アリスを灼く雪の白

第四章 ホワイト・ライ



 あぁ、もしもし? ボーシさん? 今電話大丈夫スか? ちょっといいスか? マジすか、あー、助かります。
 今日の待ち合わせのあれなんスけど、ちょっとあてにしてた財布を盗まれちゃって。あ、でもお代はぎりぎり用意したんで大丈夫なんスけど、愚痴らしてください。悪ぃっス。
 俺らを目の敵にしてる例の奴らが、いい財布盗んできたみたいだったんで、俺いつもの7人と保護したんスよ。奴らにワインボトルお見舞いして。まあお見舞いしたのはハナちゃんなんスけど。マジあの子おっかねえ、ワインボトルくらいで潰しやがった。
 で、俺らは悪い指は一本も触れてなくて。奴らもこれから楽しもうとしてる感じだったのと、あと状態もよかったんで、ホームに帰してやったら謝礼が出ると思って、とりあえずレシートの裏に『保護したからお礼くれてもいいんだぞ』的なこと書いてその財布に挟んどいたんっス。ちゃんとごめんねっつってことわって。
 そしたら財布が喋ったんスよ、超冷静に。正直ビビりました。高級そうな財布なのに、なんつーか、フツーだったんスよ。いや、騒がなかったし、暴れなかったし、見立て通り大物なんだなってわかったんスけど、なんつーか……よくわかんないんスけど。とにかく、財布とちょっと喋って。
 大人しくしてれば何もしない、って言うと、マジで大人しくて、ちょっとびっくりしちゃって。フツーいいトコの財布って捨て台詞のひとつでも言うじゃんスか。でもその財布、ちっともそういうのねーの。
 奴らのほうにむしり取られたんかなーとも思ったんスけど、あ、金品持ってなかったんでそう思ったんスけど、なんか家出っ子っぽい感じっつーか。諦めきってる感じが、そこだけちょっとだけ大物感しなかったんスよね。枯れてるだけなんスかね。わかんねーんスけど。
 そんでやったら色気ある仕草すんですよ。経験豊富とかと違って、ザ・素人、って感じで。俺ちょっとキましたけど、何度も言いますけど、手ぇ出してねっスから。なんか、目の流し方とか、言いなりになるトコとか、超イイ感じで、だけど、あれは経験ゼッタイねーっスわ。奴らも経験させてねっスわ。断言できます。つーかこんな話したいわけじゃなくて。俺のフェチ話なんかボーシさん聞きたくねっスよね。
 でも、ゼッタイ大物っスよ。その財布、包装が違いましたもん。っつーか、わかるんスわ。何回もあそこの売り物はさばいてきました。包装が、まあなんつーか電話で言い難いんスけど、会ったとき話します。有名なあそこの財布っスよ。つーか、ボーシさんもここまで俺が言えばわかるっしょ? 包装といえば、っつーとこの財布です。キーワードは、白、これでわかるっしょ? しょ?
 なんの話でしたっけ? あ、財布の金か。で、穏便に持ち主に財布届けて、謝礼をもらおう、ってハナちゃんが決めたんスよ。俺らも異存なくて。俺らっつってもいつもの7人で、まあ上のほうにも下のほうにも言ってないんスけど。最近問題起こす奴いるじゃねっスか。あいつらに知られたら台無しになるなって思ったんで。
 で、そしたら、財布が寝始めたんスよ。ビビりましたね。あ、こいつヤバいな、って思いました。俺つい、誰か吸わせたか、って叫んじゃったんスけど、ハナちゃんがなんかよくわかんないチェックを財布にして、寝てるだけだ、って。その財布、根性据わってんだなーと思いましたけど、俺他人事なのにその財布が心配になっちゃって。
 あと、面倒になったな、って思いました。まあ逃げ出されて俺らの顔見て、俺らを悪人扱いされるよかましだな、って思ったんで、別によかったんスけど、寝たら、歩けねーじゃねスか。セイくんが運ぶことにして、とりあえずどうすっか、って財布からちょっと手と目を離して、話し合ったんスよ。
 そしたらぁ! 戻ったら財布いなかったんスよ。ハナちゃんがしばらく起きない寝方だって言ってたんで、別にいいかなと思って、路地裏の曲がり角に財布置いて、その角曲がったとこで会議してたんスけど、いなくなってて。正直甘く見てました。だって、財布があんまり無防備だったんで、つい、皆で目ぇ離しちゃったのがいけなかったんス。
 ハナちゃんは「どうせ初めはなかったものだから仕方ない、次から気を付けよう」って言ってくれたんスけど、見張りについてたの、俺担当だったんスよ。
 ハナちゃんメンソールの煙草嫌いじゃねっスか。だから俺ちょっと離れて煙草吸ってて。いや、ハナちゃんのせいにするわけじゃなくて、俺がちょっと自分許せねーんスわ。
 ボーシさんなら、ちょっと聞いてくれるかなと思ったんで電話しました。長々とすまねっス。

