犬よ兎を喰らうがいい

第五章 犬よ、羊を屠るがいい【下】



「フラットコート……」
「大丈夫? もう十四時だよ、飯行こうよ」
「あ……」
「少し話もしたい」
 フラットコートは「行こう?」と首をかしげた。
「ええ、行きましょう」
 フラットコートの後ろをレポリィドがついていく。
 レポリィドはなんとなくフラットコートの手を掴んだ。
 当然のように指が絡まった。
 歩く音が三人分鳴る時間だった。最後の一人、センザウンドは、たびたび立ち止まってニコチンを摂取しながら、裏通りにようやっと辿り着いた。
 そんな彼を、ショートヘアの女性が呼び止めた。
「おやまあ……専務」
「センザウンド、クニヒトを見なかった?」
「ちょうど探しているところでした」
 専務、七年前は課長だった。
「少し一緒に話しましょうよ」
「そうですね、お勧めのバーがあるんです、よろしければいかがでしょうか。専務のような大人の女性と酌み交わせれば私も見栄が張れるというものです」
「私はフレンチがいいわ」
 話しながらも、バー『ケンネル』に近づくセンザウンドに、専務は反対側を指差した。
「申し訳ありませんねえ、少し専務を困らせるかもしれません」
「わかっているのならやらないで」
「でも、私は女性をゆすったりはしませんよ。単刀直入に申し上げますと、専務、悪いことをしていらっしゃいますでしょう」
 専務の顔が一瞬冷えたものになる。
「そうね、あなたには話せないような、悪いことをしているわ」
 そう表現する瞬間にはセンザウンドの手が振りかざされようとした専務のスタンガンを押さえつけていた。
 専務の額がセンザウンドの額を捕えようとしたが、センザウンドはそれをふいとかわす。そのまま振り切られた専務の腕がフックを仕掛けるが再度捕えられ、強く腕を握られた痛みにスタンガンはとうとう落とされた。
「これ以上お暴れになるのでしたら、私はわがままなので、相応の措置という名の私好みのカスタマイズナースのコスチュームプレイをしていただきますが、それよりも貴女の庇う初代クニヒトを受け渡したほうがましだとは思われませんか?」
「クニヒト君は渡せないわ。彼には秘密を握られすぎている。死んだとしても早く死体を溶かさないと。だからナースとは対極なのよ、人殺しナースなんてできない相談だわ。あなた、本当にナースが好きなのね」
「ええ、胸の肉付きのいいナースが」
「嫌味?」
「もちろん。私はとある部下が可愛くてならないので、できたら初代クニヒトをものにしたいんです。せっかく触らせていただいた女性の肉の感触にお応えできず申し訳ありませんが」
 専務は汚らしいものを見る目でセンザウンドを見た。
「あなた、昔からいけ好かないのよ。レポリィド君は言われた通り渡したでしょう。私にクニヒト君をくれてもいいんじゃないかしら」
「でも私はレポリィド君を殺していませんよ」
「私がクニヒト君の犯罪をほう助したのがそんなに面白くないの?」
「まあ面白くありませんね、貴女とは漫才のコンビだけは組めないなと思います」
「ああそう。どうせこれも録音しているんでしょう」
「最初からしていますよ」
 専務は大きくため息を吐いた。
「調子に乗りすぎた。負けたわ」
「勝ちました」
「あなた頭に来るわね」
「ありがとうございます」
 専務からようやっと手を離し、センザウンドが端末を少しいじると、一般兵が数名、音すら立てず後ろからついてきた。専務が更に大きなため息を吐いた。たびたび煙草を吸っていたのは遊んでいたわけではない。隊が整うのを待っていたのだ。センザウンドが指示を出す。
「専務の罪状はまだ出さないでおいて。自白すると思う」
「はっ」
 専務は一般兵に手錠をかけられて、センザウンドを連れ、道案内をした。「クニヒト君なら今頃中で死んでいるわ。騎士よ兎の誠実に感謝を」と、彼女にできる任務の完了を告げる。センザウンドは彼らしくないほどに急いでバー『ケンネル』の扉を開いた。
 そこで、折り重なって倒れる二人の男を見つけた。
「私以外を選ぶからよ。クニヒト君はどうして進んで不幸になろうとするのかしら」
 三つあった足音のセンザウンドの分が止まり、手早く罪人たちの処置をする。残り二つの足音は食堂で、食事を受け取っていた。
「また昆布ですね」
「うん、ごめんね、食べてくれる?」
「ええ。僕はあんまり食べるのは好きではないんですが、フラットコートにいただく昆布は、おいしく感じるんです」
「いつかさ、一緒にディナーでも食べたいな。いつかでいい。昆布食べてるレポリィドは、なんだか見ていて幸せ」
