犬よ兎を喰らうがいい

第五章 騎士よ、羊を屠るがいい【上】



 初代クニヒト、もといシェファードは、通勤途中のオーヴィスを見つけた。端末の音声合成システムを動かし、「やあ、オーヴィス」と喋らせた。
「ア? 悪いけど、どなた? ぼくは顔が覚えられねーんだ」
 自分から相手の名前を喋るほどオーヴィスは馬鹿ではない。端末が応える。
「オーヴィスの知ってる誰かだよ」
「え、なんだ、怖いな、お?」
「これからオーヴィスにあることをする。少し痛いけど本当に少しだよ」
「な、なんだよ、嫌だな、オイ」
 体を護るようにやや曲げられた腕をつかむと、オーヴィスは声を上げた。人通りが少ないので誰も見になど来ない。
「嫌だ、誰か助け……誰か、シェファード!」
「俺だよ」
 その声に状況を理解したオーヴィスの目から徐々に怯えの色が抜けていく。
「な、んだ、びっくりさせないでくれ給え。痛いっつーのはどういうことだ、ア?」
「血を抜いていくんだ」
「いつもシェファードがやってるあれか?」
「そう、ヴィスは健康だから、きっとあまり痛くないよ」
 オーヴィスの顔が、なんということだろう、輝いた。
「やり! シェファードがいつもどんな感覚でやっているのか気になってたんだ。ぜひやってくれ給え!」
 オーヴィスの笑顔に、シェファードは目を眇めた。
「ただ、俺はヴィスを殺してしまうだろう」
「構わねー! シェファードがそうしたければ、ぼくはなんだっていい。知ってんだろ、オ?」
 一瞬レポリィドとオーヴィスがかぶる。振り払うようにシェファードは「じゃあ、始めよう」と言った。
「待ち給えよ、その前に」
 オーヴィスはシェファードに抱きつくように近づき、「一回、しよう」と笑んだ。
「バーでいいかい」
「おう。シェファードが人殺しになってくれるんなら、出勤もしなくて済むな。ぼくはどうしても人を救うっつーのが苦手みてーだ」
 シェファードとオーヴィスは行くべき道を反対側に曲がった。
「今日は玩具じゃないほうがいいな」
「ヴィス、玩具、好きだったろう」
「最期くらいはシェファードを感じたい」
 偉そうで柄が悪いくせに、こういう可愛いところがあるのがたまらない。
 バーに戻り、敢えて鍵はかけない。
 オーヴィスは服を脱いでいく。露わになっていく肌にシェファードが手を這わせる。
 オーヴィスが一糸をもまとわなくなると、シェファードはバーでいつもするように、蜂蜜のボトルを手に取った。残り少なく、今回の情事でなくなるだろう。
「入手が困難だから普通にワセリンで構わねーのに」
「蜂蜜の甘い香りがヴィスには似合うから」
 カウンターにオーヴィスが片足を立てて座る。オーヴィスの勃ちあがりかけたそこに、シェファードは蜂蜜を垂らした。
「……」
 オーヴィスはレポリィドのように喘がない。興奮するとぼんやりするタイプのようだった。
「ヴィス、もう大丈夫かい」
「急かされても感度は上がらねーよ」
 苦笑交じりにオーヴィスは言う。けれどカウンターにつかれた手を包むようにシェファードが手を重ねると、「いいぜ」と目を閉じた。
 レポリィドと違い、オーヴィスとの性交は味気がなかった。オーヴィスは行為に慣れすぎていて、何を要求しても二つ返事で飲んでしまう。今回も、特筆すべきこと抜きに、互いに達して、互いに愛を求めたつもりになって、互いに勝手に満足した。
「じゃあ、ヴィス、死んでみよう」
 そんな求めにさえ、オーヴィスは笑って応えるのだ。
「俺もすぐ行くから怖くないよ。まあヴィスは怖くないか」
「心中? オ?」
 オーヴィスは興味津々といった風に、服をまといながら目線をシェファードに投げた。
「そうなるな」
「なんとなく、シェファードはついてこられない気がすんだよ」
「信じられないかい」
 オーヴィスは「いや」と首を振り、言葉を探した。
「シェファードは、ずっとぼくの中に誰かを探していたから」
「被害妄想じゃないのか」
「そうかもな。でも、ぼくは精神は至って健康なはずだぞ、ア?」
