イガカシ

鬼の居ぬ間に



 ラブが居ない。
 俺と同じ時刻に任務に出かけたが、俺より立場が低い故に、面倒な雑用も多いのだろう。俺と違い、もともと断ることをしない性格だから、俺はラブにもっと出世をさせたい思いもある。だが、それはラブが決めることだ。俺の何倍生きるかもわからない身の機械が自分で決めることだ。口を出すのも、お門違いだろう。
 俺はマナブが作った手製の恵方巻を食っている。帰ってきてすぐに、マナブがいつもの腰の低さで、よければラブと、と渡してきた。俺は歓迎した。俺は和食が好きだ。腹の減っているとき、魚の脂が如何に身にしみいることか。
 マナブの作った恵方巻は、びんちょう鮪と鮭と玉子焼きの味がした。好きな味だった。ラブと一緒に食えればよかった。だが、待てども待てども来ないのだ。連絡を寄越さないということは、込み入っているのだろう。危なければどこかしらから連絡が回るはずだ。そもそも俺はラブが不覚を取るなどと思っていない。やむことない事情があるのだろう。
 そうやってひとりで居たものだから、恵方を向いて無言で食い終わるというのは易いことだった。気付けばラブの分まで食い終わり、ソファの上で所在なく、鬼の出そうなほど暗い夜空と、その手前の硝子に反射する自分の不機嫌な顔面を眺めていた。
 どれくらいそうしていたかは判らない。不意に、廊下で物音がした。ぱらぱらと硬いものが散らばる音もする。暇だったので、耳を澄ませた。一部屋一部屋と、いちいち開けて、クリアリングでもしているのだろうか。
 そいつはついに俺の部屋にも来た。ノックはなく、そっと戸が開く。横目で見遣ると、ひどく驚いた様子のリユウとギブが居た。
「なんだ」
「なんだはこっちの台詞です」
 嫌味っぽく、この息子は敬語で言った。俺があまりに不機嫌だったからだと思う。
「申し訳ございません」
 ギブは丁寧に腰を折って謝罪をしたが、リユウが「謝ることないよ」と生意気なことを言う。
「わざわざ一部屋ずつ開けて、何をしている」
「鬼を払っているんだ」
「鬼」
「丑の刻、鬼が好んで歩きそうな時間じゃないか。そんなときに鬼のような目つきで睨まれたら『なんだ』と思いたくもなる。僕たちは単に厄除けをしているだけだよ」
「リユウ、おまえに呪術の心得はあったか」
「こういうのは気の持ちようなんだよ。何かがあったときに、一縷だけでも心の支えになるものがあったほうがいい。ギャンが教えたことだったと思ったけれど?」
「戦場での話だ」
「じゃあ僕らはここが戦場にならないように、命を尽くすだけだよ」
「言うものだ」
「ねえギャン、僕は本当にびっくりしたよ。どうしたの? 夕方、疲れて任務から帰ってきていたじゃないか。眠れないの?」
 息子たるもの、減らず口は叩けど、やはり俺の血で、気の遣える子に育った。
「ラブが居ない」
「ラブ?」
 リユウはギブのほうを見た。知らないか、と訊きたいのだろう。ギブは、ムスブに訊いてまいります、と、部屋を出た。
「リユウ、次第ではどうなる予定だった? ラブはどこにいる」
「地方担当の警察と話をつけたら、おしまいの仕事だったと思ったけれど。現場ではどうだったの」
「変わりなかった。いつも通り、小生意気で聡い愛らしいラブだった」
「怪我の報告はなかったみたいだけれど」
「俺の前でもラブの怪我はなかった」
「ふうん」
 リユウは時計を見た。午前三時半。鬼が出放題な時間だろう。
「ちょっと、マナブに訊いてくる」
「構わないが、何故マナブなんだ。大量の炊事のあとで疲れて眠っているだろう」
「ねえギャン、嫌な予感がしない? 僕は嫌な予感がして鬼を払っているわけだけれど、それがもし、この件と関わっていたら」
「脅すな」
「信じたくないけれど本気だよ。マナブは霊感が強いから、何か知っているかもしれない。この時間に、誰かが消える例は、聞かない話ではない」
「なんだ。俺は知らん」
「神隠し」
 リユウの顔を見た。冗談で言っているわけではなさそうだった。
「犬が、吠えている」
