犬よ兎を喰らうがいい
第四章 羊よ、犬に懐くがいい【上】
クニヒトはベルナルドに『来い』と連絡をとり、例のバーでシェファードにジュースを頼みながら待っていた。アップテンポなジャズの中で人を待つと、自然とバンドを眺めてしまうもののようだ。
カラン、と音がして、バーの人間たちは誰かの入室を知る。
「お帰り、ヴィス」
「おう、ただいま」
バーのジョークにしてはやけに親密だ。「お帰り」を言ったシェファードの視線の先を見ると、オーヴィスが笑っていた。柄の悪さが品の悪さに直結するわけではないのだと初めてクニヒトが気が付いた。
白衣を着ていないオーヴィスは、ファッションに気を遣っている男のようだった。一見普通のシャツだが、タイはダブルノットだったし、色味も彼によく似合っていた。きつめの色が、オーヴィスの肌や髪の淡さを引き締めている。
「悪ィ、遅くなった」
「大丈夫、でも待っていたよ。着替えておいで」
オーヴィスがバックルームに引っ込んだ時、またもカランと音がして、今度はベルナルドが入ってきた。
「いらっしゃい。お友達がお待ちですよ」
「ああ、ありがとう、シェファードさん」
狭いバーなので、手をあげるだけでベルナルドはクニヒトを見つけられる。隣に座った。
「よう、クニヒト」
「うん」
「お願いしますー」
「うーい、ただいまお伺いします」
タイを外して出てきたオーヴィスがオーダーをとる。
「シェファードは手を怪我しているので、ぼくが承ります、ご了承ください」
「ヴィス、別に平気だよ」
「シェファードは早く治してくれ給え。医療のほうの時間外勤務は疲れるんだよ、ア? まあバーは別だけどな、何時間でも働ける、悪いか、ア?」
口を挟んだシェファードは苦笑してグラスを拭き始めた。
「じゃあヴィスさん、甘いのひとつ」
「かしこまりましたー。ん、ベルナルド様、ですね? お連れ様は初めましてですよね?」
「ああ、クニヒトって言うんだ。俺の親友」
「クニヒト様ですね。クニヒト様、ぼくは小さいころから人の顔が覚えられません。病名もわかっており、治療中です。申し訳ありませんがそこはご了承いただけますと」
「気にしないでください」
医務開発課のオーヴィスで間違いないようだが、働き詰めで大変なのではなかろうか。
とことことオーヴィスはカウンターに立ち、慣れた手つきで酒を作りはじめた。
「で、まあ。クニヒト、どうしたって?」
「ん、ライカのこと、また振ってきた。今度は理由も言った。そしたらなぜかレポリィドなら振らないんでしょう、みたいなことを言われて」
「それで酔いたくなったわけだ」
「悪いな、付き合わせて」
オーヴィスが「お待たせしました」と橙色の酒を置いてそっと去った。
「飲め」
「いやベルナルドが頼んだ酒だろ」
「お前は酔わねえと本音話さねえから」
気心の知れた親友の心遣いに、クニヒトは言われるままその酒を口に運んだ。甘みに安心した。オーヴィスの酒のセンスはシェファードと同様にしっかりしているようだ。そしてベルナルドの味の選び方も、実に的確だった。甘さが脳を落ち着かせ、言葉の載っている辞書のフォントサイズが見やすい大きさになる。
「お前的にそのレポリィドって奴はどうなの」
「男」
「それでアウト?」
「そりゃアウトだよ、僕ノーマルセクシャルだから」
「そういう奴って特に相手のことが見えてねえことが多いんだよ。お前がタチのほうならどうだ?」
「レポリィド相手なら、僕がタチだろうけど。んー、どう、って言われてもなあ」
ベルナルドはアセロラジュースを注文した。
「可愛いとか、放っておけないとか、そういうのはねえのか? 男だからって魅力に気づかないまま逃すのは惜しいんじゃねえか?」
「そう言われてもなあ。僕はまだライカのこと諦められていないし」
「お前、選んだように難しい恋愛するよな」
クニヒトは甘みが恋しくなって、もう一度酒に口をつけた。やはり美味だ。
「……そうだとして、絶対振り向いてなんてくれないから嫌なんだよ」
クニヒトの血中のアルコールが涙腺を刺激し始めた。
「ん、そうか」
