犬よ兎を喰らうがいい

第六章 犬よ、兎よ、騎士よ、迷え【下】



「フラットコートは、全然下手じゃありませんよ」
 レポリィドは小さな声でそう言った。
「そう言ってくれると。合わなかっただけかな、なんて、思える」
「僕は、フラットコートとするのが好きです。昨日は、クニヒト、なんて呼びましたが、よく考えたら、あれでは最後にしたくありません。フラットコートは少し優しくしすぎるだけです。でも、僕が帰ってきたら、優しくしなくていいので、抱いてほしいです」
「そんなこと言って、ちゃんと帰ってくる?」
「僕は、一度は帰ってきます。フラットコートにお世話になったのを、なかったことにするつもりはありません。またクニヒトと暮らすことになっても、ちゃんと一度は帰ってきます」
 なんと答えたらいいのかわからなくて、「そう」とだけ返した。レポリィドを信じていないわけではなかったが、なんだかそのままいなくなってしまうような気がした。
 センザウンドの執務室の前に着き、ノックをしようとすると向こうから開いた。引き戸でよかった。
「おや、おはよう。シェファード君が中で待ってるよ。クニヒト君、まともに顔、合わせられる?」
「会っておきたいです」
「そんな喧嘩腰に。まあいいよ、私はちょっとラフレシアを摘んでくるから、中で話しておいで。私が戻るまでに殴り合いは終わらせておかないと私の責任問題になるからね。知ったことじゃないなら存分に殴り合ってね、ただプロレスルールでお願いね。じゃあ」
 センザウンドと入れ違いに、フラットコートとレポリィドは部屋に入る。
「おはよう」
 腰掛けているシェファードは肩まであった髪を若干切りそろえていた。長めではあるが、まとめなくていい長さだ。
「クニヒト」
 レポリィドが困ってシェファードに声を出した。シェファードが「おいで」と立ち上がり、両手を広げると、レポリィドはフラットコートを窺う。フラットコートが頷くと、その腕の中に駆け寄った。
「クニヒト……」
 「昔みたいだ」と、シェファードの腕の中でレポリィドが呟くのが聞こえた。髪のことかもしれないし、しぐさのことかもしれなかった。
「シェファードさん」
「なんでしょう」
 フラットコートが呼びかけると、柔和な雰囲気の返事が来た。
「生きていてくださって、何よりです」
「いえ、死んでいないだけです」
「それでも、何よりです」
 シェファードは困って笑った。フラットコートは気付く。柔和なのではない。何もかもを、何とも思っていないのだ。そこには攻撃性も、親和性も、何もない。何もないことだけがある。
「クニヒト、どうして入院してたの」
 レポリィドが普段よりも幼げな口調で訊ねる。
「ちょっと怪我をしたんだ」
「ほんとに?」
「レポルはどんな答えが欲しいんだ?」
 レポリィドは少し悩んで、「詳しい答え」と言った。
「そうだな……好きになった子と死のうとして、失敗した」
「失敗したの、嫌なの?」
「嫌だけど、嫌なのをレポルに治してほしいから、ここに来た」
「僕がクニヒトのために、やっと何かできるんだね」
 レポリィドはシェファードの背に手を回して言った。「がんばる」と続ける。
「じゃあ、フラットコートさん、レポルをお借りします」
「大事にしてあげてくださいね」
「もちろんです」
 シェファードは「フラットコートさんはお優しいんですね」と笑った。
 そこでノックが響く。開いたドアからセンザウンドとウェルシュが入ってくる。
「おはよう、レポリィド君、クニヒト君」
 ウェルシュがおっとりと手を振った。
「全員そろったよね。じゃあ話を始めよう。私はいまウェルシュ先生のところのナースに下痢止めをもらったからもう何も怖くない。下すと心細くなってだめだね、君たちも下痢止めは財布に入れておくといい、紳士のマナーとどちらがより重要かわからないくらいだ。さて、じゃあ解散!」
「センザウンドさん、せめて指示をくれませんか……」
 呆れて呟いたのはシェファードだった。
「んー? シェファード君の治療をレポリィド君がして、ウェルシュ先生が補佐する。クニヒト君は一日オフ。何か問題があるかい?」
「それを言ってくださらないとわかりませんよ」
「うん、今言ったからわかったろう? 解散解散、質問は受け付けるけど私はノルマが終わったら下痢止めをくれたナースのところへ行きたいんだ」
 シェファードは『わかったわかった』というように軽く何度か頷いた。
「じゃあ行こう、レポル、ウェルシュ。フラットコートさんも、また明日」
「ええ、また明日」
 言われた通り、解散する。
 「また明日」とレポリィドがフラットコートに言った。
 フラットコートは部屋から出て、端末のベルナルドの連絡先をつつく。

Copyright(C)2017 Maga Sashita All rights reserved. designed by flower&clover
inserted by FC2 system