アリスを灼く雪の白

第七章 白璧の微瑕



「……、……さん、ねえ、シャクさん!」
 灼は自分の手のリンゴジュースを見つめながら、意識を飛ばしていた。
「あ……」
 食事会に来ていた。目の前に、彼の性格を表したような豪奢な服を着たリュークがいた。心配そうに、リンゴジュースのグラスを持った灼の手を支えている。
「大丈夫ですか?」
 辺りは、記憶にある食事会の喧騒ではなかった。新月を眺める大きな窓と大理石の床が特徴的な、静かな部屋に、リュークと灼はふたりで居るようだった。
「ごめんなさい、大丈夫です、リューク様」
 そういえば、食事会に来てから、自分はどうしていただろう。
 自分が通る道はひとが避けた。ボーイにリンゴジュースを注いでもらって、女性たちが扇で口元を隠しながらこそこそと話をすることにも慣れていた。それで、リュークは手の発泡酒がこぼれるのではないかと思うほど急いで歩いてきて、二人になりませんか、と、灼は言われた気がする。誘いを断れば涼に迷惑がかかるかもしれず、言うとおりにここへ来たようだった。遠い昔のことのように、思い出すのが大変だった。
「あんな言葉は、気になさる必要はありませんよ。リョウ様が妬ましいくせに、ぶつかっていく度胸もなく、シャクさんにしか当たり散らせないひとたちです」
「あの、僕は、なんて言われて?」
「覚えていらっしゃらないんですか?」
 リュークはリンゴの蜜のような色の目を見開いた。
「いつも通りですよ、改めて言うほどのことではありません、お気になさらないほうが」
「そんなにひどいことを言われていましたか?」
「ああいえ……化け物が来た、と。でも、だからどうという話ではありません。シャクさんが覚えていらっしゃらなくても仕方のないくだらない話です」
 ああ、また言われたのか。
 灼は遠い記憶で、確かに聞こえていたなあ、程度に思った。
「ときに。シャクさんはリンゴのジュースばかり飲まれますね」
 リュークが支えたままだった灼の手のグラスを見ながら言った。
「ええ、好きなんです」
「おいしいですよね、僕も好きです」
 リュークはフランス人らしい整った顔を笑みにゆがめた。チャーミングな笑い方だった。
「シャクさん」
 灼はおもむろに距離を詰められた。リュークは器用に灼のグラスを取り上げ、片手に自分のグラスと一緒に持つ。もう片手が、灼の頬に添えられ、親指が灼の無防備な口元の端を撫でる。灼は手のやり場に困って、リュークの胸板のシャツに落ち着かせた。
「今日は一段と、唇の赤さが肌とお召し物に映えていらっしゃいますね」
 兄も似たようなことを言っていた。自分の唇はどうしてしまったというのだろうか。
 灼はリュークの目のリンゴの蜜の中でですら赤さを主張する自分の唇を見とめた。
「紅もさしていないのに、最近変みたいなんです。どうしたんでしょう」
「心当たりはないのですか? 誰かと接吻したとか」
 なぜか有栖の顔がよぎった。
「おや、もっと赤くなった」
 灼は恥ずかしくなって目を泳がせた。
「どんな味でしたか?」
「なにが、でしょうか?」
「その接吻です」
 灼は一瞬自分が甘すぎる妄想にとらわれたのを感じた。すぐに消えたその甘美を、灼は追うことができない。
「いえ、僕は、経験が、なくて」
 リュークは驚いた様子で、目を丸くして言った。
「その唇は、接吻をご存知ないというのですか」
 リュークの視線が灼自身の唇に注ぎ込まれるのを、灼は感じる。
 頬にあった手が顎をとり、リュークが熱っぽく灼を呼ぶ。
「リューク様!」
 灼の声ではなかった。
「リューク様! 探しましたのよ!」
 色とりどりのドレスを着た女性たちが、わらわらと大理石の部屋になだれ込んでくる。
 リュークが戸惑ったように灼の体を自由にした。
「リューク様、あんな人外と何を話しこまれていらしたの?」
