第八章



 僕は疲労を感じながら、クロ国王室近くの別棟に向かった。
 もう習慣化しているから行えるが、何錠の鍵を開けたか、もうわからない。
 こんなに厳重にこの仕組みを作ったのは、僕自身だ。
 どうしても、隠れて悪いことをしたかった。
 いつも王のため、国のためにと全力で骨を折っている。だからだと思うのだが、無性に道徳に背きたくなるのだ。
「お帰りなさい、ヤミ閣下」
 最後の錠前を開けると、絶世の美女が迎えた。僕は気を張ったまま答えた。
「ただいま、ユナ」
「またお疲れでいらっしゃる」
「だからきみを傍に置くんだ、ありがたみを知りなさい」
「それは失敬致しました。閣下は私のありがたみは知ってらっしゃるの?」
 ユナは僕との距離を詰め、僕の左胸に手を置いて体を寄せてきた。胸に触れる彼女の指先は、心地よく人間としての感覚を取り戻させてくれる。
「今日のごはんがおいしかったわ。前に閣下が用意させて下さったお餅によく似ていて」
「餅か」
「そのものではなかったのですけれどもね、よく似ていておいしかったわ」
「少し休ませてくれ」
「あら失敬、ベッドでいいかしら」
「いや、食事をとりながらきみと話がしたい」
 ユナは、ふふ、と笑って、廊下の奥の簡素な広間、そこのダイニングテーブルの椅子を引いてくれる。
 僕はユナをこの階に監禁している。
 ユナに、また、誰かに不自由をさせるつもりはない。
「悪いことをしたい」
「はいはい。閣下はエスプレッソでいいの?」
「いや、カモミールを」
「荒れてらっしゃる?」
「忙しいんだ」
「忙しいとき、閣下は荒れるじゃない」
 ユナは手際よく茶を用意し、軽食を並べてくれた。
「はあ……」
 僕は無意識に大きく息を吐き、軽食をあまり噛まずに飲み込む。何を食べているのかも曖昧だ。ただ、食事をするという行為だけがある。頭が働かない。疲れた、という信号を体は鳴らし続けているが、僕は休むわけにはいかない。
「ねえ閣下」
 ユナが意味深長に床に膝立ちになり、僕の太ももに片手を置いた。
「餅か」
「違いますわよ、もう召し上がったでしょう」
「そうだったか」
「本当にお疲れなのね」
 ユナは大げさにため息をついた。
「疲れていても美人を抱くのは楽しいの?」
「抱かなくても、一緒にいるだけでも違う。ユナ、きみを監禁していると認識しているときだけは、自分が人間であるとわかるんだ」
「ふうん。私がメイクをしないと鏡を見られないのと似ているような?」
「きみは化粧をしないと鏡を割って回って困る」
「基本的に自分が嫌いなのよ。閣下と一緒」
「化粧すればこんなにも美人なのだからきみは気に病まなくていいと思っている」
「いやだ、メイク前の私なんて私ではないの」
「他人から見てもそうだ」
「安心しました、私はメイクをしていない自分は親の仇よりも嫌い」
 ユナのカモミールは濃い。
「僕は別に、自分では自分を嫌っている自覚はない」
「閣下も自分が嫌いなんだと思いますわよ、大嫌い大嫌い、閣下がやってらっしゃる国営のお悩み相談室があるでしょう、あれの閣下の回答はいつも正論で、人間味がない」
「確かにあれは少しくたびれる仕事だ」
「でも犯罪発生率は劇的に下がった」
「その通り。聡いな」
「いやだ、私は馬鹿で顔かたちだけが取り柄の女でいたいの」
「そうだったな」
 実際、ユナは頭がいいのだろうと思う。僕はユナの素性すらよく知らないまま、雰囲気だけで彼女を監禁しようと決めた。だが、常識のある子だし、会話のテンポも、距離感も丁度いい。
「この前、トチ国へ行かれたんですのよね」
「よく知っているな」
「時事のニュースくらいなら見るわ」
「そうか」
「あの国の不思議な植物で、閣下の胃痛も治るんじゃないかと思って見てましたの」
「その手もあったな、だが僕は部下や王にストレスを知られようとは思わない」
「私のことみたいにこっそりなさればよかったのに」
「秘密は作りすぎると疲れるんだ。僕の秘密はきみだけでいい」
「身に余るお言葉。私だって知っていましてよ、閣下が頑張るためには私がこうやって、閣下のする悪いことの対象にならないといけないのですのよね、私も完璧なものはないと思っていますし、閣下が完璧に閣下であるためには、私に閣下ではないあなたを見せなければやっていけない、それは人間らしい有様ですこと」
 ユナは一気に話して手を退けた。少し気に障ったらしい。僕はいいことを言ったつもりだったが、ユナなりに気に入らなかったのだろう。自分のせいで僕が疲れると解釈したのかもしれない。あるいは、ユナのことを人ではないものとして軽んじていると受け取ったのかもしれない。そういう意図はなかったが、言ってしまった言葉は取り消せない。
「最近は何をして過ごしているんだ」
「ルシフェルという報道アイドルにぞっこんですの。ミロ国出身のフリーの報道者なのですけれど、アイドルなだけあって視聴者を大切にしていて。配信時間も長くて頻繁で、暇つぶしにはもってこい」
「結局報道者なのか? アイドルなのか?」
「報道するアイドルですのよ」
「よくわからないな」
「きっとわからないんじゃなく閣下のご興味がないのよ」
「そうかもしれないな」
「割と機密事項を流してくれたりもしますのよ、有益な情報があったらお伝えしますわね」
「ああ」
 僕はカモミールを一気に煽った。疲れが流れ出すようだ。ひどく眠たい。
「ユナ、寝よう、疲れた」
「承知しました」
 この階はそれほど広くないが、僕とユナが暮らすには充分だと思う。ユナが奥の寝室へのドアを引いてくれる。
「ねえ閣下」
 明かりを落としたベッドの上で、広がった瞳孔を見せつけられると、いつもだ。
 いつも、この女の魔性に堕ちてしまう。
「本当に、きみは綺麗だ」
 僕はユナの襟元を掴み、乱暴に鎖骨に吸い付いた。ユナの瞳が誘惑に似た熱情を孕んでいる。僕の手はユナの開いた襟元から背中への道順を覚えている。