「そう、別にいいよ。あとカイくん、その財布、たぶん俺の弟のとこにあるよ。今日見てきた。真っ白い財布だろ?」
「マジすか。そっス、真っ白いの。あれ、弟さん、カタギなんじゃねっしたっけ」
「たぶん、弟が置いてあったその財布、拾っていったんだ。弟は土木やってたから、人くらい簡単に担ぐからさ、偶然見かけて拾ってったんじゃないかな。どうしよう、財布連れてってもいいけど」
「マジすか、マジで? じゃあ今日っスね、財布と来てくれると助かるス。弟さんも、抵抗なければ一緒でいいんで。俺ちょっと財布のこと大切に思っちゃってるみたいで、あんまり財布に怖い思いさせたくねんスよ。あは、言ってて恥ずかし。じゃあ夜に」
「ああ、夜に」

 傍士は電話を切った。
 今日も寒い。寒くて暇だとクスリを吸いたくなる。暑くて忙しくても吸うのだからあまり関係がないのだが、今日の夜にリーダーの花、先程の電話の海など、いつもの7人で集まって、クスリを分け合うまではなんとか持たせよう、と、傍士は白い息を吐き出して、今頃は帰っているであろう弟と『財布』のほうへ歩き出した。


 灼は傍士の話を有栖にした。
「アリスのお兄さんが来て、お金を持って行ったよ」
 その日はあまりに寒かったので、有栖は肉屋でひき肉を買い、八百屋で白菜の切れ端と傷みかけのニラをもらってきて、棚の奥で眠っていた粉を取り出して肉まんを作っていた。有栖は自分が昔、料理を好きだったことを思い出していた。
 灼はそんな有栖の手元を面白そうに見ている。灼の足の赤みはもう引いていたが、痛そうにぴこぴこと歩くので、まだ痛むのかもしれない。
「そうか。何か言っていたか?」
「お薬の値段が上がって大変みたい」
「誰でも彼でもクスリの話をする癖はやめたほうがいいって言ってあるんだけど」
 有栖はため息をついて、あんを皮でくるんで蒸し器に入れた。
「アリス、悪いお薬って何? やったことがないからわからない」
「僕もやったことはないけど、一瞬気持ちよくなって、そのあとすごく苦しいらしい。詳しくは知らないんだけど、兄は、クスリを始めてから変わってしまった。僕と二人暮らしだったんだけど、兄が16のときに、お金が要るんだ、っていろいろなものを売り始めた。何かおかしいと僕は思って、兄に訊いてみたんだ。そうしたら、クスリをやっていて、お前もどうだ、って僕に錠剤を投げてよこした。僕は要らないって錠剤を投げ返した。そうか、絶対やるなよ、って兄は言って、何かまずいことがあったら俺のせいにして俺を豚箱に送ってくれ、って言っていた。クスリは悪いものだし兄もよくないんだけど、僕は兄を捨てきれなくて、13になったときに歳を問わない土木のアルバイトを始めた。最初は厳しくて兄に泣きついたりしたけど、兄はいつも、ありがとう、ってだけ言って、次第に僕も慣れてきて、稼いだお金を自然に兄に渡せるようになっていった。兄は借金だけはしないって決めているみたいで、でもスリとかカツアゲとかはやるらしいし、そのうえクスリがまわってまともに兄が考えられないときには借金にも手を出しかねない。とにかく兄はクスリで人生が狂って行った。あんまり褒められた話じゃない。そんな感じだよ」
 灼は、ふうん、と頷いて、少し考えた。
「アリスって、ひとのことを考えるのが好きなのか?」
「……うん?」
「僕のこともよくしてくれてるし、お兄さんのこともとても考えているから」
「そうか、うーん、好きというか……好きかもしれないけど、でも僕は、自分がしたことでひとのためになるのが好きなんだ。ひとのことを考える前に、自分のことを考えているんだ」
「ふうん。考えるのが好きなのか?」
「いや、あんまり考えてない」
「ふうん」
 少しの沈黙の後、タイマーが鳴いた。
「シャク、肉まんは食べたことがあるか?」
「見たことがあるから、食べたんだろうね」
「熱いのは平気か?」
「口は丈夫みたい」
 蒸し器から皿に肉まんを移し、テーブルに持っていく。
「大きい」
 灼が嬉しそうに言った。やはり食事が少ないのだろうか。一瞬卑猥なことを想像したが忘れ去ろう。
「いただきます」
「いただきます」
 有栖はできたての肉まんにかぶりついた。温まる。少し口内が痛い。火傷したかもしれない。
 灼は小さな一口を用心深くかじった。唇に付着したあんを赤い舌が拭い、「おいしい」と口角が上がった。
 まくまくと肉まんを口に押し込む音が部屋に満ちた。
 それを破ったのは、有栖の携帯電話のメールの着信だった。
 丁度食べ終えたところだった有栖は灼にことわり、メールを開く。傍士だった。
『まだ起きてる? 今日これからシャクさんを借りられないかな? アリスも一緒においでよ』
