第六章



 かつて、俺はヒスイ国の国民だった。よく雪の降る寒い土地だ。
 皆で平和に暮らしていた。隣の家で赤ん坊も生まれた。毎日食事が旨かった。
 ヒイロ国へのヒスイモチの輸出によって、貧しくはない国だった。
 ヒスイモチはヒイロ国が買い取り、先進国への輸出の中継をしてくれていた。中継を挟むことで原価は低かったのかもしれないが、暮らしていくのに何の不便もなかったし、ヒスイモチの材料である緑芋という植物の根と、バッカスという液状の調味料は、年中採れて採れて仕方なかった。つまり余り物が金になった。毎日それなりに幸せに栄えていた。
 だが、ある日突然のことだった。
 白い鳥のような化け物がヒスイ国を襲った。政治家はヒイロ国に救援を求めた。三国戦争の真っただ中だったヒイロ国は、それにもかかわらず迅速な対応をしてくれたほうだったと思う。
 だが、それ以上に化け物の侵攻は激しすぎた。
 俺と家族はひたすら家に隠れた。食糧は、ヒスイモチが山のようにあった。籠城するには向いていた。ほとんどの家が似た状態だっただろう。
 だが、家々は、ひとつひとつ、その化け物に、屋根から食い破られていった。
 あらゆる家が廃墟と化し、死体が溢れかえった。
 とうとう、隣の家から悲鳴が上がった。赤ん坊の泣き声が聞こえた。家族は耳をふさいだ。
 俺がそのとき何を思ったのかは覚えていない。
 しかし、気づけば俺はその赤ん坊のために家を駆け出していた。こんこんと降り積もる雪の上を走った。白い足元が、俺の靴の通りに沈む。
 その家では、化け物に襲われるその赤ん坊を守るように両親が折り重なって倒れていた。
 化け物はその層を嘴ではがしていく。
 俺は吼えた。大声を出すと、化け物はこちらに興味を惹かれた様子で、赤ん坊から意識をそらした。赤ん坊は驚いた様子で泣き止んだ。
 そこで赤い雨が降ってきた。破れた屋根から降り注ぐ雪が赤く染まる。きっとヒイロ国だ。助けが来たのだ!
 俺は期待に満ちた! 頭上の破られた屋根の奥を見た! 赤い雨は化け物に絡みついた!
 助かった!
 そう思った。化け物たちは、赤い雨にまとわりつかれ、動かなくなった。勝った。勝った!
 不意に、ヒイロの兵は更に上を見た。
 黒い群れのようなもやが、ゆっくりと近付いていた。
 ヒイロの兵は不機嫌そうに、家を出ていく。化け物は片付いた後だ、構わないと言えば構わない、だけれど、俺の心にはいい印象は残らなかった。
 礼のひとつも言わせてくれなかった。命が助かっただけありがたいのだが、どこか釈然としない部分があった。
 俺は可愛らしい声で再度泣き出した赤ん坊を抱えて、あやしながら自分の家に向かった。
 すると、玄関に黒い兵が立っていた。鎧でわかる、クロ国だ。
「生き残りか?」
 いっとう立派な鎧が俺に訊いた。
「ここの家はやられてしまったようだが」
 一瞬、意味が分からなかった。
「酷い有様だ。屋根を破られて侵入されたな。恐らく、この国で最後まで残っていた家だろう。血痕がいちばん新しい」
 脚が、ひとりでに動いていた。
 玄関を開け、廊下を通り、屋根を破られ雪の舞いこむ部屋の中には、家族の遺体と倒れ伏した化け物が居た。
「だって」
 俺の口は意味をなさない言葉を垂れ流した。
「ヒイロ国が、助けに来てくれた」
 鎧が、静かに近づいてきた。赤ん坊は腕の中で眠ってしまっていた。気付かないうちにそれだけの時間が過ぎたのだ。
「ヒイロ国は、ヒスイ国にいたシロの完全な沈黙を見て、軍を引いた。世界会議は、友好国の緊急時とはいえ、中立国への大規模な派兵および占領をしたヒイロ国を非難している。シロ国には更に重い警告が行われた。シロ国の沈黙により、ヒイロ国がここに残る理由はなくなった。撤退はそういう理由だ」
