アリスを灼く雪の白

第二章 紺屋の白袴



 ―――アントワネット さんの発言
仕事おしまい! あとは商品しまって隣のあんちゃんに挨拶して帰る!

 ―――名無し さんの発言
乙ですー

 ―――名無し さんの発言
乙です

 ―――名無し さんの発言
今日はホモォは来なかったんですか!

 ―――アントワネット さんの発言
おつありですー ホモォ来ないね……夕方サラリー的なおっさんが部下とトラブったらしくちょっと愚痴って帰ったけど痴話喧嘩にしては庶民的だったのでよっぽど束縛激しい下剋上彼氏なのか、あるいは隣のあんちゃんが手作りお弁当を「彼女が作ってくれて~」って言ってたその彼女が苦手な料理を一生懸命早起きして作ってお弁当にした男でない限りホモォ来ないです

 ―――名無し さんの発言
アントワネット嬢のそのポジティブさが好き


 夕食をとり終わり、時刻はまだ17時半を回ったところだ。充分に活動できる。
 有栖は年季の入ったダウンを羽織った。外を見ると、雨は止んでいた。
「アリス、どこかへ行くのか」
「買い物」
「行きたい」
「その足じゃ無理だろう。安静に待っててくれ、すぐ戻る」
 灼はしょんぼりとした表情をした。しかし有栖は少し体を動かして落ち着かないと居られなかった。ひとつ屋根の下で一晩過ごすには、冷静さが全く足りなかった。
「パソコンでも本でも自由に使ってていいぞ。申し訳ないけど、行ってくる」
「うん。いってらっしゃい。すぐ帰ってきて」
 灼がぴこぴこと右足を庇いながら玄関まで見送りに来る。アリスは灼の履いていたハイヒールを横目に、濡れていないスニーカーの紐を結んだ。
「うわ」
 灼が声を上げた。振り返って見ると、灼は尻餅をついていた。
「大丈夫か?」
「うん。普段はハイヒールを脱ぐことがないから、慣れない」
「普段からこんなに高いヒールの靴を履いているのか?」
「うん、僕は昔から下駄がだめだから、ハイヒールで許してもらってる」
「大変だな」
「慣れだよ」
 そういうものなのだろうか。
「じゃあ、行ってくる、すぐに戻る」
「うん、いってらっしゃい」
 ドアを開けると冷風が吹き込む。
 ドアを閉めるとき、灼が目を伏せて小さく礼をしていた。
 鍵を閉めるのがこんなに勇気がいるものだとは思わなかった。
(冷静に、ならないと)
 鍵をかけ、大きく息をつく。冷たい空気が肺に満ちた。
 そして一気に走り出す。19時まで、マリエさんが八百屋に居るはずだ。隣の肉屋のお兄さんはマリエさんが帰るまでは帰らない。女の子に夕方ひとりで店仕舞いをさせたくないと言っていた。肉と、野菜を買う。よし。
 そう意気込んだ有栖が一目散に走ってきたので、マリエは驚いたようだった。
「あれ、アリスさん、忘れ物ですか?」
 マリエの八百屋は有栖の今の職場だ。以前の土木業より向いていると思う。
「アリスくんだ。どうしたの」
 肉屋まで声をかけてくる。
 返事をしようとして、有栖は思いのほか呼吸が乱れていることに気付いた。ぜえはあしていると、マリエが野菜を仕舞っていた手を休めて、心配そうに立ち上がった。
「だ、大丈夫、です、鶏肉と、リンゴ、ください」
「ど、どうしたんですか急に、残ってるリンゴ、ありますけど……アリスさんが果物買われるの、珍しいですね」
「ちょっと、見栄を、張りたくて。それで、急いでて」
 肉屋もマリエもぽかんとした。
 肉屋が先に現実に戻ってきた。間抜けにすら見える驚いた顔を引き締め、にっこりと笑った。
「ほう、じゃあ、鶏肉、60円。なんだ、女か、年頃だな、アリスくん」
 勝手に納得した肉屋が、心なしかいつもより多めの鶏肉を、にこにこしながら袋に詰めてくれる。
