犬よ兎を喰らうがいい

第八章 犬よ、兎を喰らうがいい【上】



「あークニヒトさーん!」
 シェファード達が二課に到着すると、かつてシェファードが居たチームの四人が顔をそろえていた。
「クニヒトさん! 助けてください! じ、実け、験用ウサギが……ええと、実験用ウサギが」
 コリー、クニヒトに懐いていた男だった。シェファードが落ち着かせる。
「落ち着け、コリー」
「ほらーコリー君怒られたーやーい」
「やーい」
「やーい」
「なんだよ! いくら実験用だからって可哀想だろウサギが! 俺が手塩にかけて世話をしてきたウサギが! 娘も可愛がってるんだよ!」
 相変わらずの雰囲気を保った職場のようだった。
「クニヒトさん、ちょっとこれ見てみてください、なんか変なんですよ」
「ちょっとー今俺がクニヒトさんと話してるのに!」
「クニヒトさん、あの、この反応、何かに使えませんかね? ちょっと僕、考えがあるんですが」
「あっあっみんなひどい、俺がウサギの話したいのに」
 シェファードはぷっと噴きだした。
「あークニヒトさんも笑った! ひどい!」
 そこでセンザウンドが軽く手を二度叩いた。パンパン、と、音がする。
「シェファード君、最後の仕事、やってくれるね?」
「……ええ」
「入社試験受け直したら帰ってきていいからね。だからそんなに泣かないで」
「泣いていません」
「はいじゃあみんな、お仕事だよ。レポリィド君は最初に実験室に入ってもらおう、コリー君、実験室に案内して中で一緒に待ってて」
「えっ俺でいいんですか」
「君がいいんだよ」
 コリーはぱっと顔を輝かせ、「行きましょうレポリィドさん!」とレポリィドを連れて部屋を出た。
 足音が遠ざかり、実験室のモニターに二人の姿が映る。
「さて、シェファード君。実験は、会話の中のレポリィド君の声についてだ。何か特別なことがあったら教えてほしい。私とクニヒト君は別室にいるから、分析してみて。きっとなにかある。頼んだよ」
「わかりました」
 シェファードは研究者の眼差しを取り戻していた。
「わかり次第、お伝えします」
「うん。じゃああっちの談話室にいるから、端末で呼んでくれれば。それじゃあね」
 フラットコートはセンザウンドに引っ張られ、談話室に連れて行かれる。
「……あの」
「んー?」
 談話室に着いたフラットコートがセンザウンドに声をかけた。
「何がわかるんですか?」
「うん、分析を待とう」
「そう仰らずに」
「フラットコート君も言うようになったね。うーん、そうだな、レポリィド君の破壊行為は音域によるものであることは知っているね?」
「ええ」
「フラットコート君、イコライザって言ったね?」
「はい。……あ」
「そう、またレポリィド君の声が変質した可能性がある。普通の声になったのかもしれないけれど、もしかするとまた別の方向に特化した声になったかもしれない。シェファード君の容体の話はしたんだっけ?」
「いえ、まだ」
「そうか」
 センザウンドは少し言葉を探した。
「瀉血ってわかるかい?」
「しゃけつ、ですか」
「知らないなら知らないでいいんだけれど。注射針で血を抜くんだ。もともとは病気の治療法なんだけど、自傷行為でする人が増えてるみたいだね。おっと、ここで吐かないでね。この話は終わりにしよう」
 顔を真っ青にしたフラットコートに、センザウンドは話を終わらせた。煙草に火をつける。
「それで、死にかけるほどシェファード君は血を抜いたわけだよ。そのあと入院して、女医がついていたんだけれど、報告だとかなり精神的にも弱っていた。死にたがり、といえばそうなんだけど、死にたがりには死にたがりなりに理由があるものだ、っていうのはわかるね? 彼は、れっきとした病人だよ。健常者が血を抜いて幸せを感じると思うかい? おっとここで吐かないで、この話は終わりだからね。そんな彼が、いちにちレポリィド君と過ごして、何かしようと思えるほど回復したのは恐ろしいまでに不自然だ」
「レポリィドの声に、ひとの病気を癒す力がある、と?」
「シェファード君がそう報告しない限り、憶測でしかない。でも、なんだかそんな気がしない? かつて愛した者と決別することで、かつての力が使えなくなる。ありふれた話で、ありふれるためには、ありふれる理由がある。そうだったら、レポリィド君はもう、怖い思いをしないで済むかもしれないね」
 センザウンドもセンザウンドなりに、レポリィドを飛び降りさせるのに思うところあったのかもしれない。
 タイミングよく、センザウンドの端末が呼んだ。
「じゃあ、その結果が正しいか訊きに行こうか」
