第七章



 いちど果てたチルのためにヨルが体を止めていると、チルは痙攣をやり過ごし、言う。
「ねえ、ヨル」
 チルは快楽に涙ぐんだ瞳でヨルに問うた。
「どうして私には、誰もいないの?」
 ヨルが再び動き出す。きつく強張って痙攣するチルの柔い筋肉を、割り開くように体を動かす。
 チルは再び自らを揺さぶる男の背に手を回した。縋りつくようで、嫌がるような手だ。今も今までも誰にも縋れなかった手だ。チルの脚がヨルの腰に絡む。求めている様子であるはずなのに、拒絶に近く見える。
「どうして、ヨルみたいに、愛してもらえないの?」
 それは、情事の最中に、つながった男の胸に尋ねる言葉だろうか。
「俺がいる」
「ヨルは違うわ。ヨルは、私のために、死なないでしょう。部屋の前の、あのふたりは」
 ヨルの肉棒が擦った箇所の感覚にチルは鼻に声を抜いた。甘い声だ。締まった筋肉に、ヨルも吐息を漏らした。
「ヨルが死ねと言ったら、死ぬでしょう」
 チルは揺さぶられながら、息も荒く、尚も言う。情欲に濡れた声だ。言葉の中身を、声色が蕩かしている。
「ヤミだって死ぬ。みんな、誰か、そういうひとが、いる。私だけ、いない」
「俺たちが憎いか」
 ヨルは上がった息の合間に静かに尋ねた。チルは嘲りを交えながら微笑んだ。情事の最中の笑顔ほど色気のあるものもない。
「私には、憎むための心すらもないの。あなたのせいで」

***

 クロ国は、いったん軍隊を自国に引き上げさせた。ヒイロ国も倣った。チルのシロは、一週間ほどもすると一頭もいなくなった。残ったのは王たちと、その側近たち、それにラカツキ、そしてトチ国の僅かな国民だけになった。
 チシオの提案で、食事は皆で一斉にとることになった。恐らく、チルがシロを生み出さないようにとの計らい、言葉を換えれば牽制だろう。
「いいですね。果物はしばらく食べていないなあ」
 ヤミは軍隊を統率するため引き揚げたが、キングス・フレイヴァというのは王のそばにいることが前提の組織らしく、ヨルの横にふたりでついている。ヨスガがにこにこしながら、破れた屋根の下の食堂で楽し気に目を巡らせている。きらきらと瑞々しい果物がその虹彩に映っている。
「イブリ先生は薬膳療法が専門ですから、果物にもお詳しいのでしょう」
「詳しいが、しょっちゅう食べるというわけでもない。職権の乱用になる。果物は高価だからな。そんなに浮足立つなヨスガ、職務の最中だ」
「いやだなあ、美味しいものは笑顔で食べるものですよ」
 やりとりをする二人に挟まれたヨルは、またぼんやりとチルを見ていた。愛情に満ちた目だと思う。私はヨルとチルに何があったかは知らないが、ヨルはどう見ても、チルを大切にしている。チルはというと、席の上で小さくなっている。食事というものが、彼女には恥に感じられているようだ。皆で食卓を囲むのに最後まで反対していた。チシオに論破されたときの目はしばらく忘れられないだろう。あれは、身を焼くような、恥だ。
 ミロ国王、メイロは、静かなひとだ。特に何も意見することなく、この食卓を一緒に囲んでいる。中立国そのもののような態度だった。側近がひとり、ついている。もうひとりは帰国したらしい。
「失礼いたしますね」
 ナミダの両親が更に果物を運んできてくれる。それにひとりひとりにいい香りの冷製珈琲が配られた。輸入物だろう。水出しの、日持ちのするものだから残っていたのではなかろうか。集落中から集めたような豪華なメニューだった。トチの国民は、統べる者の存在を求め始めていた。騎士団などという狭いものではない。つまるところ、正式な政治の登場を求めている。従って、国王たちにはいい待遇をしておきたいのだろう。私も異論はなかった。これ以上、見知ったものが蹂躙される様を見たくはない。それに、私は王にはなれない。この国を統べるのは、私ではない。もっと、ヨルのように空気を呑み、チシオのように奇抜であり、チルのように意志の強い存在でなければ、国は治められないと思う。
「いただきます」
 チルは消え入りそうな声で珈琲に口をつけた。皆もあとに続いた。
 皆、思い思いに食事を楽しんだが、チルはどうやら珈琲しか口にしなかったようだ。小さな一口を繰り返して、食事の時間を、まるであしらうように過ごした。
 食後には私も気が緩み、久しぶりに煙草を吸った。エイラの葉で作った煙草だ。健康被害は恐らくまだ誰も統計を取っていないだろうが、異国の煙草とは違う造りのため、ないのではないかと都合よく考えている。
 それを見つめるチルには、私は気付かなかった。