***

 とある日の朝食だった。いつも通り、トチ国に残る全員で食卓を囲んでいると、珍しくメイロが口を開いた。
「皆さん、少々よろしいでしょうか」
 皆が視線を向ける。メイロは咳払いをした。一拍置いて、話し出す。
「トチ国の医者、ロンリー・ウイング、ミコが、先程トチ国に帰国したようです。しばらく世界会議にご出席願っておりました。ミコ先生の医療は、もっと広まるべきだ。私も実は持病があるのですが、ミコ先生のケアで調子がいい。それはさておき、ミコ先生はこれからはトチ国の病棟に、いつも通りいらっしゃる予定です。最近なんとか捕まえて医療を受けていた皆さんへの対応も、より厚くなることでしょう。ご報告までに失礼いたします」
 ヨスガが目を輝かせた。
「イブリ先生、医療のかたです。私は話をしてみたいなあ。私の専門は整形外科ですが、イブリ先生は薬膳療法だ。どちらにせよ、我々に必要な知識を、きっといっぱいお持ちでしょう」
「ヨスガ、医者は忙しい。話をできる機会は限られている」
 イブリがたしなめた。
「そうでしょうとも。ですから、キングス・フレイヴァとして行くのです」
 ヨスガは意味深長に笑んだ。
「ヨル陛下の、擦過傷の対応です」
「ヨルに、何か?」
 何気ないようで、鋭く会話に割り込んだのはチシオだった。オレンジをかじっている。
「私はヒイロ国とは相性が悪いのですけれどね」
「ヨスガ、失礼だぞ」
「いやだなあ、そう教えたのは先生でしょう」
 チシオはきょとんとしている。
「私をヒスイ国から救ったのは、クロ国だ」
 その威嚇する蛇のように吐き出したヨスガの言葉で、チシオは察したようだった。なるほどね“毒姫”はヒスイ国の民か、と呟いて、イチゴに手を伸ばした。さすがのチシオも知っている。ヒスイ国の惨状は、世界的に見ても有名な、侵略行為として知られている。
 私はラカツキと一緒に行動することが多くなっていたため、若干の外国の事情も耳に入るようになっていた。むしろ、トチの国民たちが、私を見放していると感じている。あれだけのひとを亡くし、何もできないのだから当然だ。民は、代わりに、新たな王、政治、権力を求めている。
「その件は、申し訳なかったと思っているよ」
「問題ありませんよ、こうして生きている、ヒイロ国がシロを殲滅し、クロ国が治めるようになった、それは私はまだ赤子の頃でしたからね、特段恨んでいたりはしません。ただ、少しの禍根がある。それを言ったら、そこのシロ国の女帝のほうが、よほど」
「ヨスガ」
 ヨルが口を開いた。相変わらず、ひどい威圧感だ。
「チルは、確かに侵略行動をとった。だが、罪を憎み、ひとを憎まないで欲しい」
「……承知いたしました」
 ヨスガはむくれて言った。
 チルは相変わらず食事をとっていない。だがあまりつらくはなさそうだった。私は嫌な予感がした。ヨルの部屋にこもるチル、皆の前で食事をとらない、ヨルの擦過傷、彼女は、ヨルと一緒に隠れて、またシロを生み出しているのではないか?