 危険な雰囲気がする。有栖が思わずしかめ面をすると、灼が心配そうに有栖を呼んだ。
「いや、大丈夫、兄さんだ。これからシャクを借りたいらしい」
「アリスは来ないの?」
「一緒でもいいってあるけど、行くのか? たぶんあんまりよくない話だぞ?」
「ボーシさんも困ってるんじゃないの? 僕に何かできるならしたい」
 有栖は考えをめぐらせた。灼のことも大切だが、傍士のことも大切だ。危険な話だと決まったわけではないし、行くだけ行ってみてもいいのだろうか。
「じゃあ、行く方向で、返事をするよ」
「うん」
 傍士にその旨を返事し、灼が肉まんを食べるのを眺める。
 最後になるかもしれない、と、縁起でもないことを考えたが、それは追い出す。
 灼は、おいしそうに肉まんを頬張っている。今はこれでいいじゃないか。
 そこで、控えめなノックが響いた。ドアベルは壊れているのだ。
「食べていていい」
 灼を残して、有栖はドアスコープを確認し、傍士だったので鍵を開けた。
「アリス、久しぶり。最近は忍び込んでばかりでごめんな」
「うん、兄さん、久しぶり。生きててよかった」
「生きてるさ」
 傍士がけたけたと笑った。肉まんを食べ終わった灼は正座したまま二人を見ていた。傍士の不可思議な雰囲気の分析をしていた。
 ありきたりな感想だった。目がおかしいのだ。けたけたと笑う傍士は、楽しそうなのに、何も見ていない。
 スノーホワイトの身内の目も大概におかしいと灼は思っていたが、それとも違う。スノーホワイトの身内は、どこか化け物じみているくらいに、興味を持つ対象が人と違う。あまりに人間離れしていて、いっそ『そういうもの』なのだと認めてしまえる。
 しかしながら傍士の目は、人間なのだ。人間なのに少しだけ違うから、おかしい。違和感がある。鍵を閉めていた自分の部屋に巧妙な空き巣が入ったときのような不可思議さがある。
「やあやあ、シャクさん、お邪魔して悪いね。それで、来てくれるということだったね。ありがとう」
「いいえ、何かお困りなんですか?」
「いやね、シャクさんをおうちに帰すと、俺の仲間がありがたいんだってさ。シャクさんはアリスの家に居たいだろうけど、できたら、いったん帰ってみてほしいんだ。いつでも遊びに来ていいからさ」
「兄さん、聞いてない」
 有栖が真面目な声で抗議した。
「アリス、ごめんな、でも、ずっとシャクさんを置いておくわけにもいかないんだろう?」
「それは、そうなんだけど……でも、シャクは今、足が悪くて」
「アリス」
 灼が有栖を呼んだ。
「ごめんなさい。足はとっくに治ってるんだ。アリスと居たくて、わざと。ボーシさん、僕、帰ります。帰る前に、会ったほうがいいひとはいますか?」
 有栖はショックを受けた顔をした。
 傍士は「話が早いな」と言ったものの、申し訳なさそうにした。
「ええと、ハナちゃんっていう子を通して、帰ってほしいんだ。シャクさん、自分でスノーホワイトのおうちを出てきたね? そのあと、悪いひとに連れて行かれるところだったんだよ。そこを、ハナちゃんがリーダーをしているグループが保護したらしい。ハナちゃんが届け出ると謝礼がもらえるだろうから、それをみんなで分け合いたいみたいなんだ」
「わかりました、では、ハナさんのところに、連れて行ってください」
「シャク、」
 有栖は乾ききった喉から声を絞り出した。
「なに、アリス?」
「……いや、なんでもない」
 言いたかったのは苦言ですらなかった。楽しかったありがとう、とか、また会いたい、とか、そういうことは、声に出そうとすると逃げて行った。そしてなぜ灼は嘘をついていた? その答えはあまりに都合がよくて、怖くて、見ないふりをした。
「アリス、ハナちゃんのところまで、お前も来いよ。心配なんだろ」
「……うん」
「あと、金が要る。あとで返しにくるつもりではいるけど、どうだろうな、ごめんな。ハナちゃんたちだけじゃなくて下のほうの人もいるから、15万くらいあるといいんだけど」
「わかった」
 有栖も諦めがついてきた。灼とは、一生添い遂げるわけにはいかない。わかっていたじゃないか。
 鍵つきの棚を開けて、貯めていた札を数える。20枚あったので、一応封筒に5枚ずつ分けて入れた。
「じゃあ、行こうか」
 傍士がマフラーで鼻を覆った。
「悪い子たちじゃないんだ、ただお金が欲しいだけなんだよ」
 有栖はダウンを羽織り、大きな袋に、洗って乾かしておいた、灼の着ていた十二単をたたんで詰めた。今は灼は有栖の服を着ている。
 灼がブーティに足を入れる。なるほど、すっかり治った足だった。


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