 服を着終わったオーヴィスは左腕をまくり、店員側のカウンターにバッグを置いて、その上に露わになった肘裏を上にして腕を置いた。シェファードはこれからする行為を思い、すぐ横に椅子を置いて抱きとめるような体勢をとった。オーヴィスは嬉しそうに体を預けてくる。
「じゃあ、痛いよ」
「ぼくは注射は怖くねえ」
 妙なところが意地っ張りなオーヴィスに噴き出しながら、シェファードは駆血帯を結び、針で静脈を突いた。
 注射針のみを静脈に刺すと、だらだらと針を血液が通り、シンクに流れていく。
 こんな時でもオーヴィスは味気がなかった。ただ「上手い」とシェファードの技術を褒めた。
「ぼくと関係をもって、楽しかったか? ア?」
「楽しかったし、幸せだった」
 赤黒い血液を見ながら、そんな話をした。最期になるとわかっていても、最期らしい言葉は浮かんでこなかった。ただただ、オーヴィスはシェファードに後悔がないか違った言葉を用いて訊ね、シェファードも似たような言葉で返事をした。
「まあぼくが生きている間に死なないでくれたのはありがてえ話だったよ。てめえはいつ死ぬかわからねーんだもん」
「誰だって同じさ。ヴィスは一時間前に自分がこれから死ぬって知っていたかい?」
「知らなかったけどよ。でもまあ、最期のカウンセリングでシェファードに言っておきたかったことがある」
「用意周到だな」
「ぼくは瞬発力に欠けるから準備しないとなにもできないんだ。で、シェファード」
「ああ」
「生きるの、どうだ?」
「この上なくつらい」
「そっか、つらいか」
 言葉が途切れるたびに、腕の中の存在が息絶えてしまったのかと不安になる。もう少し話していたかったが、それならば針を抜けばいい。それができない。できないのだ。
「ぼくを殺すのは、つらいか?」
「あんまり」
「ひでえ」
 オーヴィスは笑う。
「ぼくを殺して、もし生きてみたくなったら生きてみればいいし、死にたいままなら死にたいまま生き給えよ。死ななきゃ何したっていいとぼくは常々言ってたはずだぞ」
「まあそうなんだけどね。いろいろあって、ちょっと限界かもしれない」
「いろいろあって限界か、そのいろいろがつらかったのか?」
「つらいのはもともとだよ。ちょっと拍車がかかっただけで、いつだって俺は死にたいさ」
「死んだら、どうしたい?」
「うーん、そうだな、特にない。いなくなれるならなんでもいい」
「なんでもいい、か。じゃあ、二十九年生きてみて、どうだった?」
「我ながらよく頑張ったと思うよ。そろそろ終わりにしても許されると思うんだ。だって、楽しいことっていうのがことごとく楽しくないんだ。楽しんでいるひとをみると、馬鹿みたいだって思うんだよ。ただ本当はきっと、人生が楽しいと本気で思っているひとが、うらやましいんだ。嫌味じゃなく、幸せそうで何よりだとは思うんだよ。でもどこかで、そのひとが自分と同じ生き物だと思っていない。どうせ中身なんてなくて、俺が見ている世界の登場人物であり、そのひとの人生なんてないんだと思ってる。その世界の物語は俺を空席にして続いていくんだから、俺はその物語でそういうポジションだった、っていう、虚しいような、寂しいような感じ」
 シェファードの言葉は続く。
「だけど、本当に虚しくて寂しいわけじゃない。俺も登場人物で、俺の感情は鍵括弧で描かれるだけなんだ。だから俺の二十九年に意味はなかった。きっとゴミ箱に投げ捨てられる物語で脇役を演じただけ。だから早く終わらないほうがいいという理由がない。早く終わったほうが、いろいろなひとが楽になるんだ」
 オーヴィスはふんふんと頷きながらシェファードの長台詞を聞いていた。
「まあ俺のそういう見方は別になんでもないことだ。そうだな、一回死んでみた先の物語が嫌だったら戻ってくる、っていうシステムがあるなら、とっとと死んでみたんだけど」
「それができないうえで、てめえは死にたいんだろ。そういうシステムがあったら、ぼくにもシェファードを護れたかもしれない。ただ多分思うほどいいシステムじゃないぞ、多分だけど」
 「今から行って確かめるけどよ」とオーヴィスは笑った。
