イガカシ
心的捕虜
イガカシにつかまってしまった。
もうおしまいかもしれない。
イガカシにつかまって、帰ってきた兵士は指を折るほどしかいないし、帰ってきても軒並みすぐに自殺している。
詳しくは知らないけれど、イガカシ・トラジックで壊れなかったイガカシも少ないらしいが、どうせ50分の40体くらいしか壊れていない。こちとら星の数ほどの兵士を星に帰させられた。
目の前では、髪にひらひらした布のついた黒い花のコサージュを生やしているビスチェ姿の12歳ほどに見えるイガカシが1体と、きらびやかな軍服を着た緑のような黒髪の男が茶を楽しんでいる。男は何が面白いのか、ソファで組んだ膝に頬杖をついて、ずっとイガカシを楽しそうに見ている。
特に拘束はされていない。それがまた恐怖を煽る。パイプ椅子に腰かけさせられている。向かい側にイガカシが黒い木の椅子に腰を下ろしていて、パイプ椅子と黒い木の椅子の間にはちゃちいテーブルがあり、イガカシの茶とトイピアノが乗っている。ソファの男は斜めに机に向かっており、机の角に茶器を置き、ずっとイガカシを見ながら茶を飲み、イガカシが茶を飲み終えるたびに立ち上がって茶を淹れてやっている。
「よろしければ、どうぞ」
イガカシがこちらに茶を渡そうとしてくる。どうせアーモンドのにおいがするのだ。受け取るはずがない。
だんまりのままいると、イガカシは残念そうに、茶を持った手を引いた。
「ギャン、飲まれますか」
ぎょっとした。
ギャン、先の大戦で軍を指揮していた男の名だ。そんな男を呼び捨てて、そんな男に、このイガカシは、茶を淹れさせたというのか。
「お下がりの茶を俺が飲むとでも?」
「然様でしたね」
イガカシが優雅に茶を飲んだ。イガカシの細い首の喉仏が、こんな場所にふさわしくないくらいムーディに動く。
イガカシは「ふう」と声に出した。茶器を置くと、トイピアノをいじり始める。
トイピアノからは割れた小さな音が流れ始める。弘法筆を選ばずとはよく言ったもので、イガカシの演奏は確かに腕があるのだと主張していた。
バロック調の音楽に、ギャンがソファに深く腰掛け、酔うように大きく呼吸をした。
メロディが右手で鳴り、左手で鳴り、親指と親指の間で鳴り、また右手に戻ってくる。
洗脳でもする音楽なのだろうか、と思うほど、同じメロディが、様々な趣向を凝らされ現れる。イガカシが笑みをたたえながら弾いているものだからますます怪しい。しかも、聴き惚れてしまっていたが、それでも感じるほど、長い。
「ラブ、その辺にしておけ」
男が呼ぶ。ラブ、イガカシの名だろうか。
ラブは手を止めないまま返事をする。
「嫌ですよ。これからが佳境なんです」
「ずっと繰り返しているだけだろう」
「違うんですよ」
ラブは苛立った風にゆっくりと言った。やめてくれ、この命はラブの機嫌にかかっている。頼むからラブを怒らせないでくれ。
「あなた」
ラブがようやっと手を止めた。ラブがこちらを見ようとしたので慌てて目をそらした。目を合わせられない。できない。その目を見てはいけない気がする。
「あなた」
ラブが苛立つ。まだ死にたくない。どうすればいい? 目が合えば死、苛立たせても死。
ギャンが立ち上がり、ラブに茶を注いだ。こちらまでそば茶の香りが漂ってくる。これで、落ち着いてくれ、ラブ。ギャン、よくやった、敵ながら感謝する。
ラブはその茶を飲んだようだった。
そしてラブは立ち上がって机を回り込み、こちらに来た。
恐怖から目を閉じた。ラブの手であろうひんやりした感触が顎をとる。
「ラブ」
今度はギャンが苛立った。ソファから立ち上がる音がして、靴音が近づく。
ラブの手が引き剥がされるように顎から離れ、辺りに肉を打つような乾いた音が響いた。
反射的に目を開けた。何もされていない。何だ。もしかして。
うっかりラブと目が合った。もう逸らせない。ラブは笑った。
「僕がぶたれるのを想像しましたね?」
その通りだった。ギャンの大きな手に、ラブの小ぶりな桃のような頬が手酷くぶたれるのを想像した。
そしてその想像で欲情していた。
ラブの隣に来ていたギャンが喉で笑っている。手と手を合わせ、叩く。同じ音がした。
それだけのことに、興奮が止まらない。音が舐めてくるようだ。
「帰りましょうか、部屋に」
ラブが背を支え、立たせようとしてくる。
「ラブ、もういいのか」
「ええ。次は2人で話しましょう。ね」
ラブがギャンではなくこちらを向いて、「ね」と言った。
ギャンが面白くなさそうに「ほう」と言う。
「ちゃんとお相手しますので、そう怒らないでください。ギャン、夕食は僕は刺身を食べたいのですが、あなたの気分は?」
「ああ、いい案だ。俺は空腹だ。先に行っている。すぐ戻れ、ラブ」
「ええ、できるだけ早く伺います」
ギャンが部屋を出た。
「……あなたのおかげですよ」
息の音を多く含んだ小さな声で、ラブが話しかけてくる。ついラブの目を見つめた。
「ギャンには少し妬かせるくらいがいいんです、あなたにも、いずれ妬いてもらえるように頑張りますね」
何だ、なにを言っている。ラブの微笑みが網膜を蝕む。
どうせプログラムされた笑い方の癖に、なぜこうも、ひとの心に訴えかけるのか。
いつの間にか、抵抗する気がなくなっていた。ラブに背を抱かれて導かれるまま、簡易な部屋まで歩く。拘束はない。
「ここが、あなたの牢みたいなものです。できるだけ居心地は悪くないようにしておきますが、不満がありましたら僕まで教えてください。ギャンには間違っても言わないように」
「わかりました」
自然と返事が出た。
ラブがまじまじと見てくる。やらかしたな、でももうどうでもいい。
ラブにならどうされてもいい、そう思い始めていた。
「あなた、口が利けるのですね」
「はい」
ラブに気に入られれば、少し長く一緒に居られるかもしれない。もしかしたら、一緒に居るだけでなく、その先も……。
「もう少し、話しましょうか」
体中を駆け巡る嬉しさに手が温まる。
「ああ、でも僕は空腹で。食べたら伺います。話したいことをまとめておいてください、夜はギャンの相手がありますが、その前に立ち寄るようにします。短い時間しかとれませんけれど」
ラブに部屋に入れられる。立派でこそないが、捕虜に与えるにはいささか上品すぎる寝台に座らされ、ラブが手に触れてきた。
「これは、秘密ですよ」
ラブが手の指同士を絡め、寝台に押し倒してくる。秘密? 秘密にするようなことをしてくれるのか? 本当に?
ラブはそんな様子を楽しそうに笑って、何もしないで体を起こし、体と指を離した。
「今日は、練習です。されるままでなく、もっとちゃんとできる自信が生まれたら、僕を呼んでください」
ラブが「では、また」と残して部屋を出て、施錠した。
なるほど、帰るものがいないわけだ。
ラブにつかまると帰れない。帰りたくなくなる。
ラブに許されるまで、何もできなくなるのだ。
言われた通り、ラブに何と言おうか、汗をかくほど必死に考えている自分がいた。
ラブに見放されるのは絶対に嫌だった。それくらいなら、自分で命を絶つだろう。
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