犬よ兎を喰らうがいい

第一章 騎士よ、名乗りを上げるがいい【下】



「もうそんなに酔ってるのか」
「お前も飲めよ、鼻血出ねえ程度に」
 フラットコートの鼻血騒動は大っぴらなものになってしまったようだ。偉業だと言っていた上司を信じ、勲章だと思うことにする。
「シェファードさん、爽やか系ひとつー」
「はい、ただいまお持ちします」
 バーの店主はシェファードというらしい。彼はなんとなくクールな印象だ。視界の横に入る暑苦しいベルナルドのせいかもしれない。彼の髪は真っ赤なのだ。
「マスター、じゃないのか」
「できるだけ名前で呼んでほしいって規約にあんだよ」
「へえ」
 なにかこだわりを持つ店主なのだろう。
「でさ、ライカが新しい男を作ったらしいぜ。お前の後釜だな」
「ああそう。お前、その話好きだよな」
「他人の不幸だもんよ楽しいぜ」
「その男は霊感はあんの?」
「そこまでは知らねえよ。でもお前にこれだけは伝えねえとなと思ってさ」
 ライカは霊感が強かった。フラットコートの熱烈な一度目の告白のときに「あなたと定期的にまぐわうとして、それをご先祖に見られるのは抵抗があるの」と言い放ったのは伝説だ。
 「お待たせしました」とシェファードがカクテルを持ってくる。ベルナルドのその話をおとなしく聞いているのが億劫だったので、一気に飲み干す。すっきりとした気分になった。
「おいしいです」
「ああ、ありがとうございます」
 シェファードはにっこりと笑って奥に引っ込んだ。よく見ると麗しい男だ。バーなど持って大丈夫なのだろうか。酔っ払いが好んで絡みそうな顔立ちをしている。
 フラットコートは早くも酔い始め、「シェファードさん、濃い奴ください」と自分で頼んだ。ベルナルドが「ほどほどにしておけよ」と笑っている。
 そこでフラットコートの端末が呼ぶ。ベルナルドに断り、通知を開くと、センザウンドからだった。
『フラットコートによる、二代目Knightの襲名を告ぐ。って言えって言われた。詳しくはわからんだろうから私を見つけて教えを乞うてね。結構オープンな情報だから誰に自慢しても大丈夫だよ。おめでとう』
 いまいち意味が分からずフラットコートは黙りこくる。「何メッセ?」とベルナルドが訊ねた。
「通知メッセ」
「何の?」
「いや、ナイトの襲名がどうたらって」
「ナイト? ……ああ」
 ベルナルドはニヤニヤと笑った。
「ニュース見ねえの、クニヒトは?」
「クニヒト?」
 クニヒト。存在すらトップシークレットなのではなかったのか。大体襲名とはなんだ。僕がクニヒトに名前を変えるのか。そもそもなんで僕なんだ。いろいろな疑問符がアルコールまみれの脳を飛び交い、またフラットコートを黙らせた。
「今日からお前はフラットコートじゃねえんだ。お前はクニヒトとして生きるんだよ」
 そっと訪れたシェファードが静かに、氷の浮かぶ透明なグラスを置いて去っていった。
「Knightの、ちょっと昔の、そうだな、中英語期辺りの読み方でクニヒト。新しい役職であり名前だ。で、だ。俺の親友は新しい地位で任務を任される大出世を果たしたわけだ!」
 出世したらしい自分より嬉しそうな親友を眺めながらグラスを傾ける。喉が焼けて心地良い。心地よくても咳は出る。
「げほっ、でもクニヒトは医務開発課だったろ? 僕に医務開発やれって言ったって無理だし、そもそも接点がない」
「俺に言われたって困る。顔とか似てんじゃねえの?」
「結局世の中顔なのか!」
「うん、まあ、うん、お前、酔うと泣き出すよな、でももうちょっと待て。な」
