アリスを灼く雪の白

第十三章 白濁



 結婚式の撮影も、リュークと再度顔を合わせるのも緊張したが、特に何事もなく家に帰ってきた。
「リュークさんの料理は、おいしいんだな」
「うん、フランスで料理で有名になって、今はいろんな国で引っ張りだこのひとだよ」
 そんな感想を言い合う程度に、有栖と灼はリラックスできていた。傍士の件を忘れたわけではない。けれど、変な気分の落ち着かなさは見えにくくなっていた。
「明日は仕事に行くから、今日はもう休みたい」
「うん、アリス、今日もありがとう」
「こちらこそ」
 灼は有栖の寝間着を借り、風呂場へ行った。
 有栖はベッドにどすんと寝転がり、初めて灼と話したときのような胸の高鳴りに襲われていた。
(結婚、か)
 結婚といったら、まず式でキスをするだろう。あの、赤い赤い唇に、自分の平凡な唇が触れてもいいものなのだろうか。そういえば、灼の唇は、出会ったころよりもずっと赤い。可愛らしさに拍車がかかった。紅をさす灼を想像して、どうしようもなく興奮した。有栖のために紅を手に取る灼が、筆で唇を撫でる。それだけのことが、たまらなくどきどきするのだ。
「アリス、ありがとう」
 灼が風呂場から、頬を充分に温まった色にして帰ってきた。
「じゃあ、僕も入ってくる。今日はシャク、どこで寝る?」
「一緒に」
「わかった」
 何のてらいもなく、一緒に寝ると言う灼は、有栖が手を出したらどんな顔をするのだろう。その妄想は甘くもあり、苦くもあった。もしかしたら喜んでくれるかもしれず、もしかしたら淡く灯った恋愛感情のようなものを壊してしまうかも知れなかった。
 風呂を有栖の温度に沸かしなおし、服を脱ぐ。体を洗う。湯に浸かる。そんな行為のあいだ全部、頭の中は灼のことで埋め尽くされていた。
 髪を乾かして、灼の元に戻る。もう寝ているかと思ったが、灼は部屋の隅で禅を組んでいた。有栖の足音に、閉じていた目を開けて、立ち上がった。
「どうしたんだ?」
「落ち着かなくて」
 灼の頬はまだ赤さを色濃くにじませていた。
「ねえ、アリス」
 灼が有栖との距離を詰め、後ずさった有栖の背が壁に当たる。灼は構わず有栖の胸に手を置いた。
「アリス、どうしたらいいんだろう。どきどきして仕方がない。兄には破廉恥だと言われた。アリスに会ってから、僕はおかしい」
 珍しくまくしたてる灼の頬に誘われ、キスを誘うつもりで手を当ててみる。そこでびっくりしてしまった。冷たくない。
「熱、測ってみるか? 頬が冷たくない。熱でもあるんじゃないか」
「測る」
 灼が体を離した。有栖は耳元で鳴る心音をなんとか落ち着けて、引き出しから体温計を出して灼に渡した。
 とても興奮していた。寝間着越しに自分に灼のほうから触れてきた。触れられた胸が、冷たいどころか、熱いようだ。
 ピ、と体温計が任務完了の音を立てた。
「大丈夫か?」
「うん……26度4分。風呂上がりだし、平熱だ」
 灼が困ったように言う。自分に何が起きているのかわからないのが怖いのかもしれない。
 けれど、怖いのは有栖も一緒だった。いま下手に灼に触れてしまったら、せっかくの関係を台無しにしてしまいそうだった。
「とりあえず、寝てみよう、シャク。唇の紅は落とさなくていいのか?」
「アリス、これは紅じゃないんだ。アリスに会ってから、おかしいんだ。さっき鏡を見たら、唇が見たこともないほど真っ赤だった。この色を兄は破廉恥だと言ったんだ。僕はどうしてしまったんだろう」
 有栖は、一瞬息を詰めて、すぐに吐いた。心臓が口から出るかと思った。そして今度は有栖のほうから灼との距離を詰め、わずかに見上げてくる灼の頬に、今度こそキスをするつもりで腹をくくって触れた。
 しかし、勇気は長くはもたなかった。「唇に触れても?」と訊ねると、「お願い」と灼は目を閉じた。そこで口づけてしまえるほど、有栖は場馴れしていなかった。キスを待つような顔だったのだが、あまりに綺麗で、自分の唇がその芸術に触れるのが許されるとは思えなかった。
 けれど、せっかく目を閉じてもらったのだし、と、試しに有栖は灼の唇を人差し指で撫でる。灼が小さく鼻から声を出した。
「アリス、なんだか、変な気持ちだ」
「変?」
「アリスとハグをしたい」
「溶けるんじゃないか」
