犬よ兎を喰らうがいい

第二章 兎よ、しかと思い出すがいい【上】



 僕が十三の頃でした。軍人の誤射で両親が他界しました。僕も被弾しましたが、クニヒトが僕の主治医だったため助かったんです。クニヒトは僕を生かしてくれる。クニヒトは僕を愛してくれる。僕はすぐにクニヒトに懐きました。基本的に人見知りだったはずなんですが、運命とかそんな感じのものだったんじゃないんでしょうか。
「レポリィド君、君の主治医のクニヒトだよ。君のご両親は俺達じゃ助けられなかった。ごめん。でも君のことは、俺が責任を持って、代わりに面倒を見る。何でも頼ってほしい」
 その時のクニヒトの表情は慈愛以外になんと表現したらいいのか判りません。僕はそのときにきっともうクニヒトに愛されていました。次第に僕もクニヒトを愛し始めました。
 けれど、僕はクニヒトになにもしてあげられなかった。お金も稼げないし、おいしい料理もできない。そもそもクニヒトはお金に困っていなかったし、凝った料理なんて食べる暇がない。そこで何ができたか。本の片隅で見かけた、娼婦というのは、クニヒトに決定的に足りないものなのではないか。そう思って。
 関係を持つのは簡単だった。クニヒトも二十代の健康な男性だったので、夜中に性欲処理くらいする。その最中にそっと体を寄せれば、クニヒトは優しく、どうしたのか問い、そこで相手をしたいと頼んだら、クニヒトは見たことのない表情をして。
「じゃあ、お願いしようかな。経験はあるのか?」
「本で読んだくらいだけど」
「ふうん。じゃあ、俺がいろいろ教えてあげられるんだね」
 クニヒトは教えることを好んだ。「こういうのも覚えてくれる?」と、僕にたびたび訊ねた。僕はクニヒトが教えてくれるすべてのことを覚えたかった。
 慣れてきたころには、喉の奥までクニヒトを飲み込んだ時の声を聴きたいと言われたので、それから僕はできるだけ奥まで飲み込むようにした。少し苦しいくらいなんでもない。クニヒトは、何か言っても強制はしない。優しいひとなのだ。それが始まりの頃だった。
 体を開いた時のことは夢に見るくらい幸せでよく覚えている。
 クニヒトが「口でばかりさせるのも味気がないから、レポルにもお返しをしたい」と言った。
「僕のことは気にしないで。クニヒトのためになにかしたいだけだから」
「まあ、嫌ならいいよ。でも、俺もレポルのためになにかしたいな」
「嫌じゃ、ないんだけど」
 結局僕は、「寝転がっているだけでいいよ」と言いくるめられて、シャツを肌蹴させられ、クニヒトの手が、なんとなくぞくぞくする触り方をするのを感じていた。
「っふ……う、ん」
「レポル、声、我慢しないで聞かせて」
「だって、クニヒトは、声なんて、出さないのに」
「俺は意地っ張りだからいいんだ。レポルは素直だから、素直なままでいいんだよ」
 僕が口に押し当てていた右手を、クニヒトがそっとどかした。
「腕、こうして」
 クニヒトの首の後ろに腕を回させられた。なんとなく心がむず痒い体勢だった。
「レポルは本当にいい子だから、俺に何か言われるとそうしてしまうんだね。俺にしてほしいことがあったら、言うんだぞ」
 言われるままクニヒトを呼ぶと、「早速か」とクニヒトが笑った。
「僕を触ってもどうしようもないでしょ? クニヒトがちゃんと気持ちよくなること、したい」
「俺が気持ちいいことか、レポルが気持ちいいと俺もいいんだけどな」
「クニヒト」
「うん?」
 クニヒトは、少し意地悪なんだ。
「クニヒトと、セックスがしたい」
「そうか。レポルは物知りだね、どこでそんな言葉を覚えてくるんだ」
 でも、クニヒトは全然嫌そうな感じではなくて、僕をからかって遊んでいるだけだった。証拠のように、直後に「ありがとうな」と笑ってくれた。
