アリスを灼く雪の白

第六章 ア・ホワイト・エレファント



 ―――アントワネット さんの発言 最近実直くんがすっごい沈んでんのね 振られた? 振られた? 林檎も買わなくなったね? アントワネットさんハピエン主義だってちゃんと言ったよね? なにやってんの? ダメダメダメダメ諦めたらぁ! 幸せになれよぉ! 俺だってこの寒い中林檎が売れるって頑張ってんだよぉ!
 灼を送り出す朝のことだった。
 昨夜、結局持ち帰ってきた十二単に、灼は袖を通した。
 洗ってしわを伸ばしただけの十二単はもっと手入れをしてほしそうではあったが、灼が時間をかけてしっかりと着てやると嬉しそうに輝くのだ。
 有栖は遅刻するとマリエに言ってあるのであまり気に病まず、灼が自力で着付けをするのを眺めていた。
「着付けはひとにさせなかったんだな」
「スノーホワイトは服屋だから、服は自力で着させられていたんだ」
「その着物、悪いな、扱いが分からなくて、洗って伸ばしただけなんだけど」
「帰ったらちゃんとケアをするよ。それよりも洗って伸ばしてくれてありがとう、レースもきちんと伸びてるし、雨の染みも薄い。兄に怒られないで済みそうだ。あ、有栖、電話を借りられるかな、僕は着の身着のまま飛び出してきてしまって、家に連絡が取れないんだ」
「ああ、いいよ」
 有栖は携帯電話を、着付けの終わった灼に渡した。灼の指が迷いなく番号をタッチし、電話を耳に当てた。
「カグヤ、ごめん、灼だ。生きてる、なんともない。今から帰る。道がわからないんだけど……住所? ええと……ごめんアリス、代わって、住所を伝えて」
 有栖の心臓が飛び上がった。灼の身内と話す緊張と、灼が頼ってくれた嬉しさが入り混じって、少し声を上ずらせた。
「アリスと申します。住所をお伝えします……え? ああいや、こちらこそ灼さんにお世話になって……迷惑なんて! そんなことは全く! あ、それで住所ですね、ええと、」
 輝夜という男に住所を伝える。上品で穏やかな声の男だった。
(やっぱり、変に灼に手を出さないまま終われて、よかった)
 輝夜が迎えを寄越すらしい。アリスのアパートは1階なので、迎えが来たらわかるだろう。カーテンを開けた。
「シャク、あのさ」
「何? アリス」
 こうやってテーブルを挟むのも、最後だろうか。
「最後まで頼りなくて、ごめん」
「全然頼りなくないよ。アリスのごはんおいしかったし、楽しい生活ができたよ」
「いつかさ」
 有栖は唇を舐めた。
「会いに行ったら、会ってくれるかな」
「もちろんだよ」
「また一緒にたこ焼き食べたりしたい。シャク、僕は、少し寂しいみたいだ」
「寂しい?」
 灼がぱちくりとまばたきをした。
「シャクとずっと一緒に居て、シャクがにこにこしてるのが嬉しくて、シャクがおいしいって飯食ってくれるのが幸せで、だから、できたら、シャクがスノーホワイトに帰っても、連絡くれると嬉しい」
 有栖は愛用のタッグメモを取り、メールアドレスと電話番号をしたためて、灼に渡した。
「ありがとう。……僕は嬉しいけれど、アリスはきっとすぐ寂しくなくなるよ。たまたま僕だったから僕に構ってくれたけど、僕はこんなに冷たいんだから、アリスみたいなあったかい人間らしいひとには、僕は合わないんじゃないかな」
 両手で有栖の連絡先を受け取った灼の脳裏に、小さな頃から付きまとっている、身分への嫉妬から来る『化け物』という罵声が思い出された。
 有栖も少し恥ずかしくなったのと自信がなくなったのとで、「そんな深刻な話じゃなくて、気軽に連絡くれよ」と軽い雰囲気にした。
「シャクがいてくれたから、僕は料理をするようになったし、兄だってしばらく悪いこともできないだろうし。シャクは、周りをあったかくしてしまうから、自分が冷たく感じるんじゃないのか。シャクだって、人間らしいひとじゃないか」
 冗談も交えてそんなことを言ってみる。だが、その冗談は、灼の深い部分の呪縛をほどいていくものだった。
(僕が、人間……?)