 その言葉に従うように混乱がおさまり、涙も感情も落ち着いてきてひゃっくりをし始める。
「で、真面目な話をすると、お前は最上階で会ってるんだよ、クニヒトの最愛に」
 最愛。レポリィドとやらか。横隔膜が痙攣の返事をした。
「クニヒトがいなくなってから、その最愛が戦えなくなって困ってたって聞いたぜ。繊細なもんだよなあ、ひとりに振られたからって全世界に振られたわけじゃねえってのに」
「……なんかわからなくもないけど」
 その破局に見ず知らずでも共感してしまう事象は、ヒトに与えられた恋というものの優しげで雄大な権力を語る。
「ああ、お前も傷心なんだったな。ライカは惜しい魚を逃したよなあ、こんな大出世するんなら、あのお人形さんみたいな顔が泣いて喚いて『別れないで!』って言ってくれたかもなあ。今頃きっと後悔してるぜ」
「あんないい子が後悔なんてするのは不条理だ! ライカが後悔するくらいなら僕はクニヒトになんかなりたくない! うっ、ひぐ、ライカ、ごめん、ライカ、ライカ」
 ぶー、と鼻をかむ。鼻血の残滓がティッシュを染めた。
「あのな、振ったのお前だからな。とりあえず泣きたいなら付き合うけど、お前は二代目クニヒトとして初代クニヒトの最愛の好感度アップを狙っていくべきだと俺は思うわけだよ。そこで! この美味い美味い鮭とばをお前にやる! だからこれから頑張れよクニヒト、俺の大事な親友!」
「ベルナルドーううぅう、ぐ、ひっく」
「この鮭とばで落ちない男はいないぜ! これからもよろしくな、クニヒト!」
 ベルナルドが熱弁を終え、フラットコート、いや、クニヒトを見やると、彼はひゃっくりをしながら眠るという器用な真似をしていた。
「お困りですか」
「あーあの、シェファードさん、会計頼みます……」
 お前の昇進祝いだぞ、と、ベルナルドはクニヒトを背負って帰る覚悟を決めながら財布を探った。シェファードがタクシーを手配しようとしたがそこまでの所持金はなかった。ツケでいいとも言われたのだが、いつ払えなくなるかわからない身の上なので、と建前をかざして財布を閉じた。鮭とばが高価だったのだ、察してほしい、クニヒト。
 さて翌日、二代目クニヒトとしての生活が始まった。実感がわかない。最早、クニヒトとは何だろうかと考え始めてしまう。導いた答えはどれも非生産的で抽象的、そしてありふれたものだった。二代目クニヒトは『そういうものだ』と考えを断ち切ることにした。
「やあやあおはよう。さて、クニヒト君としての初任務だよ、レポリィド君を見つけて連れてきて。どこにいるかは自分で探したほうが楽しいよね。そのままテロの元凶の基地に出撃するから鼻血を出さないように気を付けてね。今度はちゃんとした任務遂行の連絡を待っているよ。いっておいで」
 センザウンドはまた人のよさそうな笑みを浮かべて手を振った。白髪の混じりつつあるブロンドの髪をセンス良く使いこなす男だ、と、クニヒトは返事の息を吸うコンマ数秒のうちに考えていた。
 この上司に初代クニヒトについて訊ねると、幾つかわかったことがある。
 初代の偉業を讃えると銘打ち、初代の本名『クニヒト』に字をあてたKnightという役職を作ることで、初代を捜す気がなくなったと上が表明しているということ。センザウンド曰く、出てくる気がないなら要らない、お前の代わりは幾らでもいる、という負け惜しみだという。『だから初代をせいぜいと嘲笑ってあげてよ』とその上司は言った。
