第十三章



 行き交う蝙蝠便を焼き払う。バッカスは揮発性の調味料で、よく燃える。私の頬には知らぬ間に痣ができていた。それを咎めるひとはもういない。私が如何に醜くなろうと、関係のある人はこの世にいない。
 ヨスガ。私をそう呼んだあのひとのことを、もう愛すことはない。
 あのひとは、私の名を教えてはくれなかった。勝手にヨスガと、“毒姫”と、キングス・フレイヴァと、クロ国と。すべてエゴイズムに則り、私の感情など考えてくれたことがなかった。
 そのようなひとを、どうして父と慕い続けられようか。
 私は呪った。
 この頬の痣は、呪いの形なのだろう。
 トチ国で、私はこの呪いを見たことがある。男が一人、幽霊が一人。
 そしてこの国に、膨大な数の同志を見た。
 私は呪いのために剣を振るうことを決めた。
 この国を破壊する。

***

 奈落の様子がおかしい。
 ヒイロ国の政府機関は、近年まれに見る忙しさを誇っていた。
 奈落と呼ばれる、死者を葬る谷がある。
 その様子がよくないと、墓守から言われているのだ。
 使いに出した赤血球たちは帰ってくることがない。
 そも、奈落に落ちれば、帰ってくるはずがないのだ。
 この奈落は、チシオ陛下が仕組みを作られた。
 生きるもの。死せるもの。その隔てがなければならない。陛下はそう仰った。
 だがどうだろう。
 いま、目の前の奈落から這い上がらんとしているのは、生きているのか、死んでいるのか。
 意志を持った死、彼彼女らを、死んでいると呼んでよいのだろうか。
 こんなにも、はっきりを目的を持ち、考えて動く彼らを。
 我々の混乱のさなか、通信が入った。
 通信係は、ひ、と息をのんだ。
 奈落と同じ文様が浮き上がる人物が、連絡をしてきたからだ。
 ハナビ。
 皆は怯えていたが、救いのようだと思った。

***

 リシュテリィの猛攻は、苛烈を極めた。
 もう当番制と言ってはいられなかった。
 皆、総出で戦っている。
 チルがシロを生み出すことを咎めるものもいない。現在、リシュテリィはこのトチ国のみでなく、全世界で猛威を振るっている。
 あの痣に見える呪いは、すべての命に分け隔てなく襲い掛かった。
 あのときのナミダに見えた呪いは、幾度斬れど、何度でも私に襲い掛かってきた。
 いま、私はミコの病室で横になっている。
 横ではチルがシロを生んでいるし、ヨルはこの病棟を護るため門番のように表に出ており、チシオは手当たり次第に呪いを蹴散らしている。
「ミズキ……ミズキ……?」
 私の真横で寝ているこの少女はヒカリと言うらしい。リシュテリィとの衝突で右脚に怪我を負ったらしい。何度もミズキ、ミズキとうなされ、マサキが頻繁に汗を拭いてやっている。
 私は息をついた。
 疲れてしまっていた。ウイング・ロスとは違うのだろうが、あまりに過酷だ。
 だが上の階で大きな音がした。ヨルもチシオも出払っているし、チルはシロの生産で動ける状態ではない。私が行くしかない。
 そこには、蛇のような背中があった。
 “毒姫”ヨスガが、蛇のような呪いを纏い、“薬師”イブリを締め上げていた。