 そこで、開いたカーテンの外に黒い車が止まる。
 降りてきた人物は、灼と似た服を着ていた。
「アリス、カグヤだ。じゃあ僕は行くよ。ありがとうアリス、また一緒にごはんを食べよう。今度はうちででもいいね」
 こんこんこん、と、控えめなノックが響いた。そういえばドアベルは壊れているのだ。
 玄関で灼がブーティを履き、裾を整えて有栖を振り返った。
「ありがとう、アリス。またね」
「ああ、また」
 灼がドアを開ける。それによって見えた輝夜というらしい男が、深く礼をした。
 いろいろ礼儀の尽くされたことを言われた上、茶菓子とタオルをもらったが、車に乗り込む灼の表情があまりに鮮烈で、詳しくは覚えていない。
 灼は、決して嬉しそうではなかった。
 冷えた冷えた顔をしていた。
 あの目をしていた。
 輝夜が車を出し、灼が最後に有栖に控えめに手を振っていた。
 有栖は作り笑いがつらくなり、深く頭を下げるふりをして、灼が聞いたこともないような口汚い言葉をこっそりつぶやくことで、空間に悔しさの花と虚しさのトゲと寂しさのツタを這わせた。
 その植物園から抜け出そうと手早く支度をして出勤する。
 しかしながらその植物園は、それから3日間有栖を蝕み続けた。長い長い3日間だった。
「シャク様」
「なに、カグヤ」
「車内で、お眠りになられても構いませんよ。お疲れでしょう。子守唄代わりに、ゆっくり話しましょう」
「ああ、いいね」
「車が止まっても、気にしないでお眠りになってください。到着したらわたくしとネネがきちんとお体を清めます。この件は、わたくしがきちんとしていなかったせいでシャク様はこうなったのですから、あまり思いわずらわないでください。おや、御髪が」
 輝夜の手が、早速うつらうつらと舟をこぐ灼の髪を撫でた。
 慣れたひんやりした感覚に、灼は自然と安心し、眠り始めた。
 カグヤはいつでも僕の味方だ。そう思った灼は帰ってきてまず与えられたのが味方で、ほっとしていた。
 有栖と輝夜が仲良くなれたらいい、と、よくわからない願望が生まれた。
 そして灼の脳は記憶の整理を始めた。
 熱音が灼の口に性器を突き込んだ、忘れられない夜を処理しようとする。
「ネネ、僕はもう眠いんだけれど、今日じゃないと教えられないことって何?」
 湯上り、寝間着の白い服で、自室にいた灼はまだ仕事着のままの熱音に訊ねた。
「シャク様、夜の練習をいたしましょう。シャク様はあまりご興味を持たれないようですが、これからの人生、必要なことです。……わたくしの性器を、舐めてください」
「うん? ネネ、そんな話は聞いたことがない。カグヤだってそんなことは言ったことがない」
「カグヤはこの練習に関して、わたくしに全て任せております。シャク様の体が大人になり、今が時だと思いましたもので、今日、お教えしたいのです」
「ふうん。わかった、どう舐めるの?」
「まず、わたくしの性器に触れてください」
 灼は言われた通り、既に硬く反り返っていた熱音の性器を服から取り出し、右手で持った。
「それで、扱くように。そう、そう、や、って、舌先で、先端を。そう、上手です」
 灼が言われた通りにすると、熱音は、大きく息を吐き出した。
「ネネ? 大丈夫?」
「ええ、こうなる、ものなのです。それで、口に入れてみて、ください、歯に当てず、吸うように」
 熱音の性器を口に入れると、それはびくびくと痙攣した。
 熱音の様子を窺いながら行為をしているため、灼は自然と上目遣いになる。
 目が合うと、熱音は少し笑って、眉を寄せた。
「もっと、奥まで」
 熱音の手が灼の後頭部に触れ、軽く引き寄せるように導く。
「ん、ぐ」
 灼がえずいて顔を引く。熱音はそれは止めなかった。灼が顔を離す。
「ネネ、これ、苦しいし、苦い」
「でも、知っておくべきですよ」
 灼は「ふうん」と呟いて、口の周りの唾液を拭った。
「ネネ、どういうふうにすれば、成功なの?」