 それに伴いトップシークレットは打ち消されたこと。代わりにクニヒトの画像や所在、権利などはオープンなものとなり、二代目クニヒトに差し替えられるらしい。『アダルトビデオを見るのも気を遣う立場になったわけだよ、あんまり言うとセクシャルハラスメントになるからちょっとしか言わないけれど、私は胸の肉付きのいいナースが好きだからお勧めがあったら教えて』などと言われた。
 それはそうとして「承知しました」と残し、クニヒトは任務のため真っ先に屋内運動場を目指した。出勤の際に、屋内運動場の辺りであの音、声だろうか、そんなものが聞こえた気がしたからだ。
「んー、クニヒト君は適職かもね、大抵の人間は、レポリィド君の攻撃範囲には本能的に入りたがらないんだけれど。私の教育がいいんだろうなあ」
 たどり着いた屋内運動場は鍵がかかっていた。辺りは静かで、しかしながら、なんとなくこの前の嫌な感覚を思い出させられる。人気はない。扉を思い切り蹴ると開いた。派手な音がしたが相変わらず人気はない。扉から嫌な感覚が一瞬大きく襲いかかるが、すぐに止んだ。
 そして、光の差し込んだ屋内運動場のマットの上に、クニヒトを眺めながら横たわる影があった。影の周りに群がっていた、クニヒトを認めた野良猫たちが散り散りに去っていく。
「フラットコート、さん……?」
 名乗らなかったはずだが、ついこの前までクニヒトの名であったものを調べて覚えてくれていたらしい。鼻血を垂れ流して寝こけていた間だろうか。
「レポリィド様ですね。クニヒトです、こちらへ」
「クニヒト……?」
 困惑よりも、寂しさのにじむ声だった。
「ええ、昨日襲名しました」
「そうですか」
 青年、もといレポリィドは寝返りを打ち、クニヒトに背を向けた。印象より大人びた背だった。
「クニヒト、隣に寝てくれませんか」
「……承知しました」
 袖に仕込んだナイフを確認して、クニヒトはレポリィドのほうを向いて隣に寝転がる。
「よくここだってわかりましたね」
「昔、音楽をかじっていたので、耳は自慢なんです」
「僕の声、嫌じゃないんですか」
「普通に話されているときは、魅力的な声だと感じます」
「そうじゃないときは」
「死ぬかと思いました」
「死ぬかと思ったら僕を殺しますか」
「無論です」
 クニヒトは大抵あけすけに物を話す。大抵好かれる癖のはずだが、今はレポリィドはクニヒトに見せず涙を伝わせた。レポリィドの涙を拭うのは今のクニヒトでは何をしても無理だろう。
「あなたが死んでくれればあの人はクニヒトでいられたのに」
「帰りましょう、レポリィド様」
「帰ったら何をしてくれますか」
「もう少しましな布団があります」
「それはいいことですね。ほかには?」
「Knightについてお話したいこともあります」
「そうですか。しかしながら本当に嫌なにおいですね」
「ずっと煙草の中に居たもので。申し訳ありません」
「いえ、この猫の毛まみれのマットです」
 そこまで一気に会話した。腹の探り合いはしばらく続くだろうが、ひとまず帰ってはくれるようだ。
「もし」
「どうなさいました」
「疲れたので、適当に運んでください」
「承知しました」
 レポリィドを背負う。肩にぬるい液体を感じ、彼も鼻血でも出しているのかと見やる。ようやっとクニヒトは、レポリィドが涙を流していたことを知った。レポリィドは涙が気管に入ったのか、咳をする。
「これから出撃だそうですが、大丈夫ですか」
「ええ。僕はクニヒトについて散々わがままを言ったので、もう」
 クニヒトは背中の温もりを何度か背負い直し、歩き出した。
