
 カナエの牙に滴が伝った。その涙は止まらない。いつしか龍は慟哭のように、声をあげて泣いていた。そこでは、先程まで薄れていたカナエという人格が今は露わに、ひたすらに哀しんでいた。
 私は何もしてやれない。私にできるのは、カナエに夢物語を語ることだけだ。自分の非力を悔いながら、私は言葉を絞り出した。カナエを失いたくなかった。ナミダを失いたくなかった。だが、私に、いったい何ができるだろう。私にはあんな力を手にすることは出来ない。あの王たちのようには、なれない。今できる精一杯は、カナエを、この無力な言葉で支えようとすることだけだ。
「翼がなくても、買ってやればいい。足がないなら私が代わりに買ってきてやる。ミロ国のどこに行けば手に入るんだ?」
「ありがとう」
 龍は涙を止めようともせず頷いた。
「商人に頼めば、人形屋に約束を取り付けて、次の交易で持ってきてくれるよ。でも、もう間に合わないだろう。ナミダの弱り方は見たか? 俺よりもひどいことをされたんだ、きっと俺より参ってる。こんなにつらい俺より参ってるなら、もうすぐ死を選ぶだろう。俺だってもういますぐにでも消えていなくなりたいのだから、ナミダに耐えられるはずがない。ナミダは、とても繊細な子だ。騎士団長も知っている通りに」
 カナエは一気に話すと、ナミダの様子を見てきてほしいと私に言った。カナエの涙は止まらない。泣き顔をずっと見られるのも嫌だろうと、私は煙草の火を消し、ナミダの個室に向かった。
 個室には、ナミダの両親が面会に来ていた。
「マツロちゃん」
 ナミダの両親は私を見ると丁寧にお辞儀をした。私も返す。
「パパ、ママ、ちょっとマツロお姉ちゃんと話したい」
 ナミダの両親は、後ろ髪をひかれる思いだっただろうが、言われた通りに個室を出た。
「ナミダ、具合は」
 私が訊くと、ナミダは、あんまりよくない、と答えた。
「マツロお姉ちゃん、秘密のお話をしたい」
「何でも聞こう」
 身を乗り出して私は言った。何でも叶えるつもりだった。どこかで、これが彼女の最初で最後、一生に一度の頼みだと知っていた。
「あのね」
 ナミダはベッドに寝たまま、手の甲で両目を隠した。いくらか手首が細くなった気がする。
「遺灰を、カナエとおんなじところに入れてほしいの」
 遺灰、と、私はオウム返しをした。
「夫婦でもないのにおんなじところに遺灰なんて変でしょう。でも、こっそり、やってほしいの。私、こんな風にならなかったら、カナエのお嫁さんになりたかったの。マツロお姉ちゃんにだけ言うけれど、カナエのことが大好きだったんだ。誰がなんて言っても、カナエがどう思っていても、私はカナエのいちばんになりたかった。いちばんになってやるつもりだった。何を失ってもカナエが大切だった。でも、カナエとうまくいったとしても、パパもママも、騎士団なんて危険な仕事をしているカナエと、一緒にはさせてくれないと思う。だから、マツロお姉ちゃんにお願いしたいの。カナエが嫌がっても、やってほしいの。わがまますぎて、マツロお姉ちゃんにしか頼めない」
「カナエは……」
 言おうか迷ったが、言うことにした。
「ナミダと美容室をやってもいいと言っていたよ」
「美容室? カナエったら、おしゃべりだなあ」
 ナミダの声が震える。力のない笑いだ。
「ミロ国のニンギョウとやらも、買ってやると。そして一緒に美容室をと。旦那が龍じゃ、嫌かい、ナミダ?」
「龍だって、カナエには変わらないから、私はいいけれど。でもね、もう遅いんだ。ごめんね。もうだめなんだ。前は、お人形のことを聞くたびにわくわくしたし、毎朝髪を結うときも、とても楽しかった。でも、今はそうじゃないの」
 確かに、今日はナミダは髪を下ろしている。光沢があり、しなやかな髪だ。溶けかけた雪のような、危うい美しさだった。彼女はどんな思いで、これまでこの髪を手入れしていたのだろう。
「いろんなひとを綺麗にして、ありがとうって言われたかった。このトチ国じゃ美容室なんて、お話の中にしかないでしょう? でもね、ミロ国とか、ほかの先進国には必ずあるんだって、商人のかたが仰ってたの。だから、私は美容室を開いて、この国をちょっとだけ都会にしたかった。都会の女の子になってみたかった。カナエと、人並みな幸せが欲しかった」
「今からじゃ、なんで遅いんだい」
「だって、羽根がないんだよ。それって、もう私じゃないでしょ。マツロお姉ちゃんにとっては小さなことかもしれない、でも私にとっては、身を裂かれるみたいにつらいことなの。きっと、ほかのウイング・ロスのひとたちもおんなじだと思う。とても、とってもつらいんだ。人生全部、真っ黒くて汚い蜘蛛の巣の中にあるみたい。身じろぎでもしたら、その蜘蛛に体液全部吸われて、とてもみすぼらしい形になってじわじわと死ぬの。そうなるくらいなら、自分で綺麗に死にたい」
 震えていた声が、死にたい、というときだけ、しっかりと芯を持った。きっとその言葉は、ナミダにとって、大切な言葉なのだろう。死にたい、その言葉が、ナミダを支えている。だが、ひとは死にたいと願いながら幸せを感じるようにはできていない。叶ったときに喜びを感じられない希望だ。当人たちも死にたいと思いながら、きっとそのことには気付いている。だから、希望というものが全くないような気になるのだろう。
「マツロお姉ちゃん」
 考え事に耽っていた私は、急に呼ばれて驚いた。ナミダは静かな声で言った。
「遺灰の件、よろしくね」
 翌日、ナミダは自殺した。
 両親の意向で、火葬は行われず、水葬になった。
 遺灰は手に入らなかった。
 後を追うように、カナエも自殺した。
 カナエは龍になった際に骨を酷使したらしく、火葬後は綺麗なほど何も残らなかった。
 いや、王たちへの醜い憎しみだけが、私の中に残った。
 カナエの葬式の会場には、見慣れない機械のようなものを持った、迷彩服の男がいた。機械に向かって笑ったり話したり、不気味なやつだと思った。もっとも、フルフェイスのヘルメットのせいで、顔立ちは見えない。そいつは、やけに表情豊かな声をしていた。
 そして私のほうに来ると、ヘルメットを脱いで、初めまして、マツロさん、と言った。
 そこそこの顔立ちをしている。だが、この不気味さはいったい何だろうか。



Copyright(C)2017 Maga Sashita All rights reserved. designed by flower&clover
inserted by FC2 system