***

 俺はあてがわれた病室でチルを待っていた。部屋の奥にはチルが拵えた檻があり、中にシロが何体も閉じ込められている。閉じ込められると言っても、特別暴れるわけではない。檻に入れてしまえば、たまに鳴くただの雛だ。
 ノックがあった。チルだろう。
「入れ」
 憔悴した様子のチルがいた。俺はトチの民から買い取った果物を、机の上に広げておいていた。檻の中の雛が歓迎の鳴き声をあげた。
「ヨル、食べてもいい?」
「ああ」
 チルは食事を開始した。チルの折り紙で作ったナイフで雑に皮をむき、口元が汚れるのも構わずかぶりつく。俺もチルも言葉はなかった。唾液と果汁をすする音が満ちた。
 果物の山が減っていく。物を食べているときのチルは、少しも楽しそうではない。ただ噛み砕き、飲み込む、それは自分を痛めつけるための手段以外の何でもなかった。その姿を俺だけに見せるこの女を、俺は嫌いになれないでいる。
 このチルを作ったのは、クロ国のヤミだ。
 まだ彼が総帥となる前、キングス・フレイヴァに所属していたころ、俺の話し相手にと人型の生命体を作ったのだと言っていた。
 俺は、ひとめ見た時から、チルのことを大切にしたいと思った。
 食べたいといえば食べさせたし、身体が欲しいと言われれば関係を持った、自傷行為も止めなかった。折紙の折り方を教えたのも俺だ。俺は、C・S、クレセント・シャドウなどと呼ばれる王ではあったが、クロ国の仕組みとして、治世は総帥の仕事だ。王はただ強かでいながら時間を食いつぶすしかない。チルも研究棟で暇だというので、軽い気持ちで鶴を折ってやった。その時は、まさか、こんなことになるとは思ってもいなかった。
 チルは今、卵を吐き出している。卵はすぐ孵化し、小鳥が生まれた。吐き終え、食事を再開したチルを目の端にとらえ、俺はその雛を捕まえにかかった。
 雛と言えど、シロだ。俺との相性は悪い。激しく暴れられると、擦過傷ができる。指に、小さな嘴による傷ができ、血が滲んでいく。
「シロ」
 チルが呼んだ。慈しみに満ちた声だ。チルは右手にナイフを持ち、左腕に傷をつけた。シロはチルの肩に乗り、その高さに掲げられた傷口を小さな舌で舐めとる。すると、チルの傷は跡形もなく消えた。
 しばらくそれを繰り返した。生まれたシロは、奥の檻に俺が誘導した。何度もつつかれた指や手の甲がぴりぴりと痛む。
「ヨル」
 チルは濡れた声を出した。体が弱り、本能が強く出ているのかも知れない。
 チルはベッドに腰かけた。俺が押し倒すと、背に腕が回された。接吻が始まり、チルの手が俺の下腹部を撫でた。俺はチルの後頭部に手を差し入れ、深い接吻をしながらチルの胸元に手を忍ばせ、豊満な柔らかさを撫でた。
 チルの膝が俺の股間を優しく打つ。俺が横向きに倒れると、チルは待ちきれないと言わんばかりに体を丸め、俺の軍服を緩める。そしてあらわになった熱にむしゃぶりついた。果物のせいか、潤った口内をすぼめて吸い付き、裏筋、くびれ、鈴口と縦横無尽にチルの舌が執拗に責める。
 俺はチルの後頭部にそっと手を添えた。俺はチルが好きだ。俺が望むのは、こんな、互いに傷つけあうようなセックスではない。だが、チルがそうしたいというのなら、俺は逆らわずにいるしかない。チルに、幸せになってほしいと思う。ただ、それはきっと俺の役割ではない。
 チルが俺を仰向けに押し倒す。膨張しきって時折脈打つようになったそこにまたがる。十二分に濡れて熟れ切った肉壁が俺を包む。チルはその感覚を楽しむように、ゆっくりと体を沈めた。
 そこを下から突いてやると、チルは甘い声を上げた。体勢を崩したチルを抱きとめるように俺の上に伏せさせ、奥まで突き上げる。
 チルが唇を重ねてくる。柔らかな唇と舌の感触に酔う。何人ひとを殺めても、チルの体は変わらず柔らかい。特に舌は、チルが兵器の類ではなく、ただの少女だと知らしめるに充分だ。あまりに、ぬるく、柔らかく、弱々しい。
 律動は止まらず、チルの鼻から抜ける声と、ベッドのきしむ音が鼓膜を揺らす。チルの中がひくひくと震えはじめる。達しそうなのだろう。許可を与えるように、寝返りを打ち、チルを上から激しく突く。チルはあっという間に達し、中がうねり、身体が痙攣する。
「ヨル」
 ひどく切ない声だ。快楽を求めてやまない、貪欲な声だ。
「もっと」
 チルが腰を揺らめかせ、俺の頸に腕を回した。脚が俺の体に絡む。手が俺の肩の擦過傷の上を通った。チルの腰遣いに、内壁と銃身が擦れ、快感を生む。
 傷つけることしかできない。それはお互い様だ。だが、俺はチルを愛している。チルは俺を愛してはいないだろう。
 互いに抱く虚しさの種類など、関係がない。
 俺たちはいま、虚しさに対して肉体関係を持っている。




Copyright(C)2017 Maga Sashita All rights reserved. designed by flower&clover
inserted by FC2 system