「成功、してみますか? いきなりは、苦しいですよ?」
「ネネ、教えて」
 熱音は灼の顎に手をやった。
「噛まないでくださいね」
「うん」
 何も言われていないのに灼が口を開けると、熱音は困ったように笑った。
 そして、凶悪なまでに硬いそれを、遠慮なく灼の口に突き込んだ。
「んっ……!」
 灼は頭を押さえられ、激しいピストン運動が始まる。傷んだ髪が熱音につかまれ、少し千切れ、すぐに熱音の手は謝罪するように灼の髪を撫で始めた。
「シャク、様……」
 熱音がうわごとのように呟いた。息が荒い。
 灼は生理的な嫌悪感からくる吐き気に眉を寄せて耐え、息を探して鼻から声が出る。
 そして苦い終わりが訪れ、熱音には褒められた。
 だがその次の日、灼は夜中に、ひとりで家を出た。
 なぜか熱音の顔が見られなくなってしまったのだ。
 従順を絵に描いたような灼が誰にも言わずに外に出るという、輝夜の言いつけを破る行為をしたのは、初めてだったのではないか。
 灼の記憶は更にさかのぼる。
 昔から灼の世話をしていたのは輝夜で、熱音とはまだ10年に満たない付き合いだった。
 灼はなかなか熱音に懐けなかった。
 熱音は気が利くし、優しいし、教えるのも上手だし、よいのだが、なぜか灼は、熱音が怖かった。
 16を迎え、怖がっては失礼だし、身内と好き嫌いで付き合ってはならない、親睦を深めよう、と、灼は輝夜のいない日は熱音を部屋に呼ぶようになった。
 何度かそうしたら、先程の練習が行われてしまったのだ。
 この練習の件は、灼は誰にも話していない。
 灼は不意に夢の淵から浮上した。灼が居るのは懐かしい自分用のベッドで、熱音と輝夜が遠くで話しているのが聞こえる。
 いつの間にか夜だった。けれど灼は、それから更に眠ることとなり、翌日に灼が目覚めると、もう日は高かった。体は丁寧に洗われ、服も新しいものになっていた。疲れていたのだろうか、まったく記憶にない。
 そういえば腹が減っている。まるいちにち以上眠ったのだから当然だろう。朝食を求めて、灼はベッドから降り、部屋を出た。
 廊下に出ると、熱音が丁度向かってくるところだった。
「おはようございます」
 熱音が何でもないように笑った。
「おはよう」
 灼も何でもないように返した。
「食事はあるかな」
「ただいまご用意いたします。カグヤが台所におりますので連絡しておきます、どうぞ居間でお待ちください」
「わかった、ありがとう」
 熱音が深くお辞儀をした。
 居間に着くと、兄の涼がパイを食べていた。
「ああシャク、久しぶりだな、髪を切ったのか」
「リョウ兄さん、今日はお仕事は?」
「いま行くところだよ、心配いらない。ラパン・ギャルソンのパイ、お前のぶんもあるぞ。もうひとつはカグヤにでもやれ、お前は運動をしないから食べさせて放っておくと肥える。俺は肥えたスノーホワイトは見たくない」
 涼はパイの残りを口に押し込み、居間を出た。
「おはようございます。……リョウ様には、シャク様の件は、お話しておりませんので」
 焼いた銀むつとほうれん草の胡麻和え、わかめの味噌汁と白米を盆に乗せてきた輝夜が小さな声で言った。
「ありがとう、カグヤ、ごめんなさい」
「なにもいいのですよ。召し上がってください。リョウ様もこの銀むつが気に入られたようでしたよ」
「カグヤ、少し話したい」
「ええ、食事の合間にでも話しましょう」
 灼は「いただきます」と箸を持ち、味噌汁を飲んだ。わかめの火の通り具合が絶妙だった。
「カグヤ、あのね」
「ええ」
 ほうれん草の胡麻和えに箸を伸ばした。つやのあるほうれん草が、香ばしい胡麻と絡み合って、口の中で溶ける。
「アリスのところに、遊びに行きたいんだ」
「おひとりでですか?」
「迎えはあってもなくてもいい、ただ、アリスと話したい」
 銀むつは箸でつついただけで、油を流しながらほろりと崩れた。ジューシーでぷりぷりとした身だ。