「だって、助けにきた。みんな助かるはずだった」
 鎧は、一瞬呆れかえったような雰囲気だった。だが、俺の腕に収まる小さな命を見ると、穏やかな声をかけてきた。
「その幼子の親か?」
「この子は、お隣さんが先週」
「他人の子を助けたんだな」
 俺は幼児に戻ったように頷いた。
「その勇姿、その幼子には代えがたい姿として映ったろう」
 俺は頷いた。首振り人形よりも間抜けだったろう。
「政治には明るいか?」
 俺は、あんまり、と答えた。
「シロ国とヒイロ国がかわるがわるここを占領した。公平性のためにクロ国が後始末をつけることになった。簡単に言うとこういうことだ。ヒスイ国の国民がクロ国をも要らないと言うのなら、我々も撤退する」
「でも、もう」
「そうだ、ヒスイ国民は、あなたとその幼子しかいない」
 俺は、いろいろなことを一瞬で考えたように思う。理不尽なシロの強襲。いい印象のないヒイロ国の兵たち。俺の行為を勇姿と表現し、話し相手をしてくれているクロ国のこの鎧。
「ヒスイ国としてやっていくか、ほかの国に援助を求めるか。あるいは、どこか別の国の領土となるか。政治に明るくないのなら、国として立て直すのは難しいだろう。援助を求めるか、領土となるかが賢明だろうと思われる。ヒスイ国とヒイロ国は友好国だったようだから……」
「クロ国の領土に」
 話を遮られた鎧はやや驚いた風だった。
「そして俺とこの子を、クロ国の役に立ててください」
 鎧は少し考えて、問うた。
「なぜ、クロ国なのか?」
 俺の口はひとりでに動いた。
「クロ国のあなたが、いちばん俺に優しくしてくれた」
 鎧は、そうか、と答えた。
「その勇姿。……」
 鎧の声音が変わる。
「我らが王を護るために発揮できるのなら、最上級の暮らしを与えよう」
 目の前ですべてを踏みにじられ、俺が護るべきものは、腕の中で眠る赤ん坊だけだ。
 ならば、俺はこの子を護ろう。ほかの国の王を護ることで、この子を護れるのなら、と思った。
「この子と俺に、力をください」
 鎧は頷いたようだった。
「イブリ先生」
 目を開けた俺ははっと我に返る。知らぬうちに瞼が閉じていた。
「また考え事ですか」
 目の前に、美しく育ったあのときの赤ん坊がいた。
 俺とこの子は、あのとき、名前も国も捨てた。
 代わりに、俺はクロ国王室直属秘密組織キングス・フレイヴァの隊長“薬師”イブリ、またこの美しい子はあのときの赤ん坊、クロ国の民となり、同組織の副隊長“毒姫”ヨスガとして、あのときの鎧、ヤミ閣下から新たな人生を与えられた。

***

「大量の食べ物が必要だ」
 チシオは逆光の中で、静かな声でそう言った。
「言わないで、チシオ」
「その女は、一国を滅ぼすほどの食べ物を喰らい、吐き出す過程でシロを生む。要するに食って吐いて、吐瀉物が兵器になる」
「チシオ!」
 チルが嫌がっているが、チシオは構わず話し続ける。
「つい半年前、我が国と友好関係にあったヒスイ国も、その女に滅ぼされた。ヒスイモチという菓子が旨い土地だった。揚げられた香ばしい皮と溶けるような餡が絶品だったんだが、国ごと啄み溶かされてしまった。私の友好国を貪り尽くして、さぞやご満腹になったかと思ったら、今度はトチ国だ。私はトチ国のザクロが好きだからね、これ以上の勝手は許したくないんだよ、私だけの意見ではないと思っている、シロはあまりに制御を離れて、罪のない、関係すらもないものたちを殺しすぎている」
 チシオは今度は「私」と言った。今度は淡々とした静かな口調に変わっている。