 背中で、レポリィドはとつとつと話し始めた。返事を求めない、夢で見たストーリーの概略を説明するような話し方だった。
 初代クニヒトが好きだった歌を歌いながら、初代クニヒトを捜していたこと。
 初代クニヒトとの思い出の場所を、ずっとひとりで巡っていたこと。
 ひとりで居たのは、鼻歌でさえ周りに影響を与えてしまう声ゆえであること。
 歌うと気分が高揚するが、自分の気分が高揚すればするほど、声の影響は鋭くなること。
 そして、クニヒトが来てくれて嬉しかったこと。
「クニヒトが来てくれました。僕を置いて行ったクニヒトが、わざわざ」
 自分に言い聞かせているようだった。
 できるだけ良質なベッドをと思い、医務開発課にレポリィドを連れていく。ナースに事情を話すと、『オーヴィス』の名札を付けた若い白衣の男が来る。清潔で頭もさぞ回るのだろうという印象だが、どことなく柄が悪い。
「おい、出撃が一時間後だぞ、ア? 栄養、点滴すっから、五十五分眠り給え、いいな、オ?」
「はい。ありがとうございます」
 真っ白なベッドに横になったレポリィドの静脈に針が刺さる。うっかりそれを見てしまったクニヒトは気分が悪くなった。注射の類は苦手なのだ。青い顔をしていると柄の悪い声がクニヒトを呼びとめる。
「てめえは彼を見ていてくれ給えよ、わかったか、ア?」
「承知しました」
 オーヴィスが引っ込み、レポリィドはすぐに寝付いた。もしかすると不眠不休で初代クニヒトを捜していたのかもしれない。
 あまりに綺麗に眠るものだから、クニヒトまで眠くなった。眠気に任せて意識を失い、レポリィドの布団の足元に顔から突っ込んで伏していると、揺さぶられて目が覚める。
「行きますよ、クニヒト」
「……ああ、はい、ただいま」
 寝ているうちに時間になっていたようだ。ノックが響く。
「一秒後に入るよ、いかがわしいものは仕舞ってね。……はい、どうもこんにちは。レポリィド君は久しぶり、心配したよ。クニヒト君もそろそろ出るよ。クニヒト君は任務完了の連絡を入れるようにしてね、あのニッチな挨拶を言いたくないのはわかるけれど。レポリィド君は喉はどう?」
 センザウンドだった。
「好調です」
「なにより。さて、作戦概要だけれど、私がヘリを運転するから、レポリィド君はいつも通りに殲滅して。クニヒト君はこういった作戦は初めてかな?」
「然様です」
「いろいろ戸惑うかもしれないけれど、『そういうもの』だから落ち着いて対処してね。レポリィド君がまともに働く限り、勝利の女神はニヤニヤしている。さて、行くよ」
 センザウンドが個室の扉を開け、外から仰々しい鎧を運び込む。見たことがない形だ。硬い手触りで、全身を、関節まで覆う鎧だった。顔の周りは透明でゴーグルのようになっている。
「レポリィド君はわかるね? クニヒト君もしっかりこれ着て。危ないから」
「はい」
「あとレポリィド君と、もっとフレンドリーに話してあげて。仲良くやろう」
「はい」
 「頑張ろうな」とクニヒトがレポリィドに笑いかけると、彼は恥ずかしそうに、嬉しそうにした。
 そしてヘリに乗り込む。どう見ても爆撃機ではないようだが、殲滅が目的だったはずだ。
 疑問に思っていると、乗降口が開く。
「じゃあ、レポリィド君、いつも通りにね!」
「はい!」
「ちゃんと、地面に着くまで、声、出すんだよ!」
 ヘリの轟音の中なので、一言一言区切って話が進む。しかしながらクニヒトは蚊帳の外だ。
(僕が来る意味はあったのか?)