 ラブを思って耳を澄ますと、動物の喉を空気が乱暴に通る音が聞こえる。リユウも耳をそばだてる。
「犬」
「マナブの飼い犬だろう」
「ギャン」
「マナブはいつも通り、離れか」
「だと思う」
「行くぞ、リユウ」
「うん」
 ソファから勢いよく立ち上がった俺は、その勢いのまま部屋を出た。リユウが後ろで、塩水はギブに持たせてしまった、とぼやいている。
「使わないと思ったから」
「俺だって信じたくはない。だが、俺たち人間がどれほど考えたところで、マナブが霊というものを証明してしまっている」
 そうなのだ。マナブは霊と仲良くすることが得意だ。俺だってマナブが実際に霊とやりとりをするのを見なければ、一笑に付したことだろう。
 戦場では俺は名を知られているほうだ。だが、見えぬものは斬りようがない。太刀打ちできないとはまさにこのことだろう。マナブの居る、離れまで、速足で歩いた。後ろでは小柄なリユウが、リーチの差で小走りになっている。
 離れでは、犬たちがうめいていた。怯えるのではなく、脅すのでもなく、単にうめいている。おまえのことは知っているぞと、返事をしている。そのうめきは、俺たちが通った道の通りに、止んでいった。
「マナブ」
 ノックもぞんざいに、俺は離れの戸を叩いた。物音はしていなかったのだが、戸を叩くなり中で音がした。
「マナブ!」
 俺の怒気に、マナブは心底怯え切った声で中から言った。いま、開けてはなりません。気弱なマナブにしては意志の強い声だった。
 しばらくそのまま外で待たされた。まだ肌をなぶるような寒気の中、リユウも後ろで待っていてくれている。待っている間にギブとも合流した。
「ギブ、ムスブはなんて?」
「少し目を離した間に、ラブと連絡がつかないと」
 せめて、マナブが中からでもいいから何か言ってくれたらよかった。人は暗闇の中で、水が一滴ずつ滴るような夜の群れの中、耐え続けることは出来ない。代わりに、人は一メートル先に松明が見えたのなら、自信を持って耐えるだろう。
 しかし、そこはこの俺とその息子とその恋人だ。よく耐えたと思う。離れのドアが開き、マナブが現れた。
「ギャン様。……」
「マナブ、ラブはどうした」
「おります」
 マナブが奥に引っ込み、ラブ、と声をかけている。そのか細い音が聞こえたことで、俺はうめいていた犬たちが眠っていたことを知った。
「マナブ、ラブが眠っているなら無理に起こさずとも良い。何があった」
「鬼が。……」
 マナブの癖で、言葉の扱いがうまくない。俺もうまいほうではないが、マナブはもっとうまくない。対して、ラブは巧妙だ。
「鬼が出ました。最後に厄を払ったのは、昨年の二月二日、リユウ様とギブの豆まきのとき」
 リユウが声を上げた。三日じゃなかったっけ?
「二日の二十時半だったはずです。……」
「リユウ、昨年は、三時まで起きると言い張って、結局眠いからと」
「そうだったかも」
 ギブの指摘に、リユウが恥ずかしそうにする。
「その厄除けが、おそらく、一年の無病息災を祈って……その一年が……」
「昨日で終わったのか」
「然様です。……」
 マナブはいつも終始こうだから、俺はもう特段ラブの心配はしていない。マナブが何も言わないということは、ことは済んだのだろう。
 そこでふっと俺は思い当たる。
「マナブ、おまえの手製の恵方巻だが、ラブの帰りが遅い八つ当たりをして食ってしまった。何か起こるか」
「何が起こるかは何とも申せません。ご心配でしたら、その、もう一度、握りますが……」
「それでいいのか」
「それでいいと思えればそれで」
「そのようなものか」
「支度をして参ります。ラブは中におります。……」
 マナブはそそくさと厨房へ行ったようだった。どうもあれは俺を怖がる。
「ラブ」
 言いながら、マナブの離れに入った。畳の上に布団が敷かれ、ラブが眠っていた。横に図々しくも、白い毛並みのポメラニアンが居た。仔犬だ。毛の生えた鞠のようになって眠っている。
 リユウとギブもついてきていた。ギブはムスブに、ラブが見つかったと連絡を入れているようだ。
