アリスを灼く雪の白

熱帯夜、溶けないように



 茹だるようだと言ってしまえばそれまでであるが、灼にとっては熱湯風呂もいいところだろう。5月後半からだろうか、有栖が起きると灼が廊下に這い出てフローリングの冷たさを追いかけるように伸びているのを目にすることが多くなった。
 有栖は灼に水風呂に入ることを提案し、それでしばらく持ちこたえていたようだった。
 保冷剤を首に当てて眠ることを覚えたのもこの頃だった。
 6月後半になると、床に就く時間もまだ気温が下がりきらない。灼はじっと横たわることもつらいようだった。
 眠るのが得意なあの灼が、くまをこしらえはじめたのもこの頃だ。
 有栖は扇風機もクーラーも持っていなかったため、これは由々しき問題だった。
 灼が何か文句を言ってくることは一切なかったが、有栖と離れるのを嫌がる灼が無理をしているのは明らかだった。
「暑いな」
「そうだね」
 有栖がそう投げかければ肯定が返ってくるが、灼は自分からは不自然なほどその話題を振らない。
 灼が夜中に何度も保冷剤を取り換えにベッドから冷凍庫へ抜け出す日々が続いた。
 7月に入った。灼はとうとう、有栖に朝と休憩の時間の水風呂の許可を求めた。
 灼にとってそれは敗北だったらしい。深いお辞儀と謝罪があった。気にするなと抱き締めようとして、有栖は自分の手のひらの温度が気温より高いことを思い出した。
 そしてある夜、ふっと気づいた。クーラーは買えなくとも、扇風機くらいならなんとかならないものだろうか。
 灼が長い水風呂に浸かっている間に、有栖はパソコンを開いた。扇風機のページを見てみる。
(これくらいなら、払えるかもしれない……)
 近々電器屋へ行こうと決めて、ページを閉じようとすると、マウスが有栖の汗で暴走し、よくわからない広告をクリックしてしまった。
 導かれたのは、ウォーターベッドのページだった。ゼロの桁が違う。
 けれど、灼が快適に眠るには、扇風機よりもずっと確かな方法だろうとはっきり思われた。扇風機は、もしかしたら灼にとっては熱風生産機かもしれないのだ。ウォーターベッドは水温を調節できる。
 有栖は無心にページをスクロールした。どこかに500円くらいで、ウォーター枕くらいでいいから売っていないだろうか。
 しかしながら、どこの特価でもその夢は叶わなかった。
 灼がいつの間にか水風呂から上がり、けれど有栖を邪魔したくなかったのだろう、じっとそこに立って窓から外を見ていたが、灼の微細な体重移動でフローリングが軋んで、有栖は弾かれたように灼に気付いた。
「あ……ごめん、シャク」
「ううん。とても一生懸命だったから」
 ここで灼にこのページを見せたら、きっと遠慮してしまう。
 そして灼は決して何を見ていたか訊かないだろう。
「暑いな」
「そうだね」
 けれど、この状況を打破するにはどうにせよ灼に訊かないと始まらないのだ。
 有栖は履歴からウォーターベッドのページを開いた。
「シャク、少しこれを見て」
「うん」
 灼をパソコンの前に座らせる。灼の座椅子は決まっていて、子供用の浮き輪に水を詰めたものだ。フリーマーケットの30円で有栖がひらめいた発明品だ。灼はひんやりして気持ちいいと言っていた。あれと同じだと言ったら、もしかしたら遠慮の扉の鍵が開くかもしれない。
「最近はとても暑いから、こういうのがあれば、シャクは寝やすいかと思うんだ」
「ふうん。少し見てもいい?」
「ああ」
 灼はスクロールを4回した。そしてすぐ「アリスが欲しいのでなければ、僕はあまり必要とはしない」と言う。
「夜、寝づらいだろう、僕も思うくらい暑いんだから、シャクはもっとつらいだろう」
「うん。でも、これは冷たくなるベッドだから、アリスは寒いんじゃないか」
「僕は今ある寝具でいい」
「もし本当にそれが購入の理由なら僕が嫌だ」
 灼がはっきりと言った。
「ねえアリス、僕はアリスと寝たいんだ。僕が寝付けないのは確かに暑いからだ。でも、アリスと寝る暑い夜はあり得ても、アリスのいない快適な夜というのはもう僕にはないんだ。アリスがいて初めて、快適な夜が生まれるんだ。せっかく心を遣ってもらったのにごめんなさい。でも、僕はアリスと寝たい」
 灼の言い回しは有栖に落胆を与えないものだった。それどころか、条件が絞られたため更なる案を引き出させられた。
「そうか。じゃあ、これはどうだろう。扇風機で、ああわからないか、ええと、ひんやりした風を起こす機械で、とても小さい。ベッドの横に置ける」
「僕はそれがあればうまく眠れるかもしれない。けれど、アリス、無理はしないで」
「値段か? きゅうり5本と同じくらいだよ」
「大丈夫なの?」
「ああ」
「じゃあ、近々電器屋へ行こう。シャクは電器屋へ行ったことは?」
「ないよ」
「一緒に来ないか」
「行きたい」
 その日は暑いまま寝た。夜中に灼がその旨を輝夜にメールで自慢したらしい。翌朝有栖が起きると有栖宛にメールが届いていた。
 灼が炎天下を歩くのは心配なので、車で送り迎えをさせてほしいとのことだった。
 無論構わない。むしろ有栖だってこの炎天下を歩きたくはない。素直に甘え、仕事を終えると、すっかり見慣れた立派な車が迷惑にならない通りに停まっていた。世間話を交えながら、ゆっくりと車が発進する。輝夜には頭が上がらない。
 そして手に入れたのは100円の扇風機だった。ビニールの3枚の羽は3つの電池でくるくる回る。灼は面白がって、布団に入るなりすぐに電源を入れた。優しい風が灼の頬を通る。首に当てた保冷剤の冷気が広がるような感じがして、とても気持ちがいい。
 その夜は、有栖も風の恩恵にあずかったため、とてもよく眠れた。
 ふたりともが目覚まし時計に起こされるのは久しぶりのことだった。


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