***

「趣のある建物ですね」
「ええ、歴史がございます。ここは、お願いの場所なのです」
 私はミロ国を出て、名すらない国を訪れていた。
 シャルロットもついてきている。スタディ・パレスの長として、動かざるを得ないと判断したのだ。
 最近、由来の知れない呪いが暴れているという。
 もともと、呪いという概念は、この国に出典があったようだった。
 その真相を突き止める。その目的で、私は緊張しながら、二頭の犬の石像の間を通った。
「お願い? 何かを叶えてもらう祈りですか?」
「いいえ。ここから出ないでください、というお願いです。あるべき場所に、あるべきものがある。それが平和です。どんな暴虐も、あるべき場所にあれば、暴虐ではない」
 赤と白を基調とした黒い髪の女性が、水で手を清め、口をゆすいだ。私も倣う。なんとなく意識がぼんやりとする。深い自然の中にいるからだろうか。
「申し訳ありません、お犬様は、ここから先は」
「……畏まりました。シャルロット、ここで待っていて」
 シャルロットは物音ひとつ立てず、その場にお座りをした。
「お利口なお犬様ですねえ」
「私の血に、響きますから」
「然様でございましたか。ハヤテ姫、わたくしどもも、あなたを人間だとは、思えずにいたところですよ」
 私は思わずにらんでしまったと思う。母を、私はひとだと思っている。
 私の母は、獣人だった。
 交配なしに私を孕み、その妊婦を愛したのが父、メイロだ。当時のミロ国は父の両親が治世しており、戦時中だった。父の両親は敗戦時に命を落としたため、私の受胎の件は知らなかった。私の母親は私を産み、他界した。父は私を育てながら中立国として国を立て直した。父の肺も、私を育てるために、神様に頼んで悪くなったと聞いている。
「ここはおいなりさまでも踵を返す土地。お犬様には、少々厳しい環境かと存じますよ」
 女性はシャルロットのことを言ったのだろうが、一瞬私のことを言っているのかと思った。
「ただ、ここは人形には優しい。そこな木箱をご覧くださいまし」
 女性は、ひとの腰ほどの高さのある木箱に触れた。ぼろぼろだが、しっかりと立っている。この雨風をしのげない環境で、そこに古めかしい木箱が存在しているのは、不自然に思えた。
「踊りの技術なのです」
 木箱の中には、不気味な模様が描かれた布製の人形が、針に繋がる糸もそのままに置いてあった。
「“ステップ・アン”」
 私ははっと立ち上がった。だが、遅かったようだ。人形はその女性の手の上へ飛び乗った。無邪気なようで、あまりに超常的だ。女性の手に、人形と同じ模様が痣のように浮き上がる。
「立ち上がるのは、あらゆる意志の根源。たとえ死んでいても意志が残れば立ち上がる。戦場の武将の首が落ちても、相手の城を落とそうという意志がこの国を造りました」
 体がどんどん重くなる。
「“ステップ・ドゥ”」
「あなた、何を……」
「呪っているだけです」
 女性は笑った。あまりに屈託がなかった。
「“ステップ・ドゥ”は欲求の舞。ここから出たい。その想いは、人間を進化させてきた。人形たちも同じなのです。ここから出たい。この体から出たい。この呪いから出たい。この国から出たい。それが叶い始めているのですよ。獣人の血よ、その命は獣から出て、人からも出て、次はどこへ行きたいのです? それは思いのまま。いかに出ないで下さいと願われようと、首を取ったものが勝つのです。闘犬の血よ、人の身に封じられた気持ちは? 人の血よ、犬の身に封じられた気持ちは? あなたは自由です。リベルテ、自由。願えば何だろうと手に入る」
 女性の言葉は、私の血を沸騰させるような口調で鳴り続けた。
「父はそんなことを望んでいなかった。外に出ようなどと。父は内を統べるもの。これ以上の勝手な妄言は、犬の血だけでなく、王の血を穢す侮蔑と知りなさい」
「でもあなた、王様の血は引いていませんでしょう。わたくしどもには、あなたがただの犬でしかないことがわかっていましてよ。そちらこそ、これ以上の不敬は、呪いを軽んじています。呪いは、死せるとき、誰もが願うもの。あなたの母親だって」
「黙りなさい」
 私は頭が真っ白になるほどの怒りを覚えた。
 けれど、そこからの記憶がない。
 気付くと、私は、ひとりの女を縊り殺していた。
 私は怖くなった。感情が、何の比喩でもなく私を操った、制御した、乗っ取った。こんなことは今までになかった。
