イガカシ

猫が来た



「大丈夫? 大丈夫!?」
 私は声をかけられていることに気付いた。
「今から修復するから、少しがんばって。シノブはあんまり上手じゃないから、ちゃんとした人型にはならないかもしれないけれど、がんばるから。君はいま、消えかけているの。ちょっと待ってね、がんばって」
 幼い語調だ。子供だろうか。けれど声は青年のそれだ。
「ムスブ、すぐ戻って、大変なの、死んじゃう」
 私は、何と言うか、自分が死ぬという概念から遠いものだったような気がした。でも、そのエマージェンシーコールを聞いていると、自分は死ぬのかもしれない、と思うようになってくる。
 ふっと感覚が軽くなり、今まで圧迫されていたことがわかった。
「おやおや、女の子じゃん。シノブ、人型じゃないほうがいいよ」
「なんで?」
「僕が何回使ったかわからない体で生きていくなんて嫌じゃない?」
「よくわかんない」
「猫とか可愛いんじゃないかな。シノブが飼ってあげなよ」
 一瞬、全身が酷く痛んだ。けれど、次の瞬間から、私の目は機能し始めた。
 黒い髪をつんつんさせた男と、八重歯の男が私を覗き込んでいる。
「僕が見える?」
 はい、と返事をしようとしたら、口から「みゃあ」に近い音が出た。
「シノブ、成功だよ」
「よかったー! ムスブ、ありがとう!」
「君も、よかったね。体があるといいことがたくさんあるよ」
 つんつん頭が私に言う。
「シノブねー、体をもらってからいっぱい気持ちいいことしたの。すごくいいんだよ」
 八重歯の言葉にまた私はみゃあと言わされた。
 辺りを見回すと、狭いアパートで、至る所にいろいろな服が丁寧にたたまれて置いてある。トルソーもマネキンもたくさんあって、そのどれもが豪奢に着飾っていた。
「シノブ、僕これから出かけるから、ラブのところにでも行ってよ。君がラブを苦手なのは知っているけれど」
「あのね、シノブね、ラブのこと、苦手なんじゃないみたいなの。最初に会ったときにびっくりしちゃっただけだと思うの」
「まあどうでもいいんだけれど、とりあえず僕はこれからプリティに並ぶから、鍵を閉めるよ」
「わかったー。ね、おいで」
 シノブという八重歯の男はかがんで私に両手をのばした。私はその腕を這いのぼって、シノブの胸に居座る。
「ムスブ、これ面白い」
「はいはい、閉めるから。ラブは可愛いものが好きだから親睦を深めておいで」
「しんぼくするー」
「うん」
 ムスブと呼ばれたつんつん頭はシノブと私を玄関から追い出して、アパートの鍵を閉めて、たっと走って行った。
「君はね、どこかの大きな会社か何かのデータだったみたい。消えそうだったから、シノブが集められるだけ集めて、ムスブのおうちに来て、直してもらったの。これから、ラブってひとのところに行くね。マナブも近くにいるみたいだから、マナブはね、ええとねー、料理が上手だから、ごはんを食べよう」
 シノブはよくわからない文法で文章を生成しながら、小走りで進む。
 さほどの距離ではなかったみたいだ。静かなホテルに、シノブは私を抱えて入っていく。
「お客様」
 ホテルの受付嬢が困った顔をした。
「あ! 違うの! 猫じゃないの! ごめんなさい! 機械なの」
 シノブが大きな手振りで慌てふためいたため、私は振り落とされた。
「動くけれど、違うの、動物じゃないの」
 受付嬢は「大変失礼いたしました」と笑って、慌てるシノブを落ち着かせる。そしてエレベーターを呼んだ。すぐに着いて、私はいちばんに乗り込んだ。次にシノブが乗り込む。ボーイがボタンを押す。
「ギブ!」
「はは、シノブ、ばれてしまったか」
 ボーイだと思った長身の優男は、ギブと言うらしい。スーツだったので、てっきりボーイだと思ったけれど、そういえば一階にいたボーイはスーツではなく制服だった。
「ムスブから連絡が来ているよ。可愛いお嬢さんが来ていると」
 困ったことに、私はこのギブという男の顔立ちと話し方と姿と声が好み中の好み、ストライクだった。つい、首をこすりつけて上ずった声で鳴いてしまう。「よしよし」と応えるギブは、まったく私など異性として見てくれなくて、それは当然だけれど、なんというか、困る。困るというか、いたたまれない。私はエレベーターのなかをごろんごろんとセクシーに転がって回った。ギブがそれを笑いながら見ている。視線が腹を、背を、撫でる。それだけで私は、気持ちがよくなってしまった。
 そうしているうちに、エレベーターが小気味よい音を立てて停まる。
「マナブが昼食を作っているよ。私はもういただいたから、シノブとお嬢さんも楽しむといい」
「あっ、ギブ、リユウ様のところへ行くの?」
「ああ」
「じゃあ、リユウ様に、この子を紹介してくれない? 名前をあげたり、歓迎会をしたりしたい」
「わかった、伝えよう。では」
 ギブが廊下を反対側に行ってしまった。少ししょんぼりして、私はシノブの足にまとわりついた。
「踏んじゃうよー」
 シノブが困って笑う。