 レポリィドが乗降口の近くに立つ。いやいや、待て、いくら鎧を着ていてもこの高さから落ちたらトマトだ。
「クニヒト君!」
「は、はい!」
「レポリィド君を、応援してあげて!」
「はい!」
 なんと応援したものだろう。
 センスがないのは承知で、「僕が、ついてるよ!」と叫んでみる。レポリィドが笑ってくれた気がした。失笑だった気もする。
 レポリィドがゴーグルの下に奇妙なマスクを装着し、ヘリから飛び降りた。乗降口が閉まる。影がどんどん小さくなる。
 言葉にならない困惑が頭を駆け回り、数秒呆気にとられていると、鳥肌が立つ感触がしてヘリが揺れる。センザウンドを窺うと、口が「問題ない」と動く。何がどう問題ないのだろう。混乱で自分の思考すら言語化できない。
 二十秒ほどは経ったろうか。辺りが静まった。鳥肌も治まる。「クニヒト君、降りるよ!」と声をかけられて下を見ると、たくさん基地があったはずなのに瓦礫の山と化している。
 本当に意味が分からない。レポリィドが何かしたのか? その思考に行き当たるまでにまず時間がかかったし、『何かした』というのが何を指すのかは理解できないままだった。大きなくしゃみでもしたのだろうか。ナンセンス、ここはそのような魔法の国ではない。
 センザウンドの運転でヘリが適当に着地した。久々の無音に耳が喜んでいる。
「さて、クニヒト君、任務だよ。瓦礫の中からレポリィド君を見つけて」
「は……」
「わからない?」
「はい、わかりかねます」
「そう。今朝はなぜわかったんだい?」
「寮から来る際に彼の声がしたのを覚えていたので」
「そうかあ。クニヒト君ならレポリィド君の探知ができると思ったんだけれど。仕方ない、ちょっと待ってて」
 センザウンドはヘリに戻り、端末をひとつ持ってくる。
「これでレポリィド君に連絡をとるよ、これをやるとすごい音がするし、この端末も壊れるけれど、レポリィド君の増幅させられたままの声が聞こえるから、その声がした場所の瓦礫をどかすよ」
「それなら、できるかもしれません。お任せいただけますか」
「本当かい? 助かるなあ、私はレポリィド君のことは好きだけれど、あの声だけは慣れなくてね。じゃあ、ヘリの中で耳栓をして待っているから見つかったらトントンして。お願いするよ」
 センザウンドがヘリに乗り、耳栓をしたのを確認して、クニヒトはレポリィドの鎧の端末を呼び出した。
 呼び出し音が三度鳴り、通じる。
「レポリィド?」
 瞬間、ものすごい音がした。鼓膜は何ともないが、脳が軋むような音だった。端末がキャパシティを超えた音域にぱきりと壊れる。着込んだ鎧が空気の、微細であり激烈な振動からクニヒトを護る。音はクニヒトの数歩後ろで聞こえたはずだ。
「レポリィド! いま行く!」
 瓦礫を必死にどかしていく。人の手が見えた。血塗れだ。
「レポリィド!」
 手は動かない。急いで壁だったもの、柱だったものをどかしていく。裂傷だらけのその腕の持ち主の顔が見えた。
 しかしレポリィドではない。
「レポリィド!」
 その死体が動いた。
下にレポリィドがいるかもしれないということにようやっと思い当たり、ゾンビ映画の幻惑を落ち着かせて死体をどかす。
 案の定、レポリィドが下に居た。鎧は所々ひび割れ、装着しているゴーグルの透明な部分には涙であろう液体が散っている。
「レポリィド! 大丈夫か!」
 レポリィドの震える指が、クニヒトが伸ばした指先の鎧の上を滑る。混乱した頭が少しずつ回転を取り戻してきていた。きっとレポリィドは、恐怖か、怯えか、自責か、とにかくあまりよいものでない感情が満ち満ちて涙しているのだろう。少なくとも歓喜の涙でないことは確かだった。
 あまりに痛々しくて、クニヒトはレポリィドを掻き抱いた。クニヒトも知らず涙ぐんでいた。鎧が邪魔で少し痛いくらいだったが、そうせずにいられなかった。レポリィドは指先だけでなく、体ごと震えていた。
(なんてことさせるんだよ……僕が止めてあげられればよかった、こんな作戦)
 しかしながら抱擁は二秒と持たなかった。レポリィドから離れたのだ。彼は震える手でマスクを外し、嗄れた声で「クニヒト」と呼んだ。ゴーグルの辺りに溜まっていた涙が頬を伝う。
