犬よ兎を喰らうがいい

第一章 騎士よ、名乗りを上げるがいい【上】



「そこの階段を上った最上階の鍵を外してきて。私はニコチンが切れかけて自害したい気分だ。鍵はおかみと私が面倒がって貸し出してくれないから殴るなり蹴るなりして頑張って開けてね。邪魔なものも壊してしまって構わない。わかったかい」
 フラットコートの上司に配属されたセンザウンドと名乗る男は、「君とは初めての任務だね、よろしく」と人のよさそうな笑みを浮かべて、そう言った。
「承知しました」
 正直なところ相当びっくりした。好印象の代名詞のような笑顔だ。そこから紡がれているとは思えない言葉に慌てて息を吸ったせいで返事が少しもたついた。このニコチン中毒者の気分を損ねて根性焼きを食らうのも嫌だったので「直ちに」と付け加えた。中毒というからには物質の血中濃度が下がれば何をするかわからない。
「うんうん、いい返事だ。さあ、行っておいで」
 ひらりと手を振った上司に今度こそ「早急に行って参ります」と返事をし、フラットコートはどこまであるかもわからない階段を駆け上がった。
 その背中を眩しそうに眺めていたセンザウンドは窓を開け、煙草を取り出す。
「別に最寄りの階までエレベーターで行ってくれてよかったんだけど」
 フラットコートはそのつぶやきも聞かないまま階段を上る。初対面で上司を中毒者と認定するのはいかがなものかと思わなくもないが、センザウンドは大っぴらにニコチンを求めていることを主張していた。それならば、応えなくてはならない。
 どうでもいいことを延々と考えてしまうのは大多数の人間の悪癖で、フラットコートもその一族だった。何階まで来たのかを考えることよりも、身近でありながら親しくない人間にレッテルを貼ることのほうがずっと楽しい。だが十代の頃はそんな不毛なことよりも、へヴィメタルを聴きながら訓練場を走り回ることのほうがずっと好きだった。これが歳か。
 それに対する鉄槌だろうか。だんだんと階段を上る脚が重くなってきた。疲れるほど上っただろうか。否。それに疲れとは違うもののような気がする。何というのか、フラットコートの先代の恋人が『行くな、って後ろに引っ張られている感じ』と表現するものに近い。彼女については、今のフラットコートは冷静に考えられない。振ったばかりなのだ。
 その感覚はひどくなる一方だが、任務だ。這ってでもいかなければならない。
「もし」
 その声が聞こえると、ふっと体が軽くなる。
「もし、あなた」
 フラットコートが脂汗にまみれた顔を久方ぶりにあげると、屋上に続く窓から光が差し込んでいる。その手前に、体育座りをしている青年がいた。柔らかそうな髪が日に透けている。
「今、よろしいですか」
「ええ、どうぞ」
 嫌な感覚がなくなると、けろっと体調がよくなった。汗が冷えて寒いくらいだ。
「人を探しているんです。クニヒトという男なのですけれど」
「クニヒト……」
 どこかで聞いた名だなと思う。そしてふと思い当たったが、この青年に知られてはならなかった。
「ご存知ですね?」
 青年が嬉しそうに、膝をついてフラットコートのほうへ身を乗り出す。
「いえ……あの、僕は屋上の鍵を開けないとなりませんので」
「教えてください。どんなことでもいいので」
「いえ、その……お力になれず申し訳ありません」
 少し間があり、青年はひどくがっかりした顔で「そうですか」と俯いた。
「お仕事の邪魔をしてしまい申し訳ありませんでした。僕はもう少しこの辺を探してみます。ありがとうございました」
 青年が再び膝を抱える。なんだかとても申し訳ない気分になったが、致し方ない。
 青年の前を通り、フラットコートが屋上のドアを開く。鍵はかかっていなかった。
 疑問に感じながらも、さて帰ろう、とフラットコートは階段を下りる。
 しかし一つ下の階に着く前に、先程の嫌な感覚が襲ってきた。足がもつれ、転落する。体が、どう頑張ってもゆっくりとしか動かない。何が起きているのかもわからない。関節が粘る。
 咄嗟に、痛む関節で携帯端末を取り出した。思いつく限り最善の連絡先を選択した。
 センザウンド宛に「屋上を解放しました」と震える指でしたためる。
 しかしながら「エラーが発生しました」というばかりで送信できない。
 体中が痛い。痛い。特に頭が重い。
 先程の青年の声が聞こえる気がする。
「クニヒト」
 けれどその声は、確かに次第に遠くなっている。楽になってきたが、まだ苦しい。いや、苦しいというか、何であろうか、むしろ、度を越した寂しさに似ている。
 上の階でドアを開ける音がする。きっとセンザウンドが到着して、僕は任務を遂行したんだ。フラットコートはそう思った。すると簡単に意識がなくなった。
「おや」
 そしてその二分ほどあとにエレベーターで悠々まったりと最上階へ来たセンザウンドは、ふと階段の下に見たことのある部下の、転落した際に大胆にぶちまけた鼻血まみれの顔を認めた。
「ちょっと見ない間に男の勲章が増えたねえ、フラットコート君! ニコチンを補給したら行くから、もうちょっと生き延びてねえ!」
 気持ちばかりの声をかけて、センザウンドは屋上の開け放されたドアから久しぶりに屋上へ出て煙草に火をつけた。
「ふーむ、いい天気だ。久々の屋上というのはいいものだねえ、もう一回飛び降りたい」
 ひとりごとの多いこの上司は、タールの煙を燻らせながら、わざとフェンスまで歩き、ドアから離れてみる。昔から煙を嫌がっているその青年が通りやすいようにして、けれど見ないふりを決め込み鼻から紫煙を吐き出した。