「レポリィドだって初代がいちばん好き好きゾッコンっていう感じだし。たぶん僕が抱いたってクニヒトって呼ぶんだ。僕じゃないクニヒトを呼ぶんだ」
「やってみる前から決めていいもんかね」
「傷つくくらいならわざわざ飛び込んでいかない」
「そうか」
オーヴィスがジュースを置いた。ベルナルドは考えをまとめるようにストローに口をつけた。
「それにしても、なんだかんだで、お前、毎度、恋愛に悩んでるわけじゃねえよな」
「どういう意味で?」
「相手について悩むんだよ、お前は。恋愛をどうしたらいいかわからないんじゃない。恋愛はとっくに始まっているのに、相手が応えてくれないことについて悩むんだよ。お前はもう少し強引になっていいと俺は思うね」
「強引なあ、レポリィドが強引なほうだから僕まで強引になったら恋愛どころじゃなくなるなあ」
「ほら、また相手について悩んでるだろ。まあキスの一回でもしてみたらいいんじゃねえの」
クニヒトは周りに恵まれていた。
「キスは、した」
「は?」
「ライカが事故チューさせた。まあもう事故っていうより事件だけど。後頭部掴まれてがつんと」
ベルナルドが「ライカってやること派手だよな」と妙に納得している。
「お前、嫌だったか?」
「僕は別に……でもレポリィドがどうなのかは」
「相手のことなんて永遠にわかんねえよ。お前が嫌じゃなかったなら、充分なんじゃねえの」
「そうか」と腑に落ちないながらもクニヒトは心にメモを書いた。ベルナルドは息を一つ吐いて別な話を始めた。
「ところでさ、シェファードさん、丸くなったと思わねえ?」
「丸く?」
「ヴィスさんが来て、さ。お前はこの間はいなかったのか、この前な、ヴィスさんが酔っ払いにセクハラされたんだよ。顔がわからねえからってな。そのときシェファードさん何て言ったと思う? もしよろしければ特別にアーモンドの香りのカクテルをご用意させていただきます、だってさ。クール。ヴィスさんも嬉しそうだったぜ。めでたしめでたし」
「ふーん……」
オーヴィスを盗み見る。確かにバーに立つと、少々頼りない印象を受ける男だった。柄の悪さは、オーヴィスの不安定さから来ているのかもしれない。突っぱね、意地を張って、喧嘩を吹っ掛けるような生き方に、自分を見出す。かつて不良などと呼ばれていた輩たちのうちのひとりが、ゲームセンターの代わりに図書館に通うと、オーヴィスが生まれるのだろう。
「何が言いたいかって、それくらい勝手なふうな愛し方があっても、相手は嬉しがるかもしれねえってことだよ。さて、お前はそのレポリィドって奴が好きか?」
クニヒトの涙腺が限界を迎える。
「好き、かもしれない。わからない。でも、どうだろう、好きかも、しれない」
「それならもう決まりだろ。ほら泣け。俺が聞いててやるからうまくいかなかったこと全部吐き出せ。それですっきりした頭でアタックしろ」
「う、あぁああーベルナルドー」
クニヒトは大泣きし始めた。混乱した頭の部品が、泣くことで洗われていくようだった。
好きでも何でもない者のことで、こんなにも涙が出るものだろうか。結論は出ていた。
ベルナルドとオーヴィス、シェファードが見守った。あまりに小気味よく泣くので、ジュース代はシェファードが引いてくれた。
酔いつぶれて寮に戻り、軍服を脱ごうとすると、派手な音が立ち始める。警報だ。
クニヒトは一瞬で酔いを醒ます。端末を確認すると、テロリストとみられる男が医務開発課で見つかったそうだ。重症者一名。
医務開発課で、重症者一名。
クニヒトは嫌な予感を振り切るために、医務開発課に向かう。自然と駆け足になった。
医務開発課にいる数人の知り合いのことよりも、ただひとりの顔が脳裏をちらつく。それは数時間前に同じことが起きていたら、違う顔だっただろう。
しかし警報はすぐに鳴り止んだ。テロリストを確保したと端末に表示される。写真は、鎧に身を包んだ人物だった。
鎧。この前の殲滅戦でクニヒトに用意されていた鎧とそっくりだ。
そのような鎧で目指す相手などひとりきりではないか。
(レポリィド……!)