「きっと化け物は夜でも冷たいままですのよ、いくらリューク様がお熱でも、あんなのは」
「シャクさん、あ、シャクさ……」
 灼のグラスごと、リュークが大勢の女性たちにさらわれる。
 リュークが「またあとで」と叫んでいたが、灼はその言葉を聞いていなかった。
 心無い言葉のリフレインが脳を占めた。
 今更何を気にするのだろう。ずっと言われ続けている言葉なのに、何がこんなに苦しいのだろう。
 灼はなんとなく大理石の模様を数えた。灼の心の中を表したように難解な模様だった。
 そうしていると、熱音の声が慌てた様子で灼を呼んだ。
 灼はぼんやりと部屋の入口に駆けてきた熱音を見た。
「シャク様、こちらにいらしたのですね。リョウ様が御用に目途をお付けになったようで、こちらにいらっしゃるそうです。シャク様は退席して構わないとのことでした。……大丈夫ですか?」
「うん、大丈夫」
 答える自分の声が遠く感じた。
「では、帰りましょう」
 何か返事をしたかもしれない。しなかったかもしれない。けれど、灼は、気付くと部屋着でベッドに腰掛けていた。
 ぼんやりとカーテンの折り目を数えていると、室内の着物に着替えた熱音が、ノックの後に灼の部屋に入ってきた。
「シャク様……?」
 熱音が心配そうに灼を呼んだ。灼はふっと思い出して、熱音を近くに呼んだ。
「ネネ、あれがしたい」
「……あれ、とは?」
「前に、ネネがしたあれだよ。オーラルセックスっていうみたいだね。あれがしたい」
 有栖の家のインターネットで調べた言葉だった。
「あんなにお嫌でしたのに、どこでそのようなことをお覚えになったのですか」
「今はしたいんだ」
 熱音はしばらく迷っていたが、観念したように、服を少し乱して灼のベッドに腰掛けた。
 灼は相変わらずぼんやりとしていたが、熱音のほうはというと、良心が痛んで仕方がなかった。
 それもあって、熱音は興奮することができなかった。腰掛けた自分の足の間に陣取る灼の唇がいざ力ないままの自身に触れようとしたとき、やはり、と思い直して、灼を呼んで制止した。
「シャク様、こういったものには気分というものがあります。今晩は、申し訳ないのですが、わたくしの都合で難しいかもしれません」
「そう。残念だけれど、そういうものならまた今度お願いするよ。教えてくれてありがとう」
 熱音は息が止まりそうなほど後悔した。
 輝夜から任されているなど、もちろん嘘だ。熱音は灼を性的な目で見ていた。何度襲ってしまおうと思ったことかわからない。そう思っていたら灼のほうから部屋に誘うものだから、我慢が出来なくなった。それで。
 そうやって言い訳を内心で呟いていると、灼のほうから熱音に声をかけてきた。
「僕が食事会でうまくやれなかったことについて、何も訊かないのか」
 熱音は一瞬で世話係の心を取り戻す。
 灼は昔から、寂しかったり、悔しかったりすると、ぼんやりとする。パーティに出席するたびに、周りがこそこそと灼を罵っていたことも、熱音や輝夜は知っていた。きっとまた何か言われたのだろう。
「人間だれしも、苦手なタイプの人間はいるものですよ。シャク様はリューク様と馬が合いませんか?」
 熱音はリュークのせいでないことはわかっていた。だが、会話を引き出すにはちょうど良い。
「いや、リューク様は悪くない。それより、僕は人間なんだろうか」
 熱音が脳をめぐらせてもその問いかけの真意は計り知れなかった。自然と口から、「は」と間抜けな声が出た。
「人間ですよ」
「化け物じゃなく?」
 ああなるほど、と合点が行く。
 灼は、半端な年齢のせいもあって、スノーホワイトという化け物になりきれず、人間にもなりきれず、つらい思いをしているのかもしれない。涼のような兄があれほどまでに『スノーホワイト』であるのだから、ああならなければならないという強迫はさぞや強いものであろう。