 ああ、なぜ自分はこんなにも下手なのだろう。有栖は嘆く。
「じゃあ、アリスとキスがしたい」
 灼が有栖の首に腕を回し、顔を近付けてくる。
「だめだ」
 有栖は意識しないままその拒絶をした。灼が寂しそうに動きを止め、静かに離れて「ごめんなさい」と呟く。
「今は。今はだめだ。もう少し、落ち着いてからしよう。僕もシャクとハグをしたいしキスをしたい。でも、今はだめだ」
 何を言っているのか自分でもわからなかった。しかしながら、不思議なことに本心だった。こうなったことは幸せで仕方ないくらいだが、いざ本番となると、踏ん切りがつかない。
「いつならいい?」
「もう少ししたら」
「ふうん」
 灼は意外とすんなりと身を引き、有栖を置いてベッドに寝転がった。
「寝よう、アリス」
「ああ」
 有栖も電気を消して、灼の隣に寝転がる。
 すると、灼が有栖の上に馬乗りになった。
「アリス」
 灼は泣きそうな声で有栖を呼んだ。
「アリス、僕はどうしたらいいんだろう。アリスは明日早いのにごめんなさい。でも、僕もどうしたらいいかわからない。アリス、お願い、僕とキスをして」
 有栖はとうとう耐え切れなくなった。馬乗りになっている灼の体を強く抱き寄せて、腕の中におさまった体を今度は下にして有栖のほうが馬乗りになる。
「アリス」
 呼ばれて、ふっと我に返った。有栖は自分が怖くなった。動けなくなった。けれど、灼は、有栖の体に腕を回す。回した腕と腹筋で起き上がり、有栖の頬に唇を寄せた。
 有栖は何も言うことができない。欲しい、だめだ、欲しい、だめだ。そんな問答が心を占める。
「アリス、ごめんなさい。眠ろう」
「……ああ。シャク、ごめん」
「アリスは悪くない。僕がわがままを言ってしまった」
 灼の腕がほどかれ、体が離れる。有栖は馬乗りの体勢から、灼の隣に寝転がり直す。
「シャク」
 声をかけ、灼の頭の後ろに手のひらを宛がい、引き寄せた。
 唇同士が軽く触れる。すぐに離れる。
 灼が「ありがとう」と呟いた。
 有栖はゆっくりまばたきをした。すると、いつの間にかカーテンの外が明るい。眠ってしまったようだ。すぐ横で灼が寝息を立てている。
 ……灼は、深く眠るから、多少のことはわからないだろう。
 そんなずるい思いがこみ上げ、有栖は灼に口づけた。今度は喰らうように、深く舌を差し込む。灼が苦しそうな声を上げた。でも、どうせまだ眠っているだろう。強く吸い、貪る。灼の口の中を舐め、何度も角度を変えながら、今まで喰らっていたお預けを発散するように長いキスをする。
 唇を離す。目線が絡まる。
「アリス……」
 すっと体が冷えた。起こしてしまった。それはそうだ、あんなに呼吸を邪魔されて、眠っていられるわけがない。
「今の、気持ちがいい」
 灼はふんわりと微笑んだ。そしてそのまま再び眠りについた。
(寝ぼけて忘れてくれないかな……)
 初めて万引きでもしたかのような気分で、有栖はベッドから起きた。着替えて、出勤する。
「あっ! アリスさん! 見ましたよ! 広告の写真!」
 マリエが食らいつくように、有栖の顔を見るなり言った。
「勝手にすみません、副業にする気はなくて」
「いえ! どうぞ副業なさってください! けしから……えーと、かわい……いや、素敵なお写真でした!」
 なんだか照れくさい。
「今日は、なんですけど、なんだか、スノーホワイトのひとが、うちで林檎を買っているって言ってくれたみたいなんです。混むと思います。がんばりましょう!」
「はい!」
「あっアリスくんアリスくん、ちょっとこっち」
 肉屋が有栖を呼んだ。
「なんでしょう」
「これやる」
 肉屋の影のほうに呼ばれ、ついていくと、キャンディの袋のようなものを2つ渡された。
「ポッケにしまっときな、がんばりいよ」
 ゴムだと気付くと、有栖は小恥ずかしくなって、けれど準備をしておきたかったのは事実なので、小さな声で「ありがとうございます」と伝えた。
 肉屋が「うーしやるぞー!」と有栖の背を思い切り叩いた。
「隣だからついでに売れないかなあ」
「売れると思いますよ!」
 マリエと肉屋はそんな会話を交わしている。
 有栖もぴたんと頬を叩き、やる気を出した。