「少し痛いよ」
 そう言って、クニヒトはいったん体を離して、大人な形のクニヒトのそれにゴムをかぶせた。そして粘度の高い液体、ローションというのだろうか、それを使って、僕の初めてを始めた。
 準備してくれていたのが、たまらなく嬉しかった。
 その上、きちんと慣らしてくれた。クニヒトは僕に脚を開かせた。恥ずかしくて、けれどクニヒトとそういうことができるのが嬉しくて、僕は目を閉じた。
「ん、あ……くにひ、クニヒト、」
「早く、っていうのはだめだからな。レポルの初めてを、痛い記憶で残したくない」
 見透かされてしまい、僕はじりじりと感じる、何なのかよくわからないけれどきっと幸せと呼べるであろうものの中で、クニヒトの指が中に入ったのを感じた。
「あ、あ、う、クニヒト、」
「レポル、どんな感じ?」
「よく、わからない……」
「そうか。だんだんわかると思うから、今日は我慢できる?」
「我慢?」
「俺、もうこんなだからさ」
 クニヒトは僕の入口に『こんな』なものを宛がった。
「いれても、いい?」
「うん、いれて、クニヒト」
 確かに少し痛かった。でも、それでクニヒトが気持ちよくなるならどうということはなかったし、それにたぶん、気持ちよかったのだと思う。
「ん、ぅん、」
「ごめん、痛いだろ」
「クニヒトは、痛い?」
「俺は痛くないよ」
「じゃあ僕も、痛くない」
 クニヒトはなぜか、少し困ったみたいに笑った。
「まさかレポルにこんなに興奮すると思わなかった。こうなるなら、あのとき、俺はレポルを助けなかったかもしれない」
 クニヒトはたまに難しいことを言うことがあった。
 クニヒトは、僕が本で読んだのよりもずっと優しく、ゆっくり僕を揺さぶり始める。
「あ……あ、う、」
「レポル、痛いのはどう?」
「もう、平気」
「ここ、触ってもいい?」
「んあ!」
 クニヒトが僕に指を絡めた。僕はその頃はまだ、まともに、興奮しているそこに触れたことがなかった。
「少し、嫌」
「うん、じゃあ触らないでおこう」
 クニヒトは僕から溢れたのであろう粘液が僕につかないように、手の甲で僕の髪を撫でた。
「ん、っは、ぁあ……」
 気付けば僕はクニヒトの動きに合わせて、でも意図するわけでなしに声を上げ続けていた。
 そして僕がこの行為というものの感覚を知り始めたころに、クニヒトはひとこと「レポル、少しびっくりするかもしれないけど」と断って、僕の中のある場所を抉った。
「っああぁ!」
「ここ、気持ちいいらしいね。レポルはちゃんとここ、気持ちいい?」
「クニヒト、それ、だめ、なんか、わからないけど、怖い」
「怖い?」
「ごめ、なさ……」
「うん、悪いことじゃないよ。怖いって?」
「変な感じ、して、よくわからなくて、怖い」
「無理は、させないけどね。少しずつ、覚えていってもいいんじゃないかな」
 その時は、まったく何のことかわからなかった。
 クニヒトはそう言って、腰を大きく使って、小数点以下何ミリメートルかの本能の遮断の中で、気持ちよくなってくれたようだった。
 僕もなんだかんだで気持ちよかったらしく、知らない間に体は高まっていた。
 けれど、誰でもするであろう『イく』という感覚が怖くて、僕は、僕を快楽の奔流から解放しようとするクニヒトに「クニヒトが気持ちよくなったなら、僕ももう気持ちよくなった」と言い張って、その日は達さないまま終えた。クニヒトは、僕の体の熱が冷めるまで隣に寝て髪を撫でていてくれた。
 でも、僕の初めての絶頂は中からの刺激だった。数日と経たないある日にクニヒトは、「いいことを教えてあげる」と、普段よりもますます大人な感じで言った。
 中の指が、この前覚えさせようとした場所をこねくり回す。段々と、クニヒトが何を言いたかったのかわかり始めた。