「あっ、リンゴでしたね! 2つでいいですか? あっ今ジャガイモ余ってるんですよ、いかがですか?」
「あ、じゃあ、ください」
「はーい、205円です」
 マリエもいつものにこやかな看板娘スマイルを取り戻し、ジャガイモ4つとリンゴ2つを用意した。そのリンゴは確かその値段のリンゴより170円高いはずだった。
「毎度ですー」
「毎度ー。がんばりいよー」
 マリエと肉屋に大きく礼をして、有栖は家へ走って帰る。
 これ以上変な気を起こさないために、できるだけ体力を使って帰る。
 荷物が重いのが心地よかった。
 有栖は走る。だんだんと頭が冷えてくる。
 恋愛感情ではない。少しムラムラしているだけだ。他人の裸を本当に久しぶりに見たせいで、勘違いをしているだけだ。抱けるか? いろいろ無理無理、夢を見すぎだ。
 いい感じに頭が冴えたところで、有栖は自宅の鍵を開けた。
 灼はインターネットで調べ物をしているところだった。鍵の開く音に履歴を消してブラウザを閉め、ぴこぴこと玄関まで歩いて有栖を出迎えた。
「ただいま」
「おかえりなさい、アリス。何か手伝おうか」
「ああ、じゃあリンゴを剥くから、食器棚の中の左側にある水色の丸い皿を持ってきて」
「わかった」
 有栖はスニーカーを脱いで洗面所で手を洗い、うがいをした。
 灼が食器を持ってきて、有栖に手渡した。
「ありがとう、あとフォーク、棚の真ん中の引き出しに入ってるから。僕は食べないから、1本でいい」
「食べないの?」
「ああ」
「ふうん」
 灼は食器棚を漁り始める。
 有栖はナイフを取り出し、赤いリンゴに刃を宛がった。
 さく、と小気味のいい音がして、蜜を含んだ果肉が割られ、露わになる。
 それを8等分して、へたと種を取り除いて皿に乗せ、いつの間にか有栖の手元を覗き込んでいた灼に渡す。
「ありがとう、おいしそう」
「食べながら、少し話そう」
「うん」
 灼はテーブルにリンゴを運び、再びぺたんと正座した。
 有栖もテーブルに着き、「シャクってさ」と切り出した。
「うん」
「スノーホワイトって、あの服屋か?」
「うん。ドレスも軍服もスーツもドールや動物の服もあるし、服の注文も受け付けているよ」
「じゃあ、後継ぎなのか」
「んーん、兄が継ぐんだ。僕は兄に何かあったときの保険。でも兄は今年で20だから、兄が継ぐんだと思う」
「ふーん。早く帰らなくて大丈夫なのか」
「アリス、リンゴを食べても?」
「ああ、ごめん」
 灼の歯がリンゴを砕く。有栖はこれからも灼にリンゴを買ってやろうと決めた。すぐに灼が帰ってしまうであろうことは見ないふりをして、虚構のこれからに希望を持った。
「……足がよくなったら、帰る」
「そうか」
「いつまでいてもいい?」
「大家には内緒だぞ」
「オーヤ? うん」
「治るまで、居ていい」
「よかった」
 灼がリンゴを咀嚼する音だけが響く。
 灼の唇が開かれるたびに有栖の心臓は跳ねた。
(冷静に、冷静に……)
 有栖の理性と本能がせめぎあう。
 何か会話をしようと思い、有栖は灼の爪の色について訊ねた。
 手も足も真っ赤なのだ。マニキュアでも塗っているのか、と訊いてみる。
「生まれつきなんだ。僕の爪の色が灼けるような赤だったから、僕は灼という名前になったらしい」
「そうなのか。じゃあ髪も生まれつきなのか?」
「んーん、髪は黒かったみたい。あんまりスノーホワイトの家系で黒い髪っていないんだけれど、僕は黒かった。ただ、あまり周りのスノーホワイトと違うとよくないと母が思ったみたいで、生まれてすぐ脱色をした。それから少し伸びるたびに色を抜いていたから、今では体が慣れて白い毛しか生えてこなくなったんだけれど」
