アリスを灼く雪の白

第十章 白を切る



 有栖は明け方、眠ることができずに、立派なベッドの上でぼんやりと息を整えていた。
 今しがた兄に向けてしたためたメールの画面が、黄昏の中で光っていた。
 それをとうとう送信し、夜中いちども使わなかったベッドにもぐる。そこですぐに返信が来た。有栖は寝転がったままメールを開く。
『ちょうどいい』
 なにがちょうどいいのか一切記されていなかったが、有栖はぬくぬくとした布団の中で意識を手放した。
 そして派手な音が聞こえて、防音の扉を貫通するほどの騒音によって廊下が騒がしくなる。有栖は驚いて目を覚ました。部屋から出ようと思うと鍵がかかっている。
 そこで有栖の携帯電話が叫ぶ。出ると、傍士だ。
「どこ」
 傍士の問いかけの電話の遠くで、花のものであろう声が聞こえた。何を言っているのかまでは聞き取れない。
「兄さん。2階。鍵がかかってる」
「わかった」
 返事が来るなり、有栖ががちゃがちゃと揺すっていたドアが震えるほどの振動が起こる。しかし有栖の部屋ではない。灼の部屋だろうか。
「たぶんその隣」
「OK」
 有栖の部屋の扉に何か重いものがぶつかる。有栖は慌てて距離をとる。
 直後、乾いた音がした。発砲音だろうか。そして無気味な静寂があった。
 何秒経ったかわからない。破ったのは近寄ってくるパトカーのサイレンだった。
 何人か走り去るような音がして、有栖の部屋の窓にも赤色灯が反射する。外を見ると、赤い光が細胞分裂のように増えていく。
「アリス」
 走っているらしい兄の声に、有栖は現実に戻ってきた。
「自分の兄からくらい、好きな奴を護れよ」
 電話が切れる。警官がパトカーから降り、屋敷に続々と入ってくる。
 兄は、逃げられただろうか。有栖が呆然と窓にへばりついていると、こんこんこん、とノックがあって、錠の開く音がした。
「アリスさん」
 リュークだった。
「大変失礼いたしました。諸事情ありまして、警察のかたが話を知りたいと」
 後ろから警官が入ってきて、部屋中の写真を撮り始めた。有栖の処理したティッシュペーパーが写真に写るのは恥ずかしかったが、今更仕方ない。
 手際のいい警官の姿を見ながら、有栖は自分の送ったメールを思い出していた。
『兄さん、男性を好きになってしまった。この前の財布、灼と、今、リュークってひとの家に居る。とても立派な家だ。隣の部屋に灼がいるというだけで、興奮してしまう。変なリンゴのジュースを飲まされたせいもあるかもしれない。でも、抜いても抜いても、頭の中にあるのは灼の顔と体と声なんだ。どうしたらいいかな』
 それに対する返信は、『ちょうどいい。リンゴが欲しかったんだよなあ』というものだった。有栖は、傍士はまたきっと薬でらりぱっぱなのだろうと思っていた。しかし違ったようだ。リンゴと薬は、どうやら関係がある。先程から、警官はテーブルの上のリンゴジュースのボトルを入念に調べている。
 そう思っているうちに調べ終わったらしく、警官は何も言わずに帰っていった。
 警官が去ると、入れ替わりのようにリュークが有栖に声をかけた。
「アリスさん、シャクさんですが」
「はい」
 有栖は全身が緊張した。灼は、今、なにを? 昨夜、なにを?