「私も、チル、いや、シロ国がこんなに暴れなければ、戦争なんかしていないよ。困ったことにね、マツロ、その女は国を滅ぼすほど喰らい、その吐瀉物で別の国を滅ぼしているんだ、ただの食事、行軍とはわけが違う、一連の流れになってはならないものが、なってしまっている、生命活動の一環のように、その女は数えきれない命を奪っている」
 逆光でもチシオが目をすがめたのがわかった。
「それでもチルの味方をするのかい?」
 チルの味方をすると言えば、きっとチシオはこの国ごと私を血の海に沈めるだろう。私は知恵がないが、できる限り考えて発言した。
「トチ国は、誰の味方もしない。今、私個人が、乱暴されているように見えた女を見過ごすことができなかった」
 チシオは、ふむ、と、私の背後に目をやった。
「ときに、その報道者はミロ国の者だね? あっしは別にシロ国の女帝に乱暴しようとしたわけじゃない。また食べて吐こうとしたから止めただけだよ。あっしはアプローチはもうちょっと紳士的だからね。アマチュアだとしても、いたずらに印象操作をするならば、あっしは国王として、黙っていられないからね」
 チシオは冗談めかしたが、本気だと言外に言っていた。彼はラカツキを見ていた。チシオの目がぎらりと圧力を発した。
「承知しております」
「結構」
 ラカツキは緊張した声で答えた。
「チル」
 存在感のある、第三者の声がした。後ろを向く。扉を開けているのは、真っ黒なマントの大男だった。
「何かあったのか」
 ヨルだ。やけにゆっくりと話すこの男は、どこからここまでの威圧感を出しているのか。
「何でもないわ。お腹が空いただけ」
「俺の部屋に来い。お前の欲求も、俺の欲求も満たす」
 マントを翻し、去っていったヨルに、チルが何も言わずついていこうとする。私は思わず、チルさん、と呼んでいた。
「止めても無駄だよ、マツロ」
 チシオがどうでもよさそうに窓際を歩きながら言った。
「その女は、誰とでも寝る」
 一瞬、時間を空白が満たしたように思えた。
「何とでも言ってくれていいわ。私は飢えているの。欲しいの。足りないの」
 チルも否定はしなかった。違和感のあとに、これが異常というものか、とやっと気付いた。
 私は、役職ゆえだろうか、それをやめさせたいと思った。チルを護りたいと思った。同じくらいの歳の女として、チルに肩入れしている自分に気づいた。それは、彼女が誰を何人殺していたとしても変わることのない、一個の女性を、護りたいという思いだった。
 だが、何も手札がない。
「汚らしいとは、思わないの?」
 そんなありふれた罵り文句が、意図せず攻撃的に響いてしまった。もっと言葉はあったはずだ。だが見当たらない。彼女を攻撃する意図はなかった。この無意識は、彼女が食事をとって吐き出しひとを傷つけることと、何も変わらないように思えた。
 チルは私を一瞥し、何も言わずに歩いていく。そして扉の手前で立ち止まる。振り向かないまま、言った。
「飢えたら満たす、何か悪い?」
 去り際に残した言葉は、言い訳がましく記すしかない。だが、彼女には本当に分かっていない様子だった。疑問符は、あくまで疑問符でしかない。彼女は、我々の感覚を、疑問としてしかとらえられないのだ。
 チルが立ち去った後、ため息をつくチシオが、ミコから処方されたと思しき薬を飲んだ。精神的に安定しないときに飲むよう指示があったと言っていた。しかしながらどうしても、私はチルを放っておけずに、時が既に遅かろうと行かないよりはましだと、後を追った。ラカツキもついてきた。王たちは居るだけで威圧感がある。ラカツキはそれに居心地の悪さを感じている様子だった。ほかに相手がいないせいで、私は彼の恰好の話し相手となっている。