 シェファードの出した結果は、面白いほどセンザウンドの読みの通りだった。会話をすると、相手を安定した気持ちにさせる効果があるらしい。モルモットになったコリーが嬉しそうに「ほんわかするんですよー」と言っていた。アルファ波がどうのと言われたが、脳波の話はフラットコートの専門外だった。まだブーストがどうのという話のほうがわかる。それが顔に出たらしく、『まだ医療が明らかにできていない領域』とシェファードにフォローされてしまった。そして、もう不自然な音域のブーストは起こらないらしい。
「じゃあレポリィドは、もう戦力となることはないんですね?」
 フラットコートが安心してシェファードに言った。「そうでしょうね」と彼は笑った。以前よりも笑顔らしい、明るい笑顔だった。
「でも、僕もどこかに所属しないと生きていけません。普通に求人を探すほかにないんでしょうか。一般兵に編入しようとしても、僕は体ができていませんし」
 レポリィドが遠慮がちに言った。「僕が養う」と宣言しようとすると、センザウンドが「シェファード君のバーに勤めなよ」と爆弾を落とす。フラットコートは思わず大声で訊き返した。
「だって変に一般の企業に行くよりもいいと思わない?」
「だからそこは僕が」
「レポリィド君が所属したいって言ってるわけだよ。フラットコート君はシェファード君の話になると殺気立つね、大丈夫、シェファード君だって人間だよ、確かに元彼氏だけれど」
 そこが問題なのだ。
 そんな呑気な話をしていると、突然警報が鳴った。二課に複数の侵入者。
 周りが端末を確認しているうちに、センザウンドがシェルターの用意をした。仕事の速い男ではある。
 フラットコートは袖のナイフを取り出して、切っ先を見つめる。自分ならば、勝てる。言い聞かせ、部屋をセンザウンドに任せる。自分は廊下に出た。
「手をあげ……」
 最後まで言わせない、ナイフを投擲してひとり。
「爆破……」
 言わせない。テロリストの体に巻きついたダイナマイトの導線にナイフを穿ち、着火を困難にしながら仕留め、ひとり。
 最後、爆破装置であろうコントローラーをいじっている輩の手めがけて刃が光る。取り落されたコントローラーを見ると、既に信号は渡っていた。
 どこだ。どこだ。
「はーい鮮やか」
 センザウンドの声がし、警報が止まる。センザウンドが配線の切られた爆弾を指にひっかけ、くるくる回しながらフラットコートを止めた。
 爆破装置の在り処は最初に仕留めた輩が吐いたらしい。センザウンドが訊き出したのだろう。この上司は何があっても敵に回してはならないのだと改めてわかった。
「フラットコート!」
 レポリィドの声がする。シェルターから這い出て、こちらへ来ようとしている。
 お約束、そこを狙った残りのテロリストが発砲音を響かせるが、レポリィドもわかっている。シェルターの中にあったのであろう銃で応戦し、仕留めた。
 しばらくの沈黙があり、侵入者たちがお縄になってセンザウンドに連れて行かれる。まだ気は抜けないが、いったん区切ってもよさそうだ。
「よかった、フラットコート、行っちゃうから、心配した」
「ごめん。でも、初めてレポリィドのために何かできたかもしれない」
「いつも、フラットコートには助けられてばっかりなのに」
「フラットコート……?」
 怪訝そうな顔をするのはコリーだった。
「フラットコート、やっぱりそうだ、お前! お前! ライカを振った男だな!」
 何事だろう。よくよく見ると、
「ライカのお父様……」
「気安く娘を呼ぶな!」
「ご、ごめんなさい」
「もう! ライカがどんな思いだったか……ふん、でもな、もう結婚が決まったんだよ。お前は式に来るな!」
「えっ」
「フラットコート、行きたいの?」
「いや、その、」
「ふん! レポリィド君と幸せになんなさい! ライカとは関わるな!」
「わ、わかりました」
 センザウンドが部屋に首だけ出して号令をかける。
「ほらそこー喧嘩しない! 締めるよ! 騎士よ兎の誠実に感謝を!」
「騎士よ兎の誠実に感謝を!」
 全員で復唱した。綺麗に揃った。
「よーし久々に定時で帰れるー」
 医務開発課のメンバーが伸びをしながら言った。
 シェファードがハッと顔をあげて、「みんな」と呼んだ。
「軽い礼をしたい。俺のバーに来ないか? まだ動力は止まっていないはずだから、冷凍庫の中と酒は無事だろう。もし来られるのなら、ぜひ来てほしい」
 一室がわあと沸き立つ。
「フラットコート、行っていい?」
「折角だし、行こう」
 答えると、レポリィドはとても嬉しそうにした。
 そして狭いバーできつきつになりながら、楽しくみんなで酒を飲んでいる。まさかこんなにきつきつになると思わなかったので、ベルナルドも呼んでしまった。暑苦しい。
「お得意様中のお得意様ですね、ベルナルド様は」
