死なせない

いろいろあっても死なせない



 ザリ、カキン。アパートの鍵が、正式な形で開けられる音がした。何も恐れることはないはずなのに、食べていたスイカバーを噛む俺の口が反射的に止まった。
 耳から針のような何かが入ってくるような感覚がある。思考だ。大丈夫、健斗が帰ってきただけだ。いや、何が大丈夫なものか、健斗にまで愛想を尽かされたらどうしよう。いや、大丈夫だ、健斗が大丈夫だと前に言った。いや、前に言ったことが覆らないと証明できない。いや、大丈夫だ、だって健斗は……。
「ただいまー。ミチー?」
 廊下を健斗が歩いてくる音がする。どうしよう。俺はスイカバーを見た。安っぽい。こいつを10本胃の中に収めた俺は、安っぽいもので出来ている。
「お、スイカバー? いいね」
 俺のスイカバーへの視線は随分と長い時間注がれていたようだ。健斗がいつの間にか、コートも脱いで干して、俺の傍に来ていた。
「……え?」
 喉を空気が通っただけだったけれど、俺の手元を覗き込む健斗には聞こえたようだった。
「いっこもらっていい?」
 健斗はにこにこしていた。俺は机の上の、コンビニの袋に結んで入れられた個包装のビニール袋、箱に入れられたスティックを眺めた。整頓なんて、こんなことをする理性はあるくせに、アイスを箱で一気に食らってしまうのは、なぜなのだろう。自分ではわからない、腹は下すし体にも悪い、なのに、なぜこんなことをしてしまうのだろう。
「残り、スイカとメロン1本ずつか。メロンほしい。ミチ、メロンもらうよ。今度スイカ奢るから」
 健斗は有無を言わさずメロンバーの封を切り、床に直接座った。椅子に掛けた俺の左脚に右手を乗せる。左脚には、今は傷はない。健斗の掌の僅かな重みを感じるだけだ。
「んー! いいね、この人工的な味が好きだなあ。昔から僕はメロン派なんだよ」
 健斗は美味しそうに少しずつメロンバーを食べていく。そして俺を窺った。
「……ミチ? 食べないの?」
「健斗」
 健斗が俺を見上げる。またひとくち、着色料まみれの甘い氷が健斗の口に飲み込まれた。
「……おかえり」
「うん、ただいま」
 健斗が笑う。彼の手には、俺の馬鹿らしい脳の異常が、食べかけの形で緑に凍っている。
「……健斗、スイカひとくち、要るか?」
「やったー! ありがとう、ちょうだい」
 俺が差し出したスイカバーを、健斗がかじる。
「おいひいえ」
「……ああ」
 おいしいと、気付いた。口の中の糖分と、健斗なりの制止が、左脚からじんわりと感じられた。
「ミチ、僕スイカもあとで食べたい。これもくれない?」
「……やる」
「ありがと!」
 健斗は最後のアイスを掴み、狭いアパートの冷凍庫まで膝歩きで這って、仕舞う。
「僕たち、まだ20年ちょっとしか生きてないけれど、このアイスは懐かしい味がするよね」
 健斗が、よっこいせ、と、立ちあがった。
「いろいろあった20年ちょっとだったね」
 その言葉を聞いたとき、死んだかと思った。走馬灯のようなものを見たのだ。縞々の赤、吐瀉物、ひどい思い出が百も二百もめぐった頃、健斗が、ミチ、と呼んだ。健斗は小学生だったくせに、ネットでボーダーっぽい病気の患者のブログを5つほど追いかけて傾向をみていたみたいだったし、カウンセリングに行ってカウンセリングの仕方自体を訊ねて困らせたこともあった。中学生になった頃、俺と健斗は他称の恋愛関係になって、俺達はそれもいいよななんて言い合った。走馬灯もどきは、いつの間にか健斗の表情になってめぐり始める。健斗は、よく笑う。俺の病気が治らないことも、いいじゃない、と笑った。俺の傷を見たときも、俺がオーバードーズで吐いているときも、俺が妄言を大声で叫んだ時も、いつでも笑っていた。けれど泣かないわけではない。俺が泣いているとき、たまにもらい泣きする。その表情を思い出して、情けなくなって、申し訳なくなって、俺は目からアイスが溶け出るのを感じた。あの冷たさは、ずいぶんぬるくなったものだ。
「ミチ? どしたの」
「いろいろあった」
「そうだね、いろいろあったね。これからもいろいろしようね」
 健斗が、俺が放置していたスイカバーをひといきに含み、そのまま俺の肩に腕を回した。
 抱き返したいのに、俺の手はアイスを食べ終わったスティックを握りしめていた。それがまた侘しくて、俺の涙はいろいろな味になる。
 ぎゅっと目を瞑って泣いていたところで、スティックが取り上げられる。健斗が前歯で咥えて器用に空き箱に入れた。
 よくわからないいろいろが肺の中でかくはんされる。心臓を通る。温かい。健斗が笑う。健斗はよく笑う。いろいろなことで笑う。たまに泣く。


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