 辺りがおいしい匂いで満ちてきた。私は空腹を覚え、廊下を駆け出しておいしい匂いの部屋に突っ込んだ。
「マナブ、ラブ、ただいまー」
 後ろをシノブが追いかけてきたようで、彼が走るままに、ただいまの声が震える。
「おかえりなさい」
「ああ、お帰り。あの、ちょうどラブが猫用のレシピを持ってきてくれたところだったんだ。申し訳ないのだが、少し待ってくれるか」
 その部屋は厨房だったようで、やたら遠慮がちな話し方の男が鶏肉を刻んでいた。私は鶏肉を食べたい気分だったので、基本的に煮え切らない男は嫌いなのだけれど、その男の印象はすこぶる良かった。
「猫さん」
 コサージュを顔の横に咲かせた少年が私の横に腰を下ろした。靴の厚底の部分だけで私と同じくらいの体積になりそうだ。なによ、と思って睨むと、尻尾の付け根を軽く叩かれて、私はとうとう性的絶頂を感じた。先程のギブという男に感じていた肉欲が、直接的な刺激で弾けてしまったのだ。
「気持ちいいらしいですね、これ」
「ラブ、いじめないでー!」
「いじめていませんよ」
 ラブというらしい屈辱的な男が立ち上がって、私は一安心した。なんだかむずむずするけれど、次はギブに叩いてもらって気持ちよくなりたかった。でも、ラブの触り方は、どんなに屈辱的でも、ねっとりしていてたまらなく厭らしい。こいつ、手練れだ、といった感じだ。ギブに叩いてもらったらもう一回ラブにもお願いしてもいいかもしれない。
 そう思っているうちに、足音がふたつ近づいてくる。私はわかった。ギブだ。もうひとつは、知らない音だったけれど、ギブに会える。それだけで、もうひとつのほうはどうでもよくなった。
「シノブ」
 やはりギブだった。けれど、どうしたのだろう、哀しそうな顔をしている。
「シノブ。その子は、どこから連れてきたんだい」
 そう横で声を出したのは、私たちと違い、生身の人間のようだった。なんだか、怖いひとだった。まだ15とか16とかそのくらいだろうけれど、振る舞い方が大人すぎる。優しい声だけれど、嫌な予感がした。
「拾ったの」
「どこからかな?」
「消えそうだったところ。よくわかんない」
「ここではない?」
 そいつは端末でアドレスを示した。
「ここかも」
「ここはね、敵軍のコンピュータのごみ箱だよ。シノブ、その子はここにいるべきじゃない。特に君たちの相手をさせておくこと、僕はそれを許すことはできない」
「じゃあ、リユウ様、この子はどうなるの?」
「知りたいかい。じゃあ、シノブ、君が責任を持って、それをするんだよ」
「え……?」
 やめて! 私は叫びたかった。平和から離れたこの空気ですべてを思い出してしまった。
 私は辞書だった。キスという単語の意味や現れる文脈から罪人の処刑方法までいろいろ載っている辞書だった。新しい辞書が開発されて、私は軍に必要ではなくなって、ごみ箱で、完全な削除をかけられかけたところで、シノブに会ったのだ。
「シノブ、僕が君にすべてを教えたうえで、僕がしたほうがいいかい」
「わかんない」
「じゃあ、シノブ、君がやるんだ」
「わかんない、わかんない!」
 シノブがヒステリックに叫んだ。
「スパイって言う言葉は知っているね?」
「……知ってる」
 冷えた声を出したシノブが私をまじまじと見た。私が? スパイ?
「この子のデータをどこかに移して、ムスブのところへ行ったんだね。そのデータを、シノブ、くれるね?」
 シノブは泣きそうな顔をして、唇をかみしめて下を向いた。
 居心地の悪い沈黙が下りる。
 私はリユウ様と呼ばれた少年のところへ歩いて行った。
 シノブにこんな顔をさせるくらいなら、私は今すぐ削除されたほうがいい。
「猫さん、待ってね、シノブが納得いかないみたいだから」
 リユウ様は意外にも私をすぐに削除する方向ではいかないみたいだった。シノブが納得したら、私は消える。けれど、納得しなかったら、この沈黙はいつまで続くのだろう。
「……猫さん、勝手なことをして、ごめんなさい」
 時計の針が何回か回ったあとに、その言葉によるシノブの承諾があった。
 シノブが私のデータの入った端末をリユウ様に渡す。
 リユウ様が少し操作をすると、私は、体がどんどん軽くなって、なくなっていくのがわかった。
 そして完全になくなった。
 シノブが私が借りていた猫の体の前でわあわあと泣き出した。
 それを私は、マナブの視点で見ていた。
 私は、完全になくなったはずだったけれど、マナブが、遠慮がちに、「あと数秒」と呟いた。存在は、なくなった後でも、少しの間、あるいは気が済むまで、そこにいられるらしい。マナブは、インターフェイスのように、視界を貸してくれている。
 借りているマナブの視点で、みんなを見た。
 シノブは泣いていたし、みんなつらそうな顔をしていたけれど、いちばんつらそうだったのは、リユウ様だった。
 そして、私はマナブにお礼を言って、戻ったごみ箱の中で、くしゃ、という音を、最後に聞いたようだった。


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