「そうですか」
 二人で席に着き、クニヒトは干した肉を、レポリィドは昆布をかじる。
「タンパク質、足りないんじゃない?」
「あとで点滴を打っていただきます」
「そのほうがいいね」
 今日の食事は決して多くなかった。レポリィドの点滴をするために、医務開発課に向かう。
「クニヒトです、点滴でウェルシュ先生をお願いしたいんですが」
「あ、ウェルシュ先生は今は手術中でお忙しいのですが、お待ちいただくか、別の先生でよろしければそうさせていただきたいんですが」
 受付の可愛らしいナースが困った顔をしてフラットコートに訊ねる。
「じゃあ、待ちま……」
「別の先生で」
 フラットコートの言葉を遮り、後ろから聞き慣れた声がした。センザウンドだった。
「せ、センザウンドさん、クニヒトは、クニヒトはどうでしたか」
 レポリィドが息せき切って話す。
「うん、点滴しながら話そう、レポリィド君」
 点滴がからからと運ばれ、レポリィドの腕を見知らぬ医師がとる。レポリィドは少しフラットコートを盗み見た。
「うんうん、ちょっと点滴待って。レポリィド君、言いたいことあるでしょ」
 医師が困ってアルコール消毒薬を持ったまま立ち尽くす。フラットコートもなんだろうかとセンザウンドを見る。
「はい、レポリィド君、どうぞ」
 センザウンドがラジオのような「どうぞどうぞどうぞ……」と鳴るエコーの演出をする。
「あ、あの、できたらフラットコートに打ってほしいです」
「え、僕?」
 フラットコートは固まった。医師も固まった。
「センザウンド様、その方は免許をお持ちですか?」
 医師が訊ねるが、センザウンドは「君は何も聞かなかった」と笑う。
「だって、レポリィド、絶対痛くしてしまう。上手なプロフェッショナルにやってもらおう?」
「僕は上手な点滴をされたいのではなくて、フラットコートに点滴をされたいんです。わがままを言ってごめんなさい、でも、できたら」
「それはいけないよ、レポリィド君」
 センザウンドはあからさまな裏声で言うと、点滴を医師からぶんどった。
「レポリィド君はわがまま言わずにごはん食べるかまともな点滴受けるかしてね。君がごはん食べないと怒られるの私なんだからね」
「ごめんなさい」
 レポリィドはしゅんと俯いた。だがセンザウンドはまだ裏声で「ほらほら」とフラットコートに点滴を持たせようとしている。医師は状況が飲み込めずに固まったままだ。
「はいあなた退席ねーお疲れ様」
 裏声から戻ったセンザウンドは医師を引っ張って一緒に処置室を出た。点滴を受け取ったフラットコートの肩が叩かれる。
「え、あれ? センザウンドさん……」
 顔をあげたレポリィドが、消えた上司を探す。
「レポリィド、僕、センザウンドさんにすごい応援された」
「打っていただけるんですか?」
「センザウンドさんは僕に打たせたいみたいだし、レポリィドまで言うなら、がんばるよ」
 顔を輝かせたレポリィドにフラットコートは意を決して、消毒剤を綿にしみこませた。
 右腕、失敗。脈が見当たらない。
「駆血帯、巻くといいかもしれません」
「あ、これ?」
 レポリィドの左腕に、ゴムの帯を巻き付け、消毒して左腕に挑戦する。失敗。脈が逃げた。
「う……ごめんレポリィド」
「いえ、手の甲から行ってください」
 だいぶ吐き気が巡り始め、フラットコートは震える手でレポリィドの手の甲に針を宛がった。
「思いっきり行ってください、こんなふうに」
 レポリィドは自由な右手でフラットコートを手伝い、無事に手の甲から点滴が生える。
「ごめん」
「いいんです、こちらこそわがままを言ってごめんなさい。僕、好きなひとが触ってくれるのが好きなんです。点滴でも何でもいいので、触れられていたいんです」
「そっか」
 そこまで言われれば悪い気はしない。ぐるぐる廻っていた吐き気が少しよくなる。
 テープで固定し、長椅子のレポリィドの横にフラットコートは座った。
「できたかなー?」
 センザウンドが処置室に顔を覗かせ、医師が顔を真っ青にして一緒に入ってきた。なにか恐ろしいものを見た顔をしている。
「ちゃんとできました」
「じゃあ、初代クニヒト君の話をしようか。お医者のかたはこれで問題ないか見てくれたら退席してほしいな」
「はい! はい!」
 返事を叫んだ医師は慌てて止血を確かめ、そそくさと処置室を出た。

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