「少々お時間をいただければ、手配をしましょう」
 白米はもっちりと箸に絡みつく。柔らかで、甘い。
「いいの?」
「お時間はいただきますが、叶うようにいたします。2日、お待ちください。それまでは電話やメールなども、お控えください。できる限りのことをいたしますので」
「ありがとう、カグヤ」
「いいえ。言い難いことでも、言ってみれば叶うかもしれませんよ」
 輝夜は意味深長なことを言った。
「カグヤ?」
「何か、仰れないことがありますでしょう。わたくしはいつでもお待ちしておりますので、なんでも仰ってください」
 灼は思わず黙った。ごまかすように、食べ終わった箸を置いて、「カグヤ、一緒にパイを食べよう」と言った。
「わたくしがいただいてしまってよろしいのですか? シャク様のお好きなアップルパイですのに」
「僕は兄の言うとおり運動をしないから、食べすぎてはいけないんだ」
「ではお皿とお茶、フォークを準備いたします。少々お待ちください」
「ありがとう」
 食事の済んだ皿を、カグヤが下げる。
(言えないこと)
 言えない。熱音が一生懸命教えてくれたことが嫌だったから抜け出したなんて、言えるはずがなかった。おまけに、きっかけを作ったのは灼自身なのだ。せっかく教えてもらったのだし、むしろ感謝しなければ。
 輝夜が戻ってくる。
「いただきましょうか」
「うん。いただきます」
 フォークがアップルパイを貫通する。さくり、と、快楽すら感じる感覚がフォークを伝った。
 頬張れば、リンゴの甘みとパイのバターの香りが踊る。
 有栖はアップルパイは嫌いだろうか、と考えながら、灼は、安らぎを覚えていた。
「シャク、ああよかった、シャク、少し仕事を代わってくれないか。存外今の仕事が難しい、うわの空でほかの仕事をするわけにいかない」
 パイを食べ終える頃、涼が居間に戻ってきた。
「あぁあぁ、シャク、ずいぶん破廉恥な唇にして。真っ赤だぞ」
「今食事をとったから、そのせいだと思う」
「そんなことはない。俺も経験者だからわかる。シャクお前、隠れて何かしたな、とうとう色気づいたか」
「そんな話をしに来たの?」
「ああいや、今日の食事会を代わってほしくて来たんだった。そうだな、お前がどんなに破廉恥でも俺には関係がない」
「破廉恥じゃない」
「いーや破廉恥だな」
 涼は兄が得てしてそうであるように、灼をからかって遊んでいた。
「リョウ様、あまり遊ばれますとシャク様が首を縦に動かせませんよ」
「カグヤはいつもシャクの味方をする。まあいい、シャク、頼んだぞ」
 灼の返事を待たず、涼は居間を出た。
「カグヤ、食事会って?」
 灼はどこまでも従順だった。思えば反抗期もなかったし、兄とまともな喧嘩などしたことがなかった。
「お食事をしながら、お話を楽しむ会です。今日はリューク様もいらっしゃるご予定です。覚えておいででしょうか、以前、シャク様の誕生日に手紙とコンフィチュールをくださった方なのですが」
 ああ、覚えている、日本語の上手なフランスのひとで、背が高くて、優しいひとだ。ラパン・ギャルソンのリンゴのコンフィチュールを教えてくれたのも、リューク様だった。そんなふうに、灼は覚えていた。
「覚えてる」
「リョウ様を見つけては、シャク様のことをお訊きになるそうですよ」
「ふうん……」
「ご出席になるのでしたら、ご用意をする時間です」
「うん、出るよ。食事をしながら、話をするんだね、僕が出たことのあるパーティと似たようなものかな」
「然様でございます」
「カグヤ、ネネは暇かな。カグヤには、アリスの件を頼みたいから、ネネに引き継いでほしい」
「かしこまりました」
 輝夜は深く礼をした。
「ただいまネネをお呼びしますので、このままお待ちください」


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