「いつもこうなのか?」
「はい。僕は声で物を壊します。ヘリから落ちて、マスクの特殊な拡声機能を介した悲鳴で基地を壊します。僕の声は通信機器の電波のかく乱も起こすようで、ここは陸の孤島になり、殲滅完了です。音圧で落下の衝撃は受けません」
 レポリィドの涙が止まらないが、拭うには二人おのおのの手の鎧が邪魔だ。流れるままに、足元の瓦礫に水玉模様を作っていく。あまりにもどかしかったが、どうしようもない。
「帰ろう、レポリィド」
「はい……あなたは、クニヒトは、レポリィド、って呼ぶんですね。新鮮です」
 少し笑ったレポリィドの足取りは存外しっかりしていた。経験の長さを物語るようで、かえって胸が締め付けられた。
 ヘリに戻り、センザウンドの肩を叩く。するといつもの笑顔で「うい」と意味のない声を発した。耳栓を外して煙草を処理し、彼は言った。
「ああ、お帰り、レポリィド君、クニヒト君。レポリィド君はいつも通りガスを吸ってね。鎧も重たいし脱いでいいよ。君たちはもう少しコミュニケーションをとると良いね。端末が無事なら帰り道を猥談で埋め尽くしていいよ私が許そう。じゃあ帰ろう。みんなが待ってるよ。とりあえず少なくとも食堂で用意されている人数分のご飯たちだけは私たちを待ってる」
 「はい」と端末が二人分手渡される。電源を入れてみたが、認証がうまくいかない。壊れているのかとレポリィドを見やると、彼も首を横に振った。
「あ」
 センザウンドが何かに気付き、端末を二人から取り上げた。
「ごめん、こっちだったかも」
 クニヒトとレポリィドの端末を取り換えると、すんなりと認証する。
「ごめんごめん、こっちだ。はい、レポリィド君、ガスね」
「ありがとうございます」
 小型の酸素ボンベに似たものをレポリィドが受け取った。
「うん、じゃあ行こう、私はあの不健康な香りに満ちた喫煙室が恋しい。野外もいいけれど普段は室内でしたい」
 レポリィドがガスを口元に当て、吸引し始める。なんのガスだろうか。酸素の補給でもするのだろうか。けれどそれならばガスとは言わないだろう。あんな作戦の後だ、疑心暗鬼にもなる。ひどいガスでないといいのだが。
 ヘリの羽根を回し始めた呑気な上司を放っておいて、クニヒトは席に着き、メッセージを作成し始める。何と書いたものだろう。
 レポリィドも座席に着いたようだ。表情は読めない。何か考えているようでもあったし、何も考えられないでいるようでもあった。そういえば訓練生の頃は、演習の後に周りにこういう顔の輩がたくさんいたし、クニヒトもそういった顔をしていたのかもしれない。疲れと虚しさとニヒリズムがほとんどを占めているような、達成感と似て非なるよくわからない感情が、水彩画を描いたあとの絵の具を洗う水とそっくりの色をして、思考を席巻する。
 この歳になっていかがなものかと思わなくもないが、クニヒトは、笑顔の生まれない作戦というものが嫌いだった。そうなのだが、人を殺して平気で笑う輩はもっと嫌いだったので、完全に八つ当たりだ。
 なんの八つ当たりかなど知れたことだ。自分はこの作戦に参加してしまった。人を泣かせる作戦を成り立たせてしまった。自責に苛まれ、端末に『デクノボウ』と打ち込み、すぐに消した。次に『ごめんなさい』と打ち込み、これもまたすぐに消した。次はなんと打とう。レポリィドと話すのがいいのだろう。話題を探して周りを見る。レポリィドも端末をいじっては止めいじっては止めを繰り返している。彼も何かに苛まれているのかもしれないし、そうでないのかもしれない。はたまた日記でもつけているのかもしれないし、靴屋のバーゲン情報を検索しているのかもしれない。何だっていいのだ。とにかく彼は今、端末で、涙を忘れようとしている。
 それほどの時間が経つほど悩んでいる間に、クニヒトよりも一歩早くレポリィドのメッセージが届いた。
『今日はありがとうございました』
 そんな社交辞令から始まった話は、存外深い話までもつれ込んだ。

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