おいしいものを食べたいね

第一章 ファストフード



 僕を例えるならば、ファストフードです。床に無造作に置かれた鞄からはみ出した彼の履歴書がクリアファイルから覗いていて、そう書いてある。ついもっと読もうとした。
「ミビヤさん、コピー機、借りますね」
 そう声をかけられて視線を彼の顔まで上げる。どうぞ。答えている間に彼は鞄を置き直した。履歴書が見えなくなる。彼は、そういうひとだ。
 俺達の履歴書でも思い返しながら、彼のコピーが終わるのを待つことにする。



 あのときも、俺は深夜にこのコンビニエンスストアでアルバイトをしていた。細い月がよく見える晴れた秋の夜だった。このコンビニはきらびやかな大通りに面しているため、星は見えない。
「いらっしゃいませー」
 6年前、深夜23時55分のことだった。まず俺は入店してきたその男に目を奪われた。身長が185センチメートル以上はありそうな痩せた男だ。銀のジッパーが縦横無尽に走る黒いジャケット、だぼっとしてダメージだらけの黒いボトムに、ただでさえ高い背なのに厚底のブーツを履いていた。それに悲劇的なまでに美形だった。こんな顔に生まれていたら、俺もこんなふうに金髪に紫のメッシュを入れようと思ったかもしれない。全体的にきちんとしているとは言えない。しかしながら、服のダメージ部分にはデザイン性を感じさせる赤のチェックが覗いていたし、髪もきちんとワックスで立てており、ブーツはいくつもあるシルバーの留め具まできちんと磨かれているのがわかる。きつめの顔立ちも、よく見るとオレンジのカラーコンタクトレンズが入っていたり、アイラインをひいていたり、凝っている。
「……らっしゃ……ヅキ様! いらっしゃいませ!」
 横でハンコの日付を確認していたサトウが、生返事をしかけて言い直した。男のことを知っているようだ。それに、『ヅキ様』のイントネーションが『函館』と一緒だ。親しいか、あるいはそのヅキ様が、俺の知らない有名人なのかどちらかだろう。
「仕事増やして悪いな、サトウ。なんかとりあえず甘いの。あと廃棄近いやつあったら買ってくよ」
「ありがとうございます!」
 サトウはとても嬉しそうだ。なんだなんだ、いつになくサトウが輝いている。バンドマンかビューティシャンと恋愛する女子のようだ。もともとサトウは俺より年上なのに俺より童顔だし、背も低い。あのヅキ様とかいう自他ともに認めるであろうイケメンと並ぶと、いわゆる抱き締めやすい身長差というものが当てはまりそうだ。
「ヅキ様、甘いの、珍しいですね。どんなのお好きでしたっけ」
「あーできたらノンカフェインの眠たくなるやつ。菓子でも何でもいい、腹が膨れたら眠くなるんじゃねえの。こいつ寝かせないと帰れない」
「先輩、モカお願いします」
「かしこまりましたー」
 手早くモカを用意して、ドアの近くのレジで応対していたサトウのほうへ持っていく。サトウは俺を、先輩、と呼ぶ。サトウより先にこのコンビニエンスストア、ハイシティで働き始めたからだ。俺はそのとき3年目で18歳だった。サトウは2年目で22歳、義理堅いひとなのだ。
「初めまして。これからお会いすることが多くなると思います。サトウにはヅキと呼ばれています。よろしくお願いします」
 俺がモカを渡すと、イケメンは自分から挨拶をした。挙げ句の果てに軽く口角をあげた、つまり笑った。本当のイケメンは決して格好をつけないのだ、自信があるからだ。俺の中に少しわだかまりを作っていた嫉妬とか警戒心とか偏見が解け、俺は素直に軽く腰を折って礼をした。顔をあげて、ありがとうございます、ミビヤが承りました、と言った。ただたったひとつの難点は、ヅキの声は、かすれて少し聞き取りづらい。煙草か酒が好きなのだろう。受け取り方によっては、色っぽい声とも言える。ほとんどの女子はそう受け取るのだろう。
「ほら、リシャ、拗ねてないで」
「拗ねてないよ。なんで僕が拗ねるのさ」
 俺はイケメンのほうを意識しすぎて、もうひとりの客に気付けていなかった。その客は、俺の前まで来て、目を伏せるだけの礼をする。サトウよりも背が低い、というか、まだ中学生もいいところなのではなかろうか、下手をしたら小学生かもしれない。
「初めまして、ミビヤさん。リシャといいます。よろしくお願いします」
 ありがとうございます、またお越しくださいませ、と俺は言った。イケメンが満足そうに、リシャと名乗った少年の頭をくしゃくしゃと撫でる。イケメンはまるで自分の子供にいつもそうしているかのようにその動作に慣れきっていた。
 よく見ると、少年も身なりに気を遣っている。髪は生得的な色だろうけれど艶があるし、カットも自然で品がある。ベージュの七分のボトムと黒いスニーカーにはセンスを感じられ、エンジのカットソーの上のダウンベストはスポーティで元気な印象を与えていた。
 その日はそのまま終わった。けれどその翌日、またヅキは深夜にリシャを連れて現れた。相変わらずヅキは目立つ。けれど、リシャは、なんとなく元気がなさそうだった。そういえば昨日も、リシャは元気そうな顔立ちをしているのに、どこか憂いがあった。ヅキは、拗ねている、という表現をした。その歳の少年がする表情ではないものを顔に浮かべる瞬間がある。
「いらっしゃいませ」
「いらっしゃいませー!」
 発注リストをいじっていたサトウが、飼い主を見つけた犬のように走ってくる。
「サトウ、腹減った、廃棄近いなんかこう肉、あと甘いの」
「かしこまりました! なんかこう肉あと甘いの!」
 ヅキが注文をしている間も、リシャは売り場を見もしない。
 俺は24時の廃棄を確認する。ドーナツ、チキン、ポテトです。読み上げると、リシャがヅキを見上げた。ヅキはリシャの肩に触れながら、レジの傍の売り場を見る。
「リシャ、ドーナツ?」
「うん」
「モカは?」
「あっそれも」
 レジとドーナツをサトウに任せて俺はモカを用意した。モカはこのコンビニの目玉商品らしく、凝ったつくりらしい。奥まったところに専用のマシンがあるため、真っ先に淹れに行く必要があるのだ。
「サトウ、モカってどうなの」
「すごく売れてますよ」
「ふうん。1杯追加で。飲んでみる」
「かしこまりました」
 ヅキとサトウのそんな会話が聞こえた。俺も、かしこまりましたと大きめの声を出した。2杯目を淹れている間に、1杯目を持っていく。ヅキがリシャの背を押すと、リシャは顔をあげて、にっこり笑った。ミビヤさん、ありがとうございます。そう言うと、モカに口をつける。
「あ、サトウ、シュガー1本」
「かしこまりました」
 俺が2杯目を持っていくと、ヅキは「ありがとう」と言いながらモカにスティックシュガーを一気に入れ、受け取りながら手早く混ぜて屈んだ。リシャがしゃがみこんでいたのだ。
「ほらリシャ、甘いぞ」
「うん、甘い」
「もっと甘いから」
「うん」
 ヅキはリシャの飲み終わったカップとシュガー入りのモカを交換して、目を閉じているリシャの背を撫でた。リシャはひとくち飲むと、深く息を吸って、ゆっくり吐く。そして残りを飲み干し、立ち上がって笑う。
「ミビヤさん、ごちそうさまです」
「いえ……大丈夫ですか」
「ええ」
 サトウはドーナツとチキンを用意してのレジを打ち、ヅキはリシャの様子をずっと見ている。
「サトウ、悪