 その頃、灼は体の火照りに悩まされていた。リュークのところで感じたものと似ているが、あれよりもずっと優しい。
(風呂場、借りていいかな……)
 灼は服を脱ぎ棄て、風呂場のタイルを背に、床に腰掛けた。ひんやりと冷えた温度は、灼の体が熱を孕んでいることを灼に知らしめた。
「アリス」
 呼ぶたびに、体にねっとりとした感覚が溜まっていく。
 灼は目を閉じ、脚の間に触れた。熱く、硬くなっていた。
「アリス、触って」
 有栖は、ためらうだろう。そのあと、控えめに触れるだろう。そのまたあと、自分が足りないと言えば、熱くなったここを、強く扱いてくれるに違いない。
「んあぁ……アリス、アリス、もっと、もっとっ……い、や……ちゃんと、して、アリス、どうしたらいいの、わからない、ちゃんと、気持ちよく、して、よ……さっきのキス、もういっかいして」
 満たされない唇が何度も有栖を呼ぶ。
 そういえば、リュークが演じた有栖は、もっと奥、ここに指を入れていた。それをなぞるように、灼は指を入れた。中を掻きまわすように、少しずつ奥へ入れていく。すると、指が探り当てた。
「はぁあん! あ、あっあ、あぁあ!」
 中のいい場所を自分の指が押すと、声が溢れる。
「だめ、だめ、アリス、全然、足りない、もっと、あ、もっと、欲しい……」
 ぐいぐいと乱暴なほどそこを刺激する。体がびくびくと跳ねた。
「ぁあ! っう、んん! アリス、お願い、あ、あああっ! あ、アリス、アリス、アリス……」
 高まった体は指をきつく締め付ける。けれどそのまま中をいじり続けていると、波のような感覚が襲ってきた。
「ん、う……アリス、んあ、アリス、なんか、変、アリス……アリス、なんか、あ、ごめんなさい、ごめんなさい、我慢、できな……あ、ああっ、あ……嫌、アリス、アリス……!」
 初めての自慰行為ではうまく達することができない。有栖を呼び、どうしたらいいのか問い、答えのないことに戸惑って、それでも体は追い立てられて、苦しい感覚に灼は前に触れた。
「うぁ、アリス、そこ、だめ、なんか、なんか変、アリス、アリス! 嫌、嫌……このまま、していいの……? アリス、わかんない、でも、もう、もうっ……あ、ああぁあ! っああ!」
 体が激しく痙攣し、白い蜜が灼の手を汚した。
 ひとしきり息を整え、指を引き抜くと、虚脱感に襲われた。
 だるい体でシャワーの水を浴び、白濁を洗い流す。体を拭いて部屋に戻り、服を着た。
 ベッドに横になり、有栖の匂いを吸い込むと、なんだか安心してしまって、眠ってしまった。
 灼が眠ったころ、有栖の仕事は、まだ13時だというのに終わってしまった。品切れなのだ。
「もっと仕入れておけばよかった……アリスさん、あがってください。こんなきれいに売れたの、初めてです」
 マリエが忙しさの疲れを少しだけにじませながら、そう言った。
「じゃあ、お疲れ様です」
「はい、お疲れ様です」
「毎度! あーアリスくん、お疲れ様ー」
 丁度最後のカモ肉を売り切った肉屋まで挨拶に加わり、有栖は荷物をもって商店街から出た。
 すると、見紛うことのない服を着た男が向かってくる。輝夜だ。
「こんにちは、アリス様」
「こんにちは」
「もう店仕舞いですか?」
「はい、売り切れてしまったので」
「そうでしたか」
 輝夜は少し考えた。
「どうかしましたか?」
 有栖が声をかけると、輝夜は困って笑った。
「リョウ様が、アリス様とシャク様ふたりでマリエ様の八百屋を手伝えれば、もっと客足が伸びるのではないかと仰ったので、交渉に行くつもりだったのです」
「じゃあ、シャクを連れて、行きますか?」
「よろしいのですか?」
「はい。いま呼んできます」
「お願いいたします。ここでお待ちしております」
 輝夜が静かに礼をした。
 有栖は走って家に戻り、玄関から灼を呼んだ。
「アリス!」
 ベッドに寝転がっていた灼が嬉しそうに飛び起き、玄関まで走ってきた。
 輝夜の話を伝えると、灼は面白がって「やってみたい」と言った。
 着の身着のまま有栖の家を出て歩く道すがら、灼は「あのね」と切り出した。
「アリスと、もういっかいキスをしたいから、帰ったらどうしたらいいか教えて」


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