「あ、あっ、ん、クニヒト、ん、や、やだ、だって、これじゃ、クニヒトは、気持ちよく、ない、でしょ?」
「レポル、中、どうなってるか知らないだろ。ひくひくして、指なのに気持ちいいよ。これでレポルが気持ちよくなるやり方を覚えたら、ふたりで一緒に気持ちよくなろう」
 クニヒトの指が、中の決まったところをぐいぐいと押す。じりじり焦げるような気持ちよさだったけれど、まだイき方をよく知らなかったので、なかなか達せなかった。そこで、僕たちは初めてキスをした。
 最初のキスは、僕はほとんど何もできなかった。ただ口の中をクニヒトにくすぐられて、気持ちがよくて、鼻から声が漏れ出るのを、キスという行為の名称と結びつけられず、快楽だけ感じていた。
「んっ、んぅ、んぁぐ、ふ、ぅん、」
 息が苦しくなって、クニヒトの胸を押し返す。クニヒトは舌先を軽く吸ったあとで、離れてくれた。
「あっあ、ん、やだ、クニヒト、僕は、クニヒトに、気持ちよく、なって、ほし……」
「レポルが気持ちよくなったら俺も一緒に気持ちよくなるから、まず、イく、っていうのを覚えて?」
「ん、がんばる、ど、すれば、いいの」
「うん、じゃあ、ちょっと苦しいの、我慢して」
 クニヒトは使い慣れた彼のバッグから取り出した駆血帯を、僕の根元できつく結んだ。
「ん、あ……」
 そしてクニヒトは、僕を撫で上げる。
「ひ、ぁあっ! ク、ニヒト、クニヒト……あ、嫌、なんか、変……!」
「イくの初めてなんだね。俺に教えさせてくれてありがとう。初めてがドライっていうのも、面白いんじゃないか」
 クニヒトの話を聞いていたいのに、僕の声帯は息の通りに音を出した。
「ん、ぁあ、ふ、ひあぁっあっ、だめ、なんか、や、やだ、っく、ひ、あぐっ……あぁあっ!」
 クニヒトに与えることと知識でしか知らなかった『イく』という感覚は、初めてであることとクニヒトの愛と、そして『ドライ』と彼が呼ぶ現象で、びりびりと体を走って抜けていく。けれど液体として抜けていくことはできず、体の中で何度も痙攣して暴れまわる。
「ひ、ひぅ、ん、あ、っく、あ、」
 絶頂の間もクニヒトは指を止めず「初めてだから刺激強いだろうね」と呟く。
「ねえ、気持ちいい?」
「んっあ、きもちい、気持ちいい、クニヒト、気持ちいいっ……」
 やかましいほどの波が去ると、クニヒトはきちんと息を整えさせてくれた。
「じゃあ今度は、普通の気持ちよさも教えてあげる」
 クニヒトが駆血帯をばちんと外した。駆血帯が邪魔をしてクニヒトの指が触れられなかった根元から絞り上げられて、喉を甘い悲鳴が通っていく。
「苦しかったら言いなさい、さっきよりは楽なはずだけど」
「んう、あ、クニヒト、まだ、だめ?」
「うん? だめって?」
「一緒に、気持ち、よく、なれない?」
「ああ……じゃあ、一緒がいいかな」
 クニヒトは指を抜いて、いつも通りゴムとローション越しに僕を愛した。ローションがつかないように手の甲で髪を撫でられるのが、僕は好きだった。
 行為の後で、僕はクニヒトに言った。もっとクニヒトのために何かしたい。そのときはクニヒトはただ曖昧に笑ったけれど、機会はすぐに訪れた。
 医務開発課までクニヒトを見送りに出たときのことだ。「行ってくるよ」と医務開発課の一階でクニヒトが手を振り、踵を返した。その瞬間、危機感を煽る音が鳴り響いた。
「警報だ。レポル、ここにいるほうが危ないから、早めに寮まで帰りなさい。気を付けるんだぞ」
 言い残して、クニヒトは課に駆け込んだ。危険でも他の誰かを助けるために飛び込んでいく姿に格好よさ半分、心配半分くらいの気持ちで、僕はなかなか入口の前から帰途に就くことができなかった。
 警報は鳴りやまない。ここに居ても仕方ないな、と、やっとそこに考えが行きつき、一歩足を踏み出そうとした瞬間だった。