「ヴィスは、死にたいと思ったことはないのか?」
 オーヴィスは、くくと笑った。
「あんよ。天気がいいから死のう、とか、真面目に考えてたよ、ぼくは」
「どうやって克服したんだ?」
「シェファードに会って、だな……自分よりもこじらせてるやつ見ると、なんか楽なんだよ」
「ひどいな」
 今度はシェファードも笑った。
「でも、怖くてできなかった。なんでなんだろうな、脳に血液が運ばれなくなる、それだけのことが、なんであんなに怖かったんだろうな。実はさ、今も怖いんだよ。恋人に看取られる、最高のハッピーエンドのはずなのに」
 言葉は続かなかった。オーヴィスの息が浅い。
「さて、そろそろ意識がなくなる。言い残したことはないかい、ヴィス」
「シェファードが愛してくれて、この上なく幸せな一生だった」
「そうかい。ありがとう、ヴィス」
「ああ、感謝っていいな。ありがとうと言わせてくれ給え、シェファード」
「どう致しまして」
「あ、死にそう」
「変に生きようとしなくていい、俺もすぐ行く」
「ああ、なんか、くらくらして気持ちいいわ。ありがとう、シェファード」
 声がかすれていき、シェファードはオーヴィスの意識がなくなったことを知る。
「俺は何か、君に感謝されることをしたかな、ヴィス」
 当然、答えはない。
 オーヴィスの寝顔は幸せそうで、シェファードは自分が正しかったのだと信じようとする。あまりに美しかったので、体を伸ばして端末を取り、写真を撮った。その表情がオーヴィスの最後の見栄のように感じられるのは、きっと自分がさっさと死んでしまわないせいだ。
 そう思った途端、突然何もかも面倒になった。ひとつずつ刺すつもりだった手持ちの注射針の封をすべて切った。
 そして手当たり次第にシェファード自身の静脈に突き刺していく。シェファードは右利きだったので、左腕の肘裏、手の甲に何本も針が刺さる。
 腕を伝う血液がぽつりとにじんだ。その透明な液体を見るまで、シェファードは自分が泣いていることを知らなかった。
「ヴィス、一回死んでみて、どうだい?」
 オーヴィスは最期までシェファードに生きることを勧めた。そんな存在が向こう岸で待っている。早く行かなければ。
 ほかの誰かを思い出す前に、オーヴィスへの愛のようなものを貫き通し、行ってしまわねば。
 その頃、とぼとぼと訓練場に向かうレポリィドは、横を歩くフラットコートに、初代クニヒトと最後に過ごした日のことを訊ねられて言葉を選んでいた。
「あの日は、クニヒトは帰りが遅かったんです。遅かったというか、帰ってこないんじゃないかと思いました。今から帰る、と連絡をもらったあとだったので、ますます心配でした。けれどクニヒトの仕事が長引いていたら連絡を求めるのも申し訳がありませんでしたし、かといって先に寝てしまうとクニヒトが帰ってきたときに迎えられない。どうしたらいいかわからなくて、僕は泣くことにしたんです」
 「ああ、そういえばクニヒトと会ってから泣いたのは初めてでした」とレポリィドは付け足す。淡々と話している口調は、泣いた後のせいか初代クニヒトのせいか、やや幼い。
「そうしたらクニヒトが帰ってきて、泣いている僕を見て何か考えていました。そのあと、ただいま、と言って、僕は、おかえりなさい、と言いました。けれど涙は止まらなかった。僕は泣くつもりなんかなかったのに、どうしたらいいかわからなくて、止まらなかった。そうしたらクニヒトが、なにかつらいんだね、と言いました。僕は違うと言いたかったのですが、なぜか口を結んでしまったんです。その時でした、クニヒトが、僕に死を求めたのは。護身用の銃を僕に持たせて、撃ってごらん楽になるよ、と、銃口をこめかみに当てさせられて、けれど僕は当然引き金は引けなかった。僕はクニヒトが怒っているのかと思っていたのですが、今日の様子だと、違ったみたいですね」
 レポリィドは一旦言葉を切った。
「僕はあの時、初めてクニヒトに応えられなかったのかもしれない」
 フラットコートは黙って続きを待った。