混乱を鎮めようと制服と警棒が場を仕切る医務開発課前は立ち入りが禁止されており、それどころか情報課を名乗るグループに、クニヒトは事情聴取をされた。すぐに済んだようだったが、質問は認められなかったため、とても長く感じた。
ひとしきり終わると、出口にウェルシュやライカ、センザウンドとベルナルドが集まっていた。
「やあやあクニヒト君、大変なことになったね。私たちにはスパイ容疑がかかるらしい。覚悟しておいてね。違法動画の視聴は控えるように」
センザウンドは疲れた様子でそう言った。普段飄々としたセンザウンドがそんな風に言っていると、心配になるし似合わない。早くニコチンか、もう少し過激なセクハラかを摂取したほうがいいのではないか。
「ねむい。ナースが部屋で豊満で柔らかな胸枕をこしらえて淫靡に待ってるのが鮮明に見えるんだけれど幻なんだろうか」
憶測だが、寝転がっておいしい夢を見ている最中に警報で起こされたのかもしれない。不憫な上司だ。
「クニヒト君、レポリィド君が安定したら、行ってみてあげてほしい」
「やっぱりレポリィドなんですか?」
ウェルシュの言葉に殺気立ったクニヒトをライカがなだめる。
「今は治療を受けていてよ。あまり騒ぐと混乱が広まるから、あなたは少し落ち着いて」
ベルナルドは「不運だったな」と、俯いたクニヒトに声をかけた。
翌日はセンザウンドに言われた任務と訓練をこなし、二日後、医務開発課を訪れると、もう混乱は見当たらなかった。偶然鉢合わせたセンザウンドが「行ってあげて」とレポリィドの病室の前でクニヒトを促した。来ているということは、心配だったのだろう。この上司も人の子なのだと今更のように思い、病室にノックをして入る。
「クニヒト」
レポリィドは意識があった。
「大丈夫か? 話せるか?」
「クニヒトと、少し話したいです」
二日前のことを少しずつ教わる。
鎧はクニヒト達が使っていたものと酷似していたらしい。やはり情報が漏えいしたのだ。
「でも、いずれはこうなるって、わかっていたので」
「抵抗しなかったのか?」
「ええ、さっくり刺されました。ただ、思ったより痛かったのでびっくりして、少し悲鳴をあげてしまい、窓を割ってしまいました。悲鳴は肺に反響したらしく、僕を刺したナイフは肺の中までは刺さらなかったようです。代わりに中で折れてとるのが大変だったらしいのですが、もう問題ないようです」
「怖かったろ」
クニヒトがそう言うと、レポリィドは少し驚いたふうだった。
「それはまあ、怖かった、ですけど。でも、入院が長引いただけです。……クニヒトに気遣われると、なんだか少しこそばゆいです」
驚きが、だんだんと別のものに変わっていく。変わるのはただの光の屈折の角度で、もともとそこにあったものは、レポリィドの中に生まれたときから常に同じ色をしているようであったが、レポリィドはその色を、自分と初代クニヒトの作ったレンズ越しに見てしまう癖があったようであった。そのレンズが二代目クニヒトによって溶かされていき、レポリィドにも元の色が見えるようになる。
「でも、」
レポリィドの眦に涙が浮かんだ。
「怖かった、です」
綺麗に泣くんだな、と、クニヒトは思った。
傷が痛むせいかもしれないが、息はほとんど乱さず、涙だけが頬を伝う。美術館の、水を流すオブジェのようだった。白いシーツにぽたりぽたりと塩水が染みていく。
ふと、クニヒトの視界に、レポリィドのマスクが入る。
「レポリィド、マスクして、思いっきり泣いたらどうかな。傷は痛むのか?」
「傷は、もう平気です」
「声出して泣くと違うよ。やってみなよ」
クニヒトは腕を伸ばしてそのマスクをとる。レポリィドは受け取ると自分で装着した。