 入口の頑丈な扉が音を立てるほど、何かが扉にぶつかった。蝶番が壊れ、ゆっくりと開く扉の隅から白衣が見えた。僕は反射的に叫んだ。彼じゃなければいいと思いながら、どこかで彼だと知っていた。
「クニヒト!」
 僕の声は存外大きな声だった。僕の横の街路樹が倒れ、斜め前の高級車がひっくり返る。医務開発課の窓が割れ、ガラスが降り注ぐ。地面のコンクリートが割れる。正面の扉にはぴしぴしとひびが入り、やや時間がたってから脆く崩れた。
 僕は体中に裂傷があることに気付かないまま、痛む口と喉を酷使してクニヒトを呼んで扉に駆け寄った。
 扉を背にする形だったためクニヒトは声による衝撃を緩和されたようだ。意識がある。
「レポル、帰りなさいと言っただろう」
「クニヒト、ごめんなさい、クニヒト、大丈夫?」
「ちょっと脚にかすったかな。それよりもレポル、傷だらけじゃないか、何があったんだ? 爆発でもあったのか? 状況を教えてくれ」
「僕がクニヒトを呼んだら、いろいろなものが壊れて。ごめんなさい」
「レポルが壊したのか?」
「はい……ごめんなさい」
 クニヒトは驚きながら、声の嗄れた僕の頬を撫でた。瓦礫の残骸で少しざらざらした。
「どうしてそんな声を出したんだ? 前から出せたのか?」
 決して責める口調ではなかった。むしろ思い遣るような温かさを感じた。
「扉からクニヒトの白衣が見えて、心配で。クニヒト、扉にぶつかってたけど、大丈夫……?」
「ああ、少しくらくらする程度だからあとで検査を受けるよ、今は大丈夫。中に居たテロリストは扉から出ようとしてレポルの絶叫をまともに浴びたみたいだ」
 クニヒトの視線の先を見ると、僕の数歩横で本棚の下敷きになっている。意識はない。棚から落ちた本が、テロリストのものだと思われる血液の色に染まっていた。
「ひ……」
 顔を青くする僕をよそに、派手な音が立ったため人が集まり始めていた。
「クニヒト君」
「課長」
 課長と呼ばれたのは、キープアウトを通り越してやってきたショートヘアの女性だった。
「その子がレポリィド君ね?」
「ええ、ずいぶん懐いてくれています」
「クニヒト君はすぐに二課に向かって検査を受けなさい。その間、その子を借りても?」
「レポル、いいかい?」
 突然呼ばれてびっくりした。
「僕は、どっちでも……」
「じゃあレポル、少し痛いことも苦しいこともあると思うけど、俺のために俺の職場に来る気はあるかい?」
 クニヒトのために、クニヒトの職場。
「いいの……?」
「レポル次第だよ」
「うん、やる! クニヒトのために何かできるならなんでもやる!」
「じゃあ、課長、お願いします。あまり無理はさせないでくださいね」
「クニヒト君は私がレポリィド君に無理をさせる前に検査を終わらせて帰ってきて頂戴。レポリィド君、私についてきなさい」
「はい!」
 僕はクニヒトと別の救急車に乗り、課長にいくつか問診を受けた。課長はきびきびとした口調だったが、僕がときどき「わかりません」と返答することも許してくれた。「レポリィド君は聡明な子だと聞いているわ、レポリィド君がわからないのなら誰にもわからないのよ」と笑ってくれた。真顔でいるときは少し厳しそうな印象を受ける女性だったけれど、笑ってくれると、高級な紅茶が喉を通っていくときのような安らぎを与えてくれるひとだった。そして僕は何か紙に名前を書かされた。
 白衣の男に服を脱がされ、傷口という傷口を消毒されて少し痛かった。
 口の中の裂傷を診てもらっていると、検査室にクニヒトが入ってくる。僕を見て、ぱちくりと瞬いた。

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