「まだお眠りなので、お目覚めになりましたら、一緒にお帰りいただいて結構です。無粋な真似をして申し訳ありません。あの、この件は、内密にお願いできませんか。こちらも、そちらのお兄様の件を口外しませんので」
 脅している雰囲気ではなかった。どこか哀しげなほど、落ち着いた声だった。
「兄は、なんと?」
「お兄様とご一緒だったかた含めて7名のかたは、色リンゴを原料とする麻薬について、ご存知でした。あれは加工しなければ少し気持ちよくなるくらいですが、加工してしまえば規制のかかるリンゴなんです。それを大量に所持していることを公にしたくなければ、アリスさんとシャクさんを自由に、とのことでした。警察のかたには、お願いをして帰っていただきました。この件は、どうか」
 リュークが深く体を折って礼をした。なぜ彼はこんなにも、哀しげなのだろう。
「ええ、わかりました」
「シャクさんは、隣室でお眠りです」
 リュークは体を起こし、部屋の鍵を有栖に渡して、部屋を後にした。
 有栖はそれを見送り、震える手で灼の部屋の鍵を外した。後ろ手にドアを閉めて、ベッドの天蓋をそっとくぐる。ベッドは布団で盛り上がっており、顔まで隠れて、よく眠っているようだ。
 顔だけでもみたかったため、ベッドに腰掛けて端を少しめくってみる。灼の両手首がベルトでまとめられている。
 有栖は驚いて立ち上がってしまった。礼儀も何もなく、布団をはぎ取る。一糸まとわぬ姿で、横向きに横たわり、灼は両手同士、脚の太ももと足首を片足ずつをベルトで留められていた。体中にキスマークが散っている。しかしながら灼は気持ちよさそうにすうすうと眠っていた。
「シャク、シャク!」
 思わず有栖は灼の体を揺さぶっていた。
「んーなにカグヤ、まだ眠い」
「僕だ! アリスだ! シャク!」
「んー……」
 灼が眉を寄せ、目を開く。
「アリス……?」
「そうだ、アリスだ、シャク、大丈夫か」
「んー、お尻が痛い」
 灼は目が覚めきらないようで、眠たげな目線を時折擦りながら有栖に投げている。
「見せてくれ」
「嫌だ。そんなつもりで言ったんじゃない」
「いいから」
 焦れ、有無を言わせず縛られたままの灼の脚を割り開くと、尻の谷間を伝って綿に精液が伝った。
「そんな……」
 絶句する有栖にも、灼は動じずに眠そうに言う。
「アリス、どうしたの、そんなにひどいのか? そこまで痛くはない」
「これは、リュークさんに……?」
「うん。リュークさんが僕を知りたいと仰って、僕もそれを許した」
 あっけらかんと灼は言う。
「許したって……シャクはリュークさんのことが……?」
 沈黙があった。
「アリス、どういうことだ?」
「何がだ?」
「体の関係を持っただけだ。リュークさんもそんなに深刻にとらえなかった。僕が初めてだったから、いろいろ教えてくれた。どうしてそんな顔をするんだ」
 有栖は自分の表情までは想像できなかった。
「本当に好きなのか」
「好き、って?」
「関係を持つくらい、好きなのか?」
 有栖はどす黒い思いが体を満たしていくのが分かった。
「そうでもない。優しいひとだし、いいんだけど、それ以上に好きなわけじゃない」
「じゃあ、そんなの許しちゃだめだ」
 灼が眉をひそめる。
「アリス、どうしたの」
 まったく理解できない、と言いたげな灼に、有栖の想いは決壊した。
「僕がシャクを好きで好きで仕方ないのに許されないのはなぜなんだ?」
「アリスもこういうことをしたいの?」
「したい。もっと穏便にだけど、したい」
「僕は冷たいよ? リュークさんも僕が冷たかったとき、とても嬉しかったみたい。僕は化け物として愛されるしかないんだ。アリスもそういうのが好きなのか?」
「そうじゃない」
「じゃあなんで僕に構うの」
 寂しいほど穏やかで静かな声だった。空気が冷える。
 そうだ。いちばんつらいのは、シャクだ。僕がこんなふうに声を荒げても、何の解決にもならない。
 有栖はそう思うや否や、言葉を失った。
 それをどう解釈したのか、灼が口を開いた。
「ごめん。アリスは悪くない」
 ごめん、は、こちらの言葉だ。今は、シャクをケアしなければ。シャクだって、人間だ。つらい思いは、昇華しなければ。
