死なせない

ゼミでも死なせない



 久しぶりにゼミに来た。左隣の健斗が俺の左腿に手を置いてくれている。
 勉強は嫌いじゃないし、ゼミのみんなも、教授も、いいひとたちだ。
 ただ、緊張はやむを得ない。
「じゃあ、木野村、そこの構造説明して」
 木野村美鈴、大人しくて頭のいい女子だ。その木野村が、言いよどんだ。
 その木野村の様子で、俺は嫌な想像をした。木野村が、ここで答えられなくて、絶望して、ペンケースからアイスピックを取り出して、ここに居る全員の右目に突き刺し、みんなが痛みにのたうっている間に、自分の左胸にアイスピックを突き立てるのだ。
 健斗が俺の左腿をつねった。俺はびっくりして健斗のほうを見る。健斗は俺と目が合うと、ポケットから薬を出して封を切る。それを咥えると、俺にキスをした。俺の口に錠剤が押し込まれる。周りはみんな木野村を見ていて、そんなことには気付かない。
 舌の上で溶けて粉っぽくなるそれを、ゼミの始まりで渡されたオレンジジュースで流し込む。
 健斗は俺の背に手を乗せて、ゆっくり背骨をなぞる。俺が無意識に過呼吸になっている時のサインだ。俺はことさらゆっくり息を吐いた。お礼のつもりで、健斗の右腿に左手を置いた。
 木野村が答える。教授が補足の説明をする。健斗が右手は俺の背をさすったまま、左手でノートをとる。俺の手は震えてしまって力が入らず、ペンは握れなかった。健斗が俺からペンを取り上げる。
 健斗の負担になっている。
 どうしようもないその事実に気付いてしまって、俺は立ち上がって死ににいこうとした。どこででもいい。死ななければ。
 健斗の手をそっとよける。健斗は俺の足をスニーカー越しに強く踏んだ。お見通しなのだ。けれど、健斗、これ以上君に迷惑をかけるわけにはいかない。
 そのとき、健斗がカッターナイフを俺に突きつけた。もう何度も折られた刃は1センチメートルほどしか残っていない。
 死ぬくらいなら自傷をしろ、ということだ。
 俺はカッターナイフを受け取ろうとした。
「先生、レポート返してください」
 幹事が、時間が迫っていることを指摘してそう言った。
「ああ、全員再提出。ふざけてんのか、もっとできるだろ」
 文字にするときついが、口調はこの上ないくらい柔らかい。責めているわけではなく、単純に、もっと考えて書け、ということだ。
 チャイムが鳴って、健斗はカッターナイフを仕舞った。
「武藤、ちょっと残れ。あとは解散。佐原も残りたかったら残れ」
「はい」
 健斗が返事をした。俺も遅れて、声を絞り出した。健斗はまだ俺の足を踏んだままだ。
「武藤くん、久しぶりだったね。つらくなかったらまた来てよ」
 木野村がそう言って帰って行った。ゼミのみんなが、俺の机にチロルチョコだのチュッパチャップスだのよっちゃんイカだのハッピーターンだのアルフォートだの小さな菓子を置いていく。
 俺と健斗と教授だけになった。教授は俺の前の席に腰を下ろす。
「武藤、まだ落ち着かねえか?」
「……はい」
 俺は机の上の菓子の山で胸がいっぱいになってしまって泣いているところだった。声を絞り出す。
「あんまりゼミ担当だからって言うのもなあ、よくねえんだけれど、お前、休学したら」
「いいえ。続けます」
 俺はにじむ世界で、必死に教授の顔を見た。
「健斗がノート貸してくれたり、勉強付き合ってくれたり、がんばってくれてるんです。それを蹴るわけにいきません」
「でもよお、武藤お前、命、蹴りそうじゃねえか」
「それはありません」
 ひきつった笑顔にしかなっていないんだろうな。自覚しながらも、俺は笑った。
「健斗が唯一怒るのが、命を蹴るときです」
「ふうん。まあ、お大事になあ?」
「はい」
「ぜっっっってえに、生きろよ」
「はい」
 大きめの声で返事ができた。教授が笑ってくれる。
「じゃあお前らも解散で。ああ、佐原」
「なんでしょう」
「ゼミ以外で武藤の代返、してやってもいいんじゃねえか? そんでばれても自己責任な」
 教授は驚いてしまっている健斗を置いて笑う。じゃあまた来週、と、手を振りながら教室を去った。
「ミチ」
 健斗が俺を呼ぶ。
「帰ろう。アルフォート食べて。チョコレートは落ち着くから」
「うん」
 言われた通り、アルフォートの封を切って口に入れる。ゴディヴァもロイズも敵わない。とてもおいしかった。
「じゃあ次チロルな」
「うん」
 俺は泣きながらチョコレートを口に運び続けた。


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