どうしたらいいかわからない風のレポリィドを、ベッド横のパイプ椅子から抱き締める。
「怖かったろ」
「……はい。怖かった。クニヒト、怖かったよ……う、あぁああ」
レポリィドがクニヒトの背に手を回し、わあわあと泣き出す。マスクが音を遮断するので誰の迷惑にもならない。
つらいときに泣くのが咎められるとしたら、きっと人類は絶滅する。
レポリィドは今まで口に出せずによどみ切っていた言葉を吐き出し始めた。
あなたがいないなら僕は生きていたくない、いなくなるならどうして助けたりしたの。
あなたを好きでいる自分が本当の本当に大嫌いだ。なのに、大嫌いにさせたあなたを、どうして嫌いになれないんだろう。
あなたのことを嫌いになれたら楽になるのに、嫌いになったら誰も愛せなくなる。
しばらくレポリィドはえぐえぐと泣いていた。ひとしきり、七年分だろうか、泣き終わったようで、レポリィドから体を離した。ティッシュで顔を拭う。
クニヒトはレポリィドのマスクを外させて、ひとつキスをした。
「レポリィド、初代のほとぼりが冷めたら、抱かせて」
「……今じゃ、だめなんですか?」
「怪我してるだろ」
「そう、ですね」
嫌がられないのがわかったのは大収穫だった。クニヒトのほうから誘ってみて、自分も全く嫌悪感がないのも裏付けられた。
「……レポリィド、本当はまだ、泣き止んでないだろ」
「充分泣きました」
「まだ足りない顔してる。じゃあ、レポリィド、『好き』って言って」
「あなたのことですか」
「とにかく言って」
レポリィドは意図がくみ取れないようだったが、従順に「好き」と言った。
「じゃあ今度は、『クニヒトが好き』って言って」
「クニヒトが、好き」
レポリィドの混乱した頭が整理されていく。先程の言葉がどこから来たのか、言葉でわかり始める。言葉が、レポリィドを引っ張る。想いが、言葉に変換されていく。
「僕もレポリィドが好きだよ。好き同士だから、つらくなったらぶつかってきていいんだよ」
レポリィドは少し黙った。けれど、もう一度「クニヒトが好き」と呟くと、何かが決壊した。
「好き、クニヒト、好き」
言いながら、声を押し殺して泣いた。
つらいのは、僕がクニヒトのことが好きなせいだった。そう、過去を想ってレポリィドは泣く。そんなことを考えられるのは、クニヒトがそばにいてくれるおかげだ。そう、今を想ってレポリィドは泣く。僕が泣くのはクニヒトのせいだ。それはどちらのクニヒトのことだろう。今か、過去か。
三度目のキスをした。レポリィドが舌を絡めてきた。血の味がした。美味なまでに生を訴えかける味だった。
「好きです、クニヒト、僕は、クニヒトが好きです」
「うん。僕もレポリィドが好きだよ」
「好きです」
「うん」
「好きです、クニヒト」
しばらく泣くと、レポリィドは泣き疲れて眠ったようだった。
レポリィドの傷を刺激しないようゆっくりと寝かせ、先程からポケットで震えている端末を見る。
『初代クニヒトが行方不明になって一か月が経つ。法に則り、初代クニヒトを死亡と認定する』
そんなニュースがセンザウンドから転送されて来ていた。だから何だ、と思った。
二代目クニヒトがレポリィドを護り通す。それでいいじゃないか。
とりあえず訓練場に顔を出そうかと立ち上がろうとすると、何かが引っ張っている。
よく見ると、レポリィドの点滴の刺さった手が、クニヒトの服の裾に引っかかっていた。
ほどくのは簡単だったが、こんなお約束にはまってみるのも一興かと思い、レポリィドが起きるまでそばにいることにした。