「そうですねー、あれですよ、俺もシェファードさんを応援してるんで。なんならこのバーに非常勤したいくらいです」
「お願いしたいところですね」
 ベルナルドはプロのセラピストだ。つい、シェファードは現状を彼に話した。レポリィドと話してだいぶ楽になったが、付きまとう空虚感の相談事だ。
「んー、恋愛って、つらいものなんじゃないですかね、シェファードさんには。俺もしばらーくフリーですけど、悪くねえもんですよ? なんかね、俺はだめなんすよ、恋情っていうのが、重たすぎて。フリーでいるのが向いてるっていうか。でもフラットコートみたいに、友情としてそばにいてくれる奴もいますし、それで別段問題ないですし。シェファードさんは人に好かれますから、大丈夫です。何なら俺が第一号になりますよ、後ろ暗くない、友情の」
「そういうものなんですね。レポリィドに嘘を教えてしまった」
「差支えなければ、なんて?」
「傷つかないために愛さないのと、傷ついて愛し合うのと、どちらがいいのかと訊いてしまったんです」
「訊いただけなら、答えは自分で探すもんですよ。いいんです、思ってるほど眼前暗黒感は長く続きませんよ、立ちくらみですから。ははは」
 酔っているのかいないのかわからないベルナルドに、シェファードも笑い声をこぼした。
「フラットコート、僕あれやりたい」
 レポリィドはカクテルを作るシェファードを遠くに見ながら、テーブル席の壁際でフラットコートに護られていた。向かいではセンザウンドがうつらうつらと舟をこぎながら冷凍フルーツ盛り合わせをつついている。五人前か六人前かありそうだったので、レポリィドもたまにフォークを伸ばしている。
「レポリィド、本当にここに勤めるの?」
「フラットコートがだめっていうなら、しないけど」
「だめじゃ、ないけどさ……」
「心配してくれてるの?」
「うん、すごく心配」
「シェファードとは、もうなにもしないよ?」
「んー、信じないわけじゃないんだ。だけど心配なものは心配でさ」
 レポリィドは少し言葉を選んだ。
「僕が前に好きだったのは、クニヒトで、僕が今好きなのは、フラットコートだよ。シェファードは、なにもないよ」
 フラットコートが名前で悩んでいたのを知っていたのだろうか。
「クニヒト、って、何だったんだろうな」
「なんだろうね。でも、フラットコートがクニヒトになってくれた。だから僕はフラットコートと仲良くなって、僕は今、フラットコートと居られて幸せだよ」
「あんまり悩まず役職名だって割り切ったほうがいいのかな。レポリィドが好きって思ってくれるなら、僕はなんでもいいかなって最近は思うよ」
「前は思わなかったの?」
「ちょっと前までは、レポリィドにどっちで呼ばれたいか真剣に考えてたよ。でも、呼んでる中身は一緒だもんな。英語で呼ばれてもロシア語で呼ばれても僕は僕だっていうのと同じことなんだろうな」
 前の席でとうとうセンザウンドがこうべを垂れてフォークを休めている。
「ふうん。難しいこと考えてたんだね」
「難しく考えすぎたみたいだ。ん、レポリィド、ちょっと外に出ない?」
「一緒に行っていいの? 行く」
「気を付けて帰るんだよ」
 沈没したと思った向かい側から声が聞こえたので体が跳ねるほどびっくりした。センザウンドがいつの間にか目を覚まし、フルーツをつつき直し始めている。このラウンドはペースが落ちない。そんなことをしているとまた腹を下すのではなかろうか。
「シェファードさん、あの、ご馳走様です! また来ます!」
「ええ、今日はありがとうございました」
 カウンターでシェファードが笑った。ずいぶん笑むようになった。元気になってきているのだろう。レポリィドに働いてもらう職場のオーナーとして見ても、充分な頼り甲斐を感じる。
 寮までの短い道のりを歩く。レポリィドの手を取る。温かい。
「今日は飲まなかったの?」
「うん。外では飲まないようにしてる」
「そうなんだ、大変だもんね」
「フラットコート、いじわる」
 レポリィドが楽しそうに笑って鼻歌を歌っている。
「あ」
「ん?」
 レポリィドの鼻歌がやむ。何も起こらない。
「本当に、もうレポリィドは鼻歌を歌えるんだ」
「そうだよ、もう声は我慢しなくていいから、あの、ね、今日は、思いっきり、してほしい」
「声、我慢しなくていいんだろ」
 だんだん小さくなっていった声をからかう。
「痛かったら痛いって言ってね。僕も遠慮なくいただくからね、約束通り」
「はい! 僕もフラットコートと一緒に遠慮なくする!」
 レポリィドの元気な語尾は初めて聞いた。

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