 一瞬相手を呪っただけで、この手は人の命を奪ってしまえる。
 呪い。目には見えないそれが、この土地を中心に、暴れだし始めている。この土地を訪れたのは正解だったようだが、私の手に余るのではないか?
 一瞬の迷いは、右目の眼帯に触れると少しマシになった。この眼帯は、父が私にくれたものだ。風邪を引いた翌日、薬の副作用で一重になってしまった瞼が嫌だと父にこぼした幼い頃、大人の男性用のものならば眼帯がある、そう言って笑ってくれた父、私は覚悟を決めた。父のように国を治めるのならば、ここで折れるわけにはいかない。過ちは過ちだが、ひとつの過ちのせいにしてすべての責任を投げ出すのは、父の血を引くこのハヤテの考えにあるまじきものだ。
 私は山奥の坂道を、かかとの高い靴で転がるように駆け下りた。シャルロットに会いたい。シャルロットならきっと、また私を導いてくれる。シャルロットは父にすら懐かなかった。シャルロットは私だけの友だった。シャルロットは……。
「シャルロット!」
 声は悲鳴だった。
 シャルロットはカラスに体を啄まれ、体中から血を流しながら、それでもなお座って私を待っていたのだ。
 私は犬のように吼えた。
 カラスたちをドレスがぼろぼろになるほど暴れて追い払い、シャルロットの血に寄ってくる気味の悪い虫を手で掃った。目の前が暗くなっていく。呪いの怨念は、すぐそこで私に手をこまねいていた。
 私の眼帯が、暴れすぎた拍子にほどけた。
 一気に二倍になった視界に、白い何かが見えた気がした。
 その白は、暗くなっていた私の視界でだんだんと大きくなっていき、私を包み込んだ。苦しくて窒息するかと思った。けれど、だんだんと息が楽になっていったのを覚えている。ほかのことはあまり覚えていない。ただ、何かが私を動かしていた感覚があった。
 きっと、母だったのだと思う。
 この土地は、死と、呪いが溢れすぎている。
 死んでしまった母の面影をその白い影に求めるのは、不自然ではない気がした。
 ……連絡を入れよう。
 電源を切っていたL・Lを起動させ、私はラカツキ……いや、ルシフェルを呼んだ。私はきっとひとを殺めてしまった。世界会議でこの件を明るみに出そう。こんな犬が、スタディ・パレスを治めていてはならない。きちんと裁きを受け、そのうえで民が私を求めるならば、そこで初めて私は国を治めよう。
「ハヤテ!」
 ルシフェルに繋がる前に、父からの通信が入った。こんなに焦った父の声は初めてだ。きっと父はすべてを知っている。そして私は叱られる。絶縁されるかもしれない。そうしたら母は私をどう思うだろう。
「リシュテリィの猛攻が止みつつある。リシュテリィの件で出張に行っていると言ったね、なにか進展があったのではないのかい」
「父上」
 私は、
「……」
 シャルロットが身を寄せてくる。私は視界が鮮やかになるのを感じた。ここで諦めてはならない。この血に賭けて、私は母を、父を、国を、尊ぼう。
「片がついたら、折り返し、連絡をいたします」
 私は通信を切り、立ち上がった。シャルロットを呼び、再度犬の石像を見た。背を向け、駆ける。手に持ったままだった眼帯を結び直した。この眼帯は父がくれたものだ。この眼帯がある限り、私は強く在れる。
 目指しているのは先程の木箱だ。きっとあれが、呪いの禍根だ。
 父は、私の幸福を祈った時に、肺を病んだのだと聞いている。
 私はこの呪いを止めるために、何を失っても構わない。どこを病もうと、何が欠けようと、ひとりの人間を殺した身だ、何があったっていい。
 この呪いを、私の命で止めよう。
 木箱はすぐに見つかった。
 私はL・Lで全世界に向け、放送を始めた。
 P・M。プレイイング・フォア・マリオネット。
 呪いが癒えるよう、私は祈ろう。
 私は持っていたジッポで、その木箱を燃やした。
 目の前がどんどんクリアになっていく。
 気付くと、青い空を見上げていた。
 そこにL・Lから、一報の知らせが入る。
『リシュテリィ、完全沈黙。ミロ国スタディ・パレスのハヤテに事情を聴かれたし。また、スタディ・パレス所属・ハヤテに、E・M、エターナル・マリアの襲名を急ぐこと』



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