 またしばらく、畳の上で膝を畳んで待った。日が昇るころ、ラブが目覚めた。
「ギャン……?」
「ラブ。何があった」
「英雄が。……」
 眠たいのだろう、ラブは目を擦って起き上がった。
「ずっと、ショパンの英雄が鳴っていました。昨日、お祭りでギャンと、焼いた鶏を食べて。夜になって、一緒に宿から池を見ていたら、急にギャンが蜜柑を食べたいと言い出して。とても暑い夜でした」
「わかった、わかった、ラブ、もう少し寝ていろ」
「はい、今日は、冷えますね」
「寝ろ」
「はい」
 ラブが再び目を閉じ、すぐに寝息が上がった。リユウもギブも何も言わなかった。ただ、ラブの、現実のようで現実ではない記憶だけが反響した。
 外で足音がすると、ラブの横にいたポメラニアンが飛び起き、ポメラニアンにしては珍しく吠えず静かなまま、飛び上がって入り口のドアを開けた。マナブが立っていた。
「恵方巻を握りました。その、昨日と同じ材料というわけには、参りませんでしたが。……」
「構わん。おまえの料理はいつも美味い」
「身に余るお言葉。……」
「ラブが、不思議なことを言っていた」
「目が覚めたのですね」
「何か、憑いてはいまいか」
「なにも、おりません」
「ならばなぜラブはあのようなことを言う」
「なにをラブが申しあげたかは存じませんが、きっと幸せな夢でしょう。犬たちが、静かです。悪いものは、おりません。……」
「ラブが言っていた通りのことを、してやればいいのか」
「それはきっと、ラブの夢が叶うのでしょうね」
 俺はふっと、思いついたことがあった。
「マナブ、昔の者も、いないか」
「いるかもしれませんし、いないかもしれません。……」
 なんとなくではあったが、ラブは昔の記憶を俺に語ったのではないか、と思った。
 俺と懇意になる前の、幸せなころの夢を、語ったのではないか。
「……」
 俺が仏頂面で嫉妬していると、鞠のようなポメラニアンがマナブに細い声で何やらねだっている。マナブは唇の前に人差し指を立て、静かに、と、しつけた。確かにマナブからは美味そうな香りがした。
「与えてやれ」
「は。……」
「その仔犬はいい番をした。褒美くらいはくれてやれ」
「は、かしこまりました」
 マナブは、おいで、と、鞠に向かって言った。ポメラニアンが甲高い声で鳴くと、外の犬たちもつられたように、息を切らし始める。
「ギャン様、恵方巻は、牛タンで拵えました」
「肉か。疲れたラブにいい」
「どうか、ご自愛を」
「ああ」
 マナブが銀の覆いのついた皿を、俺の傍の丈の低い机に乗せた。そのまま、失礼致します、と、厨房のほうへ行った。忙しい奴だ。大変な食事当番のくせに、褒美のひとつも欲しがらない、マナブはそういう男だ。
「ギャン、僕たちも退席するよ。僕らは今日を始めないといけない。ギャンはもう少し、昔と向き合わないといけないのかもしれないけれど」
 リユウは何か知った風に残して、ギブを連れていなくなった。
 俺ひとりがラブを待つだけになった。ラブはすやすやと愛い顔で眠っている。
 だんだんと俺は腹が減って来た。大体、夕餉が巻物ひとつ、いや、ふたつというのがいけないのだ。ラブが戻り次第、茶でも淹れようと思っていたのに、このラブは昨晩、帰ってくることさえなかった。
 ラブが言っていることに、自然と考えを巡らせる。恐らくは、夏祭りか何かの夢を語ったのだろう。しかしながら、夏祭りに、ピアノのショパンは似合わない。だが、どうだ、この国で英雄と言ったら、俺くらいではなかろうか。
 ラブと夏祭りに行ったことがないわけではない。だが、鶏を買ってやったことはない。夏場に季節外れの蜜柑を食べたいと言ったこともないはずだ。池の見える宿は、あったかどうか。俺はあまり風流やら雅やらに興味がない。
 もう日が高い。マナブの犬たちも戻り始めていた。室内犬は白いポメラニアン一頭なのだろうか、部屋の中に戻ってきたのはあの鞠だけだった。
「鞠よ」
 頭の神経が絡まりそうで、俺はマナブの真似事をして、犬に話しかけた。犬は、俺を興味深い玩具のように見ている目で見上げてきた。