「陛下に、なにかご用件でしょうか?」
 ヨルに割り振られた個室の前には、ヤミの鎧と似ているがもう少し機能的な軍服を着た、中性的な美人、それに、その保護者のように見える大柄な軍服の男が、扉を護るように立っていた。
「私は“毒姫”ヨスガ。失礼ですが、お名前を伺っても?」
 マツロです、と答えると、その美人、ヨスガは喜んだ。
「ああ、あなたが! お話は伺っております。クロ国王室直属秘密組織キングス・フレイヴァから、お贈りしたい品がございます」
 美人が長ったらしい所属を述べている間に、大柄な男が、一瞬扉を開けて中から包みを取り出した。扉が開いた瞬間に、甘い声が聞こえて、私は耳を塞ぎたくなった。
「ヒスイモチと言います。希少なものではございますが、ほんのお口汚しでございます」
 大柄な男が言った。その後、名乗った。私、クロ国王室直属秘密組織キングス・フレイヴァ隊長“薬師”イブリと申します。
「チルさんとあなたたちの王様のこと、何とも思わないのですか?」
「思う立場にございません」
 美人に即答されて微笑まれては何も言えない。喉元につっかえた敵意は、その微笑みに薄れていく。あまりにビジネスライクなうえ、その美人の言葉は正論でしかない。撃鉄を起こす指は、脳の意志に抗うことも従うこともない、思う立場にないのだ、そういうことだ。
「マツロ様、事案が済み次第、トチ国にはご挨拶に伺いますので、今しばし」
 イブリに言われ、仕方なしに菓子を受け取り、踵を返した。私たちが遠ざかるのを、二人は微笑みをもって見送っていた。
「今のは“毒姫”、まさに姫というべき佇まいです。年齢は公表されていませんが、僕の調査だと十二歳ほどだと思われます。横についていたナイスミドル、“薬師”は四十と予測されています。しかしながら正確なところは不明です。キングス・フレイヴァのメンバーは出自も年齢も不詳、まさに秘密裏の、王のための組織ですね」
 ラカツキが私の後ろを歩いて付いて来ながら配信をしている。段々とその配信というものが、耳障りではなくなってきていた。
「ねえ、先生」
 後ろで聞こえた囁き声に振り替えると、背伸びするヨスガと、屈むイブリが口付けを交わしていた。
「男女の交際は、もう少し清らかなものであるべきではないのでしょうか」
 配信をしているラカツキが珍しく沈黙した後、小声で漏らした。目はちらちらとヨスガを盗み見ている。ヨスガへの興味と、イブリへの小さなやっかみが見て取れた。彼が感情をあらわにするのは珍しいが、そうなってしまう理由も判る。ヨスガは、あまりに美しい。
「ラカツキさん」
 ラカツキはヨスガを見ていた目線をこちらに投げた。
「恐らく、ヨスガさんは男性ですよ」
 ヨスガの身のこなしが、訓練された男性のそれなのだ。カナエが輸入していた知識と酷似している。
 ラカツキは一瞬信じられないという顔をしたが、その一拍後に信じたようだった。
 ヨスガが「先生」と話しているのが聞こえたからだろう。
「あの後ろの男に気をつけなさい、ヨスガ、あの目は欲情していた」
「いやだなあ。だって先生、私が男性だって知ったら、きっとその限りではありませんよ。そもそも私が女性に見えるのは、先生のせいなんですから。なんてことはありません」
 イブリと並ぶと、イブリの雄々しさが先んじて女性に見えてしまうが、くすくすと笑う声は、男性と言われれば、男性に聞こえるはずだ。
「それは先生の色目では? 公の場で堂々と色目を使って、自分の恋愛事情を振り撒かれるのはいやですよ、私は。先生こそ気を付けてくださいよ」




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