「僕の家へ、帰ろう、シャク」
 有栖はなんとか言葉を取り戻し、そう呟くように言う。
 灼の拘束具を外していく。
 冷たい肌だった。
「シャク、体を起こしてくれ」
「うん」
 拘束具を外し終え、灼の体を抱きかかえるように支えて体を起こさせる。
「う」
 有栖の服の胸元を握って、灼がうめく。
「そう、灼、ちゃんと出さないと」
「アリス、気持ちが悪い」
「少し、我慢してくれ」
 精液を抜かないといけない。有栖は伝え聞いた知識で、灼が白い蜜をあふれさせるそこに指を入れた。
「ん……」
 灼の色っぽい声に変な気分になりそうなのを必死に押しとどめる。
 確かにひんやりしている中の粘つく感触を、外にかき出していく。
「アリ、ス……」
「変な声を出さないでくれ、僕も変な気分になる」
「ごめんなさい、でも、そこ、あまり触らないで」
 灼が有栖の鎖骨に顔をぐりぐりと押し付けている。
(今後の勉強になる……じゃない、それどころじゃない)
 感じる場所なのかもしれない。そこをなるべく避けて、なんとか中のべたつきを困らない程度にした。
「帰ったら中を洗おうか」
「嫌だ」
「冗談だよ。帰ろう、シャク」
 シーツで手を拭い、有栖は体を起こして、布団の下に綺麗に折りたたまれていた、灼の着てきた服を取ってやった。
 灼は頷いて、服を着た。
 着終わる頃に、有栖の携帯電話が呼んだ。知らない番号だった。
「シャク、少しごめん」
「うん、構わない」
 有栖が用心深く通話を始めると、「もしぇもしぇー!?」という頭の悪そうな大声が聴こえた。
「弟さん? お財布さん居ます? 海ですぅー、あ、この前の不良ですぅー。いまボーシさんに代わりますねー」
 ごそりごそりと音がする。
「アリス?」
「兄さん」
「帰れるようなら、バイクに乗せていこうか」
「いまどこなんだ」
「裏門にくっついてる」
「わかった、向かう」
 灼が着替え終わったため、一緒にバイクで帰ることを提案すると、灼は面白がって笑ってくれた。
 灼を連れて廊下に出たときに、なんとなく手を繋いでみた。
「アリス、寒くないの?」
「そうだな、寒いな」
「手、離してよ」
「嫌だ」
「溶ける」
 有栖は仕方なく手を離した。
 灼は代わりのように、有栖の腕を抱き締めるように絡みついてきた。
「あったかい」
 有栖の台詞だった。
「うそつき」
「本当だ」
「僕はあったかいけど」
「だからだよ」
 有栖の胸の辺りが温かい。
 灼はよくわからないという顔をして、まじまじと有栖を見、すぐ顔をそらした。
「あーっ! あーっ!」
 裏門に着くと、海が大声で有栖と灼を指差して叫んだ。
「カイくん、落ち着こう」
「だってハナちゃん、俺の財布」
「あんまりハナちゃん怒らせっと、こええぞ?」
「だってセイくん……」
 星と呼ばれたメッシュの中年男が海の頭にげんこつを落とした。海が「あいてっ」と呟いた。
「じゃあ、帰ろうよう。あ、スノーホワイトさん、これメットです。わたし使わないのでどうぞ。煙草臭かったらごめんなさい。あとフウくんのメット、弟さんどうぞ。わたしたちが先に帰るので、速度守って帰ってきてください。お代いらないです、さっきここのお宅からいっぱいもらったので。じゃあまたあとで」
 言った花は風のバイクの後ろにまたがり、ゴーサインを出すと7人の6台のバイクが静かに走り出した。静かだが、速い。すぐに見えなくなった。
「じゃあ、帰ろう、アリス」
 灼のほうから有栖に「帰ろう」と言ったのが有栖にはたまらなく嬉しくて、るんるんと自分と灼にヘルメットを装着し、バイクにまたがった。
 そうすると灼が後ろにまたがり、先程の花の真似であろう、前の運転手の有栖の腹に両腕を回し、ぴったりと密着してくるものだから、有栖はどうしたらいいかわからなくなり、一気にアクセルをふかした。
 本当に静かなバイクだった。
 心臓の音が、後ろの灼に聞こえてしまいそうだった。


Copyright(C)2017 Maga Sashita All rights reserved. designed by flower&clover
inserted by FC2 system