「ラブは、何と言った?」
 俺がそう言うと、鞠は馬鹿にしたように、あるいは興味を失ったように、俺から離れて、部屋の隅の自らの寝床へ走っていった。馬鹿にされても仕方のないことだったので、俺はただ黙って、ラブの体に触れた。頬、喉、胸、肩、布団を押しのけるように手を這わせた。過去、未来、どうやっても俺だけのものにはならないラブ、肌の感触を確かめるうちに、やっかみはどこかへ行った。ただ、目の前の体躯を、愛しいと思った。
 鞠は寝た。俺はラブに口付け、マナブが着せたのであろう、やけに脱がせやすい和式の寝間着を解いていく。ラブの息が近い。俺の唇がラブの頸を這っていると、ラブは大きく息を吸い、俺の耳元で小さく可愛らしいくしゃみをした。
「寒かったか」
「……おはようございます。よく寝ました」
 ラブは体を起こし、周りを見回した。
「マナブの離れだ」
「なんだか、記憶が」
「構わん、ラブ、飯だ」
「はい、今日は」
「恵方巻をマナブに作らせた」
「恵方巻。……」
 ラブは、ひと呼吸考えて、時系列を取り戻したようだった。
「節分は、昨日ですね」
「然様だ」
「僕は、ギャン、先方の家に招かれて」
 林檎を剥いてもらって、すぐ平らげました、そう遅くならないと思ったので連絡も入れなかったんです、
「帰ろうと思ったら、雪まつりの焼き鳥屋がおいしそうな香りを立てていて。貴方と行きたいと思ったんです。恵方巻を食べた後にでも」
「そうか」
 単に、夢は夢だったのかもしれない。夢は眠っている間の記憶の整理だという。起こったことと先程の言葉が少しずつ違うのが、夢というものの曖昧さを語っている気がした。ラブの語る言葉は、その夢が単に『記憶の片づけ』でしかないと言っているように聞こえた。ならば、やっかむのも無駄な話だ。俺は俺のやり方でラブと生きる。
「遅くなってしまい、申し訳ありません」
「構わん。まずは食うぞ」
「はい」
 銀の覆いを皿からどかすと、牛タンのたれの香りが腹に響いた。
「いただきます」
 この恵方巻を食べ終わるまでに、俺は少し遠出をするであろう、雪まつりの予定を組もうと思う。楽しいものになればいい。過去のラブにやっかんでいる暇があったら、これからをもっと熟れた時間にしてやればよいのだ。
 恵方巻をふたりでかじる。牛タンは作られてから時間が経っていたというのに柔らかく、前歯に甘く歯切れがいい。一緒にとじられている野菜も、たれの味が染みていて豪奢な味だ。酢飯の具合もちょうどいい。
 それを味わっていると、ラブが何かに気づいた風に、慌てて恵方巻を口に押し込み始めた。
「鬼」
 食べ終わったラブは、急いで俺に言った。俺はまだ八分目ほどをかじっていた。
「思い出した。雪まつりに、鬼が出たんです、ギャン、やっつけに行きましょう。昨日確か、帰りに雪まつりの通りを歩いていたら鬼が出て。僕はすんでのところで逃げ出して、意識がおかしくなって、そこの廊下で倒れて……確かマナブの飼っている、名は分かりかねますが、モップのような大型犬が、離れまで運んでくれて。ねえギャン、僕はやられっぱなしは嫌です。貴方となら、鬼も怖くありません。ねえ、やっつけましょうよ」
 もしかすると、雪まつりの予定は、俺が思っていたような甘いものではなくなるかもしれない。だが、ことが終わり次第、俺が宿屋で蜜柑でもねだってやり、熱い夜にしてやれば、問題ないに違いない。鬼と再度会いに行くというのに元気なラブが、俺が居れば怖くないと言ってくれたのが嬉しい。期待には応えるまでだ。恵方巻は旨かった。
「僕は貴方以上の鬼を知らない」
 褒められているのかは判らない言葉だったが、ラブが楽しそうなので、それでいい。
 俺は予知夢という言葉を思い出した。夢というものも目に見えない。太刀打ちできないはずだが、叶えるくらいは出来そうな気がした。




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