 そんな話をしながら灼がリンゴを平らげるのはあっという間だった。
「おいしかった、ごちそうさま、アリス」
「お粗末様」
 灼は、ふあ、とあくびをかみ殺した。
「アリス、そろそろ眠いから湯を借りたい」
「ああ、温度、いくつだっけ」
「32度」
 リンゴの皿を下げがてら風呂場へ行き、温度のパネルをいじる。ぎりぎり設定できた。
「寝間着、僕ので悪いが使ってくれ。下着は新品だから安心してほしい。あと何かあるか?」
「んーん、ありがとう。じゃあ借ります」
 脱衣所にはドアがない。灼を案内し、すぐ横の台所で背を向けて皿を洗っていると、後ろで灼が有栖を呼んだ。
「どうかしたか」
「僕の髪、もともと傷んでたけど、こんなだったっけ」
 有栖は脱衣所を覗き込む。灼は鏡の中をまじまじと見つめている。肩までの白い髪の青年が映っている。
「ああごめん、さっきブラシを通したらたくさん切れてしまったんだ。勝手なことをした、ごめん」
「んーん、いいんだけれど。さっきって?」
「灼が、カグヤってひとだと思っていたとき。足を火傷させてしまったときだな」
「ふうん。その節はごめんなさい。でも初めてで僕の相手をしてくれたのは、カグヤと、ネネと、アリスだけだ。ほかのみんなは僕のことは気持ち悪がって人外だの化け物だのって言う。助かった、ありがとう。じゃあ、今度こそ湯を借りるよ」
 灼がジャージを脱ぎ、浴室に入る。
 さて、どうやって寝たものやら。変な意味ではない。おんぼろアパートで、ソファなどといった気の利いたものは置いていない。一緒にベッドで寝るのは、少し、今の有栖では無理そうだった。
 悩んでいると、ずいぶん時間が経ったらしい、灼が「ありがとう、アリス」と血色のよくなった顔を見せた。
「ああ、どう致しまして、シャク。それで、寝る場所なんだけど」
「僕は下がいい」
 灼は即答した。
「下? 床だぞ?」
「この部屋の温度で布団を被るのは、僕には少し暑い。フローリングの床だと、冷えているから」
「そうか……ありがとう、助かる。枕は、きちんとしたのを使うといい。今カバーを替えるから」
「ありがとう」
 有栖は自分の使っていた枕のカバーを取り換え、フローリングの上にマットとシーツを敷いて、その上に置いた。自分の枕はタオルを積み重ねてそれっぽくした。
「シャク、僕は明日も朝が早いから、起きたら部屋を自由に使ってくれ。服も箪笥に入っているのを適当に選んで着ていてほしい、センスのいい服はないけど、我慢してくれ。じゃあ僕は温まってくるから」
「うん。先に寝るよ、ありがとうアリス、おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
 灼が横になる。電気を消して、有栖は湯を再度沸かして温まる。
 冷静になろうと、浴室で一発抜いた。何か想像したような気もするし、単に義務的に手を動かしただけのような気もする。よくわからない。
 ふと思い出し、灼の十二単を洗う。泥汚れくらいは落としておきたい。洗濯機にかけていいのかわからなかったので、手と湯で洗った。きれいにとはいかなかったが、泥は落とせた。
 風呂をあがると、灼は既に眠っていた。足をのばし、横向きでシーツを掴んでいた。暗い室内で、灼の白い肌と髪に刹那、見惚れる。
 踏まないように気を付けながら、ベッドに乗り、有栖も眠ることにした。
 やけに寝つきが良かった。何も思う間もなく、ふわふわとした眠りが訪れた。


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