「人間です。誰がなんと言おうと、その唇のお色がシャク様が人間であることを、シャク様に告げ続けていますでしょう?」
 熱音の問いかけに、灼は「そうだね」と呟いて、少しおいて、また「そうだね」と呟いた。
「この色が破廉恥であると知っている以上は、人間なんだろうね。化け物は、恥じないだろうから」
 灼は不意に手で布団を握りしめ、熱音に詰め寄った。
「ねえ、ネネ、僕はどうしてしまったんだろう。この唇の色を指摘されると、どうにも恥ずかしいんだ。化粧で塗りつぶしてしまいたい。でも、ネネの言うとおり、この色が僕を励ましていることも、それはそうなんだ。どうしたらいいんだろう」
 灼が食いつくように距離を詰めるので、熱音は敢えてゆっくりと口を開いた。
「今晩は、落ち着いて眠られてください。整理がつかないときは、時を置いてみるのも手段です。シャク様の唇のお色の件は、そのお色である以上、わたくしがなにか決めていいものではありません。リョウ様にご相談になれば、リョウ様はなにかご存知かも知れません。わたくしが取り次ぐことすら重い問題ですので、気をしかとお持ちになり、直接お伺いください」
 灼は「そうか、ありがとう」と呟いてから、少しの沈黙の後に熱音と目を合わせた。
「ネネ、いつもありがとう。明日は、リンゴが食べたい」
「お礼などは。では、明日はリンゴを選びに参りましょう、お供いたします」
「ありがとう。じゃあ、今日は眠るよ」
「ええ、おやすみなさい」
「おやすみなさい」
 灼は布団にもぐって、カーテンの折り目を数えるのをやめた。熱音がベッドから立ち上がるが、耳障りな音で軋むことのない良質なベッドだ。
 目を閉じると、手と足が温かくなる感覚があって、すぐに眠りについた。
 熱音は灼が寝息を立て始めたのを確認して、そっと部屋を出た。
 灼が相変わらず自分を信頼しているのが、嬉しくもあり、申し訳なくもあった。
 廊下で涼とすれ違う。
「おかえりなさいませ」
「ああ、ただいま。シャクはまた何か言われて塞いでいるのか」
「そのようですけれど、もうお眠りになりました」
「あれは随分と神経質に育った。俺がいじめすぎたかな。そのくせ、眠るのは得意なのだから、不思議なものだ。ネネ、俺の相手をしてくれないか。どうにもあの会の空気はむしゃくしゃする」
「かしこまりました」
 涼と熱音は性的な関係があるわけではない。
 けれど、涼がいちばん正直に話せるのは、灼とは対照的に、輝夜でなく、熱音だった。
「灼は恋をしたようだな」
「然様ですね」
「あれに家を出させるのは少し心配だ。あんなふうに育ってしまって、この温室を出ていけるんだろうか」
「わたくしとカグヤが既にこの温室の中でお守りしきれなかったのです、外で想えるパートナーがいらっしゃるのであれば、それも充分によい環境でしょう」
「それもそうだ。カグヤは昔からシャクの味方だし、ネネもシャクが嫌いなわけでない。何が不満で、あれは外になど出たのか」
 涼が面白そうにくつくつと笑っている。はて。なんだろうか。
「……シャクが外に出たというのは、本当だったんだな」
 そうだ。涼は、灼が外に出たのは知らないはずなのだ。
 慌てる熱音を涼は「いいんだよ」と笑う。
「いや、知ったからと言ってなにもしない。あれにはあれの生き方があるし、俺はあれが背負いきれなかった化け物として生きていく。別段不満はない。それでいいだろう」
「ええ、然様です」
「なぜカグヤは、俺にシャクに関してのことを隠そうとするのか。ああ、俺がいじめるからだな」
 涼は、くく、と笑った。
「それでもあれの唇の色は、ずいぶんといい色になった。化け物だのなんだのと言われるが、俺は今のあれの色がとても好きだ。昔の俺よりも綺麗に染まっている。あれは、俺と違って、化け物の色ではないよ」


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