「そうしたら、クニヒトが、こうやるんだよ、と、銃を僕からとって、クニヒトのこめかみに宛がいました。僕は思い切り、待って、と叫んでしまった。大きな声だったみたいで、気づいたら僕はウェルシュ先生のお世話になっていて、クニヒトはいなくなっていました。そのあと、僕は病棟を抜け出して、クニヒトを探していたら、あなたに会ったんです」
 訓練場に着いてしまって、フラットコートは「それでは、またあとで」と言うレポリィドを引きとめられなかった。なんとなくレポリィドをそっとしておきたかった。できたら自分が何かできればいいが、どうしたらいいかわからなかった。他力本願な自分が嫌だったが、レポリィド達を掻きまわして台無しにすることだけは、絶対に嫌だった。
 出動などの任務がない日は、フラットコートは普通の訓練メニュー、レポリィドはセンザウンドのもとで軽めのメニューをこなすのが日課だった。
 レポリィドはいつも通りセンザウンドの執務室をノックし、名乗る。「入って」と返事が来る。いつも通りのこの行為は、いつも通りのはずなのに、少しいつもと違った感じがした。
「おやおや、妙ちくりんな顔だこと」
「はい?」
「私が渡した耳のせいではないね?」
「何がですか?」
「うーんわかってないなあ、まあ私が説明しないからなんだけど」
「そうですね」
 熱くなっていたレポリィドの頭が、このわけのわからない上司とのやりとりで少しずつ冷えていく。
「クニヒト君となにかあった? ああいや、セクハラをしたいわけじゃないから大雑把に教えてくれるだけで今日のおかずは決まるんだけど」
 この上司の食えない部分だった。レポリィドは一秒目を閉じて、覚悟を決める。
「あの」
「んー?」
 センザウンドは書類をめくる手を止めて、レポリィドを見た。そういえば顔も見ないで先程のレポリィドへの開口一番の言葉が出てきたようだった。センザウンドという男が飄々としている癖にここまでのし上がれた所以がこれだろうか。
「初代クニヒトが、見つかりました」
「ふーん」
 思わずレポリィドは「え?」と訊き返した。するとセンザウンドも「え?」と訊き返す。
「ですから、初代クニヒトが……」
「ああ、やっぱり今そう言ったよね? ちょっと生返事をしてしまった。さて、今から返事をするよ。なんということだ! そんなことがあったんだね! それはたいそうなことだね!」
 作られたような大袈裟な反応が続き、レポリィドは戸惑った。二代目が居る以上、もう初代クニヒトに関しては、世の中は興味がないというのだろうか。そう考えるととても悲しくて虚しい気分になった。
「じゃあ、私は会いに行くとしようか。場所を教えてくれるかい」
「あ、ええと、寮の近くの裏路地の、ケンネルというバーを、シェファードという名前で経営しているようで」
「あーそういえばあの辺はあったかもしれないなあ。そんなところにクニヒト君がいるとは思わないねえ、ずいぶん近くにいたものだ、ああ、シェファードさんと呼んだほうがいいのかな。じゃあ行ってくるよ、レポリィド君はいつも通り軽めに運動してね。いかに夜に頑張ってもそれだけじゃ筋力はつきにくいものだよ。じゃあまたあとで」
 センザウンドは書類をそこそこに整え、レポリィドとすれ違おうとする。
「残念だったね」
 意味深長に残された言葉は的確にレポリィドを表しているようで、けれど曖昧すぎて意図が伝わらなかった。意図などないのかもしれないが、センザウンドがレポリィドを励まそうとしたのは確かだった。シャーベットの割引券をレポリィドにすれ違いざま押し付け、センザウンドは執務室を出た。
 レポリィドは訓練を怠るつもりはなかったが、なんとなく力が入らず、しばらくそこに立ったままぼんやりとしていた。時計の針がどんどん進んでいく。
「レポリィド」
 だから何度か呼ばれても気付かなかった。「レポル」と呼ばれていれば、気付けたかもしれなかった。
「レポリィド……?」
 はっと我に返ると、フラットコートがレポリィドの顔の前で手のひらを振っていた。

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