その頃、バーでシェファードは店を開ける準備を整え、暇だったので血を抜いていた。注射針を静脈に刺し、血液を吸い取る。そしてビーカーに出す。いわゆる瀉血という行為だった。
オーヴィスに生きる意味を訊ねたことがあった。そうしたら彼は、生きる意味が見つからないのであれば血を抜いてみ給えと、いつものように高飛車に言い放った。
医療従事者の端くれとして答えを間違ってはならない問いだったのは、長年の経験からシェファードにはよくわかっていた。だが、外に出ろ、でもなく、趣味を持て、でもなく、血を抜け、と言われたのは初めてだった。オーヴィスは血を抜いたことがあるのかと訊ねると、そんな怖いことができるか、と一喝され、そのあと彼は、どうしようもなくわからなくなったときの方法だからな、と念を押した。そして、『普通に陸の上にいればいずれ息ができるものなんだよ、待て、いいか、水から顔出してまず待てよ、ア? そんで、いくら待っても何してもだめなら、そのときは誰もそいつを責められねえ状況だよ』と、付け足した。
そのときにシェファードはオーヴィスを気に入った。瀉血は確かに、ほんの少しだけだが、まやかしの趣味となった。彼の治療を見たくて、頻繁に瀉血を行うようになった。そのたびにオーヴィスが呆れたふうに鉄剤とトランキライザーを処方してくれる。それが嬉しかった。
そこから共依存とも言える関係が始まるのは容易だった。オーヴィスは医療従事者であるには、あるものを紛失していた。自我だ。オーヴィスは、シェファードに抱かれることに自我を見出し、シェファードを愛し、シェファードを愛する自分を愛する。シェファードは普段強気なオーヴィスが自分の下に組み敷かれ、小羊のように鳴いてねだるのを見ることが愛だと信じた。
シェファードがそんなことを考えていたとき、カラン、と音がする。ちょうどよく、オーヴィスだった。
「シェファード、居るかー? お?」
「ここだよ」
「てめえがシェファードか、悪い。うん? また血ィ捨ててんの」
「ああ」
「まあ、責めねえよ、死なれるよりずっとましだ。それはそうと、とある病室が昨今盛っていてやかましいんだよ。興奮が伝わってきてかなわねー。相手しろ。いいか、ア?」
「もちろんだよ」
オーヴィスはビーカーに抜かれた血の量を眺める。見慣れた色だ。さして何とも思わず、シェファードの腰掛ける椅子の間に体を落ち着かせ、まだ硬さを持たないそれを口に含んだ。
それくらいの時間が過ぎると、レポリィドは目を覚ました。自分が寝ると一緒に寝てしまう癖のあるクニヒトを横に確認する。
(最近、薬、飲めてないな)
ウェルシュの処方した薬を入れたピルケースを探す。横で寝こけているクニヒトを起こさないよう、そっと軍服の上着を探ろうとした。
けれどその必要はなかった。ベッド真横のごみ箱に、ご丁寧に中身の錠剤をばらまくように開かれたピルケースが捨てられているのを見つけた。
(最近はまたこういうことが増えてきたな、テロなんだろうか、嫌がらせなんだろうか)
自然とため息が出る。それに敏感に食いついたのは、目を覚ましたクニヒトだった。
「ん……レポリィド、起きたのか……何か探してるのか?」
「いえ、また薬が捨てられてしまったみたいなので、呆れていたところです」
「薬?」
一気にクニヒトが剣呑な雰囲気になる。言わなくていいことを言ってしまったな、と後悔した。
「大丈夫ですよ」
「なにが大丈夫なんだよ。ちゃんと治さないと大変なことになるんじゃ」
「また処方してもらえばいいんです」
「だって資源はもう自由に手に入らなくなってきているのに」
「大丈夫ですから」
「せめて怒れよ」