 センザウンドはフラットコートのような体調不良は起こしていない。
 そしてセンザウンドが一服を終えて、フラットコートに歩み寄る。手首で脈をとった。
「フラットコート君、生きてる? おうおう生きてる、不整脈は体質かな?」
 センザウンドは「よいしょ」とフラットコートを背負った。センザウンドの肩からフラットコートの鼻血が滴る。
「私の命令からの鼻血はまずいなあ。仕方ない、新人の医者が入ったって言っていたことだし、その医者のお手並みを拝見しに行こう。怒られるかなあ、怖そうなんだよなあ」
 そして数時間後、フラットコートはセンザウンドの私室で目覚めた。煙草の香りがする。横でセンザウンドが先程よりも更に数段柔和な笑顔で笑っている。
「おはよう。フラットコート君のおかげで屋上が使えるようになったって私まで褒められたよ。鼻血も止まったね? 痛みもないね? 今日はいい日だ煙草が美味い。ニコチンが私の体を蝕んでいく」
 徐々に意識が覚め、はっとする。フラットコートはやや完璧主義的な考え方をしていた。
「あの! 任務を遂行できず、申し訳ありませんでした。もう一度機会をいただけませんか」
 センザウンドは睫を三度合わせた。フラットコートの真剣な眼差しを物珍しそうに見る。
「うん? ちゃんと鍵を外したじゃないか。特攻まがいも立派な任務だよ」
「いえ、鍵はかかっていなかったのですが、最上階が異常な雰囲気だったため連絡が遅れました、それで……」
「ああ、やっぱり彼が居たんだ。あのねフラットコート君、人が居たでしょう」
「はい」
「その人の影響で誰もあの階に行きたがらなかったみたいだ。まったく勝手な話だよ、私より勝手かもしれない」
 この上司はなんとなく憎めない。
「それで鍵が開かないだなんて言い出した輩がいたんだろうね。尻拭いお疲れ様、フラットコート君」
「いえ、命令でしたので」
「それで、まあ。その人が喋ってる間はなんともなかったでしょう」
「確かにそうでした」
「あれはね、鼻歌みたいなものなんだ」
 「いやもっと物騒なものだな」と、センザウンドは右上を見た。
「彼は人を探していたろう」
「クニヒトについて訊かれました」
「答えなかった?」
「無論です」
 クニヒト、三週間ほど前に忽然と姿を消した、医務開発課の男。存在も所在もトップシークレット、行方不明の通知も関係者のみに限られたがゆえに、捜査が難航している。
「偉い偉い。それで、彼はクニヒトととても仲が良かったんだ。言ってしまえば恋仲だったんだね」
「恋仲……」
 先代の彼女、ライカの顔が頭をよぎった。だが彼女とはもう何もないのだ。何も、ないのだ。
「それで、彼……この際名前を教えようか、レポリィド君って言うんだけど、レポリィド君は特殊な声をしている。その声で、ひたすら、クニヒトを呼ぶんだ」
「なんだか、もの悲しい話ですね」
「もっともの悲しい気持ちになるかもしれないからこれ以上は伏せておこう。ただ、フラットコート君がやった屋上の開放は紛れもない偉業だよ。レポリィド君の声に立ち向かったのは、フラットコート君が初めてだ。立派だよ。まあそんな命令を受けたのも君が初めてなんだけど」
 「煙草を吸ってもいいかい」とセンザウンドはことわった。灰皿では五本の煙草が息絶えている。
「まあ、フラットコート君、今日はゆっくり休んで。鼻血がぶり返さない程度に飲みに行ってもいいし。ぶり返すと私がオーヴィス先生に怒られる」
 オーヴィス、先週あたりに勤務し始めた、やり手の医師だ。そんな医師に世話になるほど鼻血を出したというのか。なんとなく情けない。
 「まあ自由にやってよ」とセンザウンドは煙草を咥えた。「メッセージ入ってたよ」の言葉は出ていけということだろう。フラットコートは「失礼致します」と部屋を出て端末を確認した。
 新着メッセージが一件。
(壊れたわけじゃなかったんだ)
 最上階で通信ができなくなったのはレポリィドとやらの声の影響かもしれなかったが、訊きに戻るのも面倒だ。とりあえずメッセージを開いた。
『いいバーを見つけた! 飲もうぜ ベルナルド』
 お前か、と、思わずフラットコートは脱力した。しかしながらライカの件では非常に世話になった親友だった。
『いま行ってもいいか』と送信するや否や返信が来る。
『会員制だからお前の画像使っていいか? 今、俺そのバーに居て席もすいてるし、すぐ通ると思うぜ』
 ベルナルドの現在地を追い、とりあえず行ってみようと歩く。寮の近くだ。行けばわかるだろう。
 歩いているうちに、日が沈もうとしている。薄暗い裏通りにぽつんとバーの明かりが灯っており、人が居るというのはいいものだな、と思った。
 会員制だとベルナルドが言っていたのでなんとなく入り辛い。入口の辺りで端末をいじっていると、よく手入れされた長めの髪を右肩にゆるくまとめた男がドアから半身を出し、「ご友人とお約束ですか」とフラットコートに訊ねた。
「ええ」
「綺麗な黒髪で」
 この男のほうが艶もあり手入れされた印象の髪だったが、不思議と嫌味な感じはない。
「会員様として承っております。ご友人が中でお待ちです」
 おそらくベルナルドが『黒髪の男が来る』とでも言ったのだろう。最近は黒髪も珍しいものになりつつある。
 男はバーの外に出て、「いらっしゃい」と新しい会員を招き入れた。随分品のいいバーのようだ。
 バーに入ると、既に出来上がったベルナルドが、バーの隅で演奏しているジャズバンドをぼんやりと眺めていた。

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