***

「チシオ」
 病棟の所定の部屋で寝そべり、本を読んでいた俺は、控えめなノックに体を起こした。
「チルか」
「そう」
「入っていい」
「失礼します」
 チルはげっそりとした顔をしていた。しばらく何も食べられていないのだろう。そうさせたのは俺だが、普通の食事くらい皆ととればいいのにと思う。
「何かあったか」
「チシオは血を止められるでしょう」
 嫌な予感がした。
「少し、血を止めてほしいの」
「怪我をしたのか」
 チルはきっと顔を上げ、俺を睨んで恐ろしい形相で怒鳴った。
「すごくお腹が空いているのよ。自由にものも食べられない、シロたちを可愛がることもできない、どうやって普通に生きていろって言うのよ。私には何にもない、あなたたちと違って私には何も」
 怒鳴られながら、薄らぼんやりと、俺はチルの昔の姿を思い出していた。俺と出会った頃は、まだ食事を吐き出すという行為に、シロは関わっていなかったように思う。あるいは、隠れて兵力を蓄えていたのか。ただ、シロの寿命は一週間ほどだ。一週の間で喰らいに喰らい、吐き出し、何億というシロを生み出す行為は、いちどこの国で有名な医者のミコとやらに診てもらったほうがいいように思う。ミコは優秀だ。ミコが俺に処方した薬は、俺の激しい感情の波を穏やかにしてくれる。
「聞いてるの?」
「ああ」
「嘘ばかり」
「俺の嘘は一回きりさ」
「それで、どうなの、血を止めてくれるの? くれないの?」
「血を止めたって、おまえのシロがやるみたいに、傷を治してやれるわけじゃない。傷跡はかゆくなるし、治るまでしばらくかかるだろう、下の医者に診てもらえばどうだ」
 そう、チルは、食事抜きでもシロを生むことができる。そのシロには、チル自身の血液が必要だ。
「下のミコ先生は嫌いよ。この前、避妊について口うるさく言われてとても嫌だった。消毒にって薬まで中に突っ込まれて沁みて痛かったのよ。これからも定期的に薬を入れるんだって言っていたわ。とっても嫌」
「いい顔立ちをしていると思うがね」
「顔と性技は一致しないわよ」
 チルの声に孕まれた怒気は消えない。俺は根負けした。
「わかったわかった、とめてやるから。どこを切るんだ」
 チルは頬が染まるほど恥じ入った。チルは知っている。自分を傷つけるという行為を恥じている。聡明な女だと思う。俺も鋭利なものによる自傷行為をしないわけではない、民たちもそんな俺のことを侮ったりしない、だから、その行為が、ひとに知れてはならないと知ったのは最近のことだ。それを教えられなくても知っているこのチルは、きっと本当は賢いのだ。
「それは……」
「脚にしておけ。そのドレスでは腕や手首は目立つ」
「……はい」
 チルはしおらしく頷いて、懐から出した折紙で、ナイフを形作った。
 チルの殺傷能力はシロを造り出すことだけではない。彼女の力を正確に表現するのならば、折紙に、そのものとしての実体を持たせられる、ということだ。
 チルの王国、シロ国は、大地としての紙飛行機、王城、街路樹、道路、すべてがチルの折紙でできている。無論、民としてのシロも、チルが折紙で原型を作り、それを呑んで吐き出すことで命を持つ。胃の中に、折紙の卵を宿しているような状態を作る。あるいは折紙に血液を染み込ませ、命とさせる。入れ物と体液があれば、それは命だと、ヒイロ国を治める身としては思う。
 チルは座り込み、料理でもするように右脚を切っている。瞳孔は広がり、痛みも感じられていないだろう。白い肌を伝った鮮紅が、白いドレスに吸われ、まだらな赤茶けた色になる。
 ところで、チルはこのことを知っているだろうか。三国戦争は、チルの能力が高すぎるため、クロ国、ヒイロ国で圧力をかけているのだ。チルをめぐって、保護を言い張るクロ国と死刑を主張するヒイロ国で意見が割れているため戦争をしているだけで、別に無益な殺し合いをしたいわけではない。だが、実際数えきれない死者が出ている。このチルという存在は、きっとどこへ行っても救われず、許されないだろう。クロ国はチルの救済をしようとしているが、恐らく無理だ。俺だって、このチルという魅力的な女をむざむざと死刑にしたいわけではない、だが、この女帝は、きっと死ぬまで、否、死んでも、自分の罪状を理解できないだろう。
 それに、きっと彼女も、救われようとしてはいないし、許しを求めているわけでもない。ただ生きていたいだけだ。生き方がいびつなせいで、シロを生んでしまったり、自らを傷つけないと生きられないだけだ。
「そろそろ止血をするよ、チル」
 チルはぼんやりと俺を見上げた。とろけた眼差しは、情事の最中のそれととてもよく似ていた。俺は彼女を抱いたことがある。まるで夢でも抱いているように心地よかったのを覚えている。だが、終わった後の空虚さは、茫洋としながらも鮮烈に記憶に残っている。
 俺はあんなに無意味な肉体関係を、他に知らない。




Copyright(C)2017 Maga Sashita All rights reserved. designed by flower&clover
inserted by FC2 system