うん? とレポリィドは、この涙ぐみながら怒る男を不思議に感じた。薬を捨てた何者かに腹を立てているのではなかったようだ。ならば、反省すべきはレポリィド自身だろう。だけれど、何が悪いのかわからない。
「命がかかっているんだろ? 生きてくれよ。せっかくレポリィドと仲良くなれたのに、こうやって医務室でしか会えないのがつらい。早く退院して、一緒にいろいろなところへ行きたいのに」
「あ、あの」
「生きてくれよ……もっと一緒にいろいろなことをしたい。大変な病気で生きるのがつらいのかもしれないけど、頼むから、生きてくれ。たとえもう遅いんだとしても、諦めないでほしい」
とうとうクニヒトの頬を涙が伝う。そんな悲しい顔をしないでほしい。何も死にたいわけではない。
「あれは、胃薬なんです」
「うん……うん?」
「もともと僕は消化器が脆いので、食欲を出す薬なんです。飲まないからって死にはしません。特にクニヒトやウェルシュ先生が点滴を打ってくれるのなら、何の問題もありません。余った食べ物は、クニヒトが召し上がってくだされば」
レポリィドが伏し目がちに呟いたのちに顔をあげると、クニヒトが頬を掻いていた。
「ええと、じゃあ、退院とは関係がない?」
「ええ。経過が良ければ今日中に退院します」
「そうだったのか」
「心配したじゃないか」と赤い顔で言われたので、「嬉しいです」と返しておく。後悔は吹き飛んだ。
「じゃあ、退院したら一緒にバーに飲みにいかない? いいバーがあるんだ」
レポリィドは一瞬とても嬉しそうにしたが、何かを思い出したようで困った顔をする。
「いや、行きたくないならいいんだけど。そうだよな、レポリィドは酔っ払いの相手は嫌だよな」
「いえ……そのバーではないと思うんですが、昔、変な人に絡まれたことがあって」
「そうなんだ、大丈夫だった?」
「絡まれたというか、まあ、なんというか、言いにくいんですが、悪戯というか」
「え」
「あ、でも、初代クニヒトがこっぴどく怒ってくれたので、なんともありません。僕の初めてはクニヒトだったので、何の問題もないんです」
「いやいや。性犯罪は問題だろ」
「本当に大丈夫なんです。今更な感じもしましたし、一応本番はなかったので。ちょっと体を触られただけです」
「詳しく」
「あなた面倒な男ですね」
「それはごめん」
また独白で性体験を語るのも恥ずかしかったので、「裏路地でいかがわしい写真を撮られただけです」と決着させる。
「服を脱がされた写真でした。クニヒトが焼いてくれたので、もう残っていません」
「見たかった」と呟く二代目は放っておく。
「抵抗はできなかったの? これからはしなよ」
「鎧とマスクなしに本気で叫ぶと、僕も粉々になるみたいなので……」
「じゃあ僕を呼んでよ?」
「わかりました」
この面倒な男が落ち着いてくれたので、「でも僕もお酒を飲みたいです」と誘ってみる。
「じゃあ、バーでいい酒をもらってくるよ。どんな味が好き?」
「香りの強いものが好きです」
ふんふんと意外がるクニヒトには、自分が酔った時に起こす癖のことは伏せておくことにする。
「おやークニヒト君だー。お疲れ様」
ウェルシュが個室のドアから顔を覗かせる。
「ああ、お世話になってます」
レポリィドを抱いた男だ、と思うと、なかなか冷静な対応ができない。
「いま退院手続き終わったからねー。レポリィド君、私が言ったこと守って健康になってね。いつ出て行っても大丈夫だしいつ戻ってきても大丈夫だよ。お大事に」
「はい。お世話になりました、ありがとうございました」
「いいえーお大事にどうぞー」
ウェルシュが退室し、レポリィドは荷物をまとめ始める。
「やっと今日から、クニヒトと同室ですね。実は、楽しみだったんです」
「そうなのか?」
「一緒の任務の誰かと一緒の部屋って、初めてなんです。初代クニヒトは泊まり込みで医務開発課で働くことも多かったので、ずっと誰かと一緒ってどんな感じなんだろうなって」
なんとなくクニヒトは、寂しいと兎は死んでしまう、という言葉を思い出した。
少ない荷物はすぐにまとまり、寮に向かう。寮に着こうとするとき、ベルナルドが大きく手を振って歩いてきた。
「おーいクニヒト! 久しぶりー」
「なんだよベルナルド、へべれけじゃないか」
レポリィドに紹介しようとした瞬間、酒臭い息が茶々を入れた。
「お前が初代クニヒトの最愛の子? クニヒト、お前は抱いたのか?」
「いや、そういう関係じゃない」
「なにお前ネコだったっけ?」
「そういうわけじゃないけど」
「黙って」
レポリィドが酷く怒った声でベルナルドをいさめた。ベルナルドはとても驚いたふうだった。
「不愉快です」
「レポリィド、待って」
「だって」
「僕の親友だよ。悪く酔っているだけ。ちょっとからかっただけだよ、珍しい話題でもないだろ」
レポリィドは初めて、自分について怒ってくれるクニヒトの心境を身をもって知った。相手に不満がある裏には、自分の至らなさがある。それが不愉快さに拍車をかけるのだ。
「おー怖い怖い」
「……ごめんなさい」
レポリィドが謝ると、ベルナルドはふっと真顔になった。
「いや、謝るようなことじゃ」
「これからも、クニヒトと仲良くしてください」
「いや、あの、こちらこそ、ごめんなさい……」
たじろぐベルナルドを見ていると、無性に笑いが込み上げ、クニヒトは腹筋の痙攣に合わせて息を漏らした。
「あ、お前いま笑ったな!」
「いや、ごめん、ベルナルドが言い負かされるの初めて見たから」
今度はレポリィドが笑い出す。くすくすと上品な笑いは、けれど止まらない。
「仲が、よろしいんですね」
「おう、仮にも自他ともに認める親友だぜ」
ベルナルドが大きく、わははと笑った。空気が和解する。
「ベルナルドさん、ですか?」
「おう。お前がレポリィドだな」
「僕も酔いたい気分なんです。クニヒトと遊んできてあげてください。帰りにお土産を持たせてくださいね」
「なーんだ、良い奴じゃんお前! クニヒトが惚れただけあるな」
「お、おい! ……あ、いや」
そういえば告白は終わったのだった。ベルナルドがニヤニヤしている。
「先に部屋に戻っているので、僕と居て溜まった鬱憤を晴らしてきてください」
「では」とレポリィドが寮に向かって歩き出し、クニヒトはベルナルドに肩を組まれて、シェファードのバー『ケンネル』に入った。カラン、と、歓迎の音がする。
「いらっしゃいませ!」
「ああ、いらっしゃい、ベルナルド様、クニヒト様」
名前を呼び上げることでオーヴィスにわかりやすいようにという気遣いだろう。クニヒトもシェファードが日に日に丸くなっていっている印象を受けた。
「今日は、買って帰りたいんです」
「かしこまりましたー。どのようなものをお求めですか?」
オーヴィスが接客をする。今日はシェファードは、座って別の客と話していた。
「香りの強いものがほしいんですが」
「こちら、女性に人気の甘いものがございますが」
「ああ、ヴィス、こっちのほうがいい」
シェファードが口を挟み、棚のボトルを指した。
「クニヒト様、あちらでよろしいですか? 少々飲まれていきます?」
「ええ、それをいただきたいです」
「じゃあクニヒト、俺はもう少し酔っていくから、お前は気を付けて帰れよ! 幸せにな!」
オーヴィスがクニヒトにボトルを渡していると、ベルナルドはいかにも酔っ払いの口調でオーヴィスに「からいの頂戴」とねだっていた。
一方、レポリィドは、寮でセンザウンドと鉢合わせ、センザウンドの部屋で世間話に興じていた。
「二代目クニヒト君には慣れた?」
「ええ、おかげさまで、ずいぶん仲良くしていただいています」
「最近楽しそうにやっていて、見ていて安心しているよ。初代とのような関係を、もう一度築きたいとは思うの?」
「クニヒトが望むのなら、そうなってもいいと思っています」
「そう。君は本当に兎のようだねえ、名前の通りだ」
レポリィドは自分の名前の由来を知らなかったが、「そうなんですか」で済ませた。死んだ人間に興味はない。そんなものを考えるくらいなら、クニヒトと仲良くなる方法を知りたかった。
「私はコスプレものが好きなんだけどクニヒト君はどうなんだろうねえ」
「何の話ですか」
「クニヒト君、私のセクハラに動じなさすぎてゲイなんじゃないかと思っていたんだ」
レポリィドは自分が彼をその道に引きずり込もうとしていることを思って少し黙った。そしてこの上司は責めた所でどうにもならない。そういうひとなのだ。
「センザウンドさんはナースですよね」
「そう、胸の肉付きのいいナースね」
そこは大事なところだったらしい。
「十代の頃から変わらない性癖だからもう治らないさ。レポリィド君が入院していたのは可哀想だったけれど、正々堂々とナースを見られるのはよいものだったね。ただ、色気というのは不思議なもので、本物のナースがエロスを体現するかといったら否なんだな。……ああ、コスプレで思い出した。レポリィド君にあげたいと思っていたものがあるんだ」
「僕、コスプレグッズは要らないんですが」
「絶対似合う」
似合っても要らない、と思ったが、自分のために数十分禁煙してくれているへヴィスモーカーの上司がうきうきと棚をあさるのを止めるのも忍びない。
「これ! 耳ッ」
「はあ、耳ですね、兎の」
「馬鹿にしちゃだめだよ、耳があるだけでだいぶ違うよ?」
そしてセンザウンドは、レポリィドと二人きりの部屋だというのに耳元で「二代目クニヒト君との初めてはこれで決まりだよ」と囁いた。
言い終わるとすぐに離れ、「そろそろクニヒト君が帰ってくるんじゃないかな」と、いつも通り、世界を自分のために回す口調でレポリィドと耳を部屋からつまみ出した。
渡された兎の耳はカチューシャタイプで、ためしに着けてみると、垂れ耳の兎のように首筋の辺りにもこもこの耳が当たる。
(僕が首が弱いの、知ってるんだっけか、センザウンドさんは)
とりあえず今日中にクニヒトと関係を持つことになりそうだったので、着けっぱなしで部屋に戻る。
首に兎の耳が擦れて、体が期待に高まっていく。
数分と待たせずにクニヒトは帰ってきた。
「ただいまー」
「おかえりなさい」
レポリィドは誰かにおかえりを言う喜びを感じる。
一方クニヒトは、揺れる耳に驚いたようだった。
けれど特に触れずそのまま、小ぢんまりした飲み会が始まる。飲むまではレポリィドはその耳が恥ずかしくて、上司を心の中で罵ったが、ひとくち飲んでしまえばそんなことは忘れ去った。
「おいしいお酒ですね」
「だろ? 店員と店長と二人でやってる店みたいなんだけど、店長がこれがいいって勧めてくれて」
クニヒトも酔いやすい体質だったがレポリィドも大概だった。
ボトルが空くと、レポリィドはクニヒトの後ろまで歩き、おもむろに軍服を緩め始めた。
酔って暑いのだろうとクニヒトが放っておくと、レポリィドはクニヒトの背後の頭の上から顎を取り、クニヒトに無理矢理上を向かせるようにして強引に口づけた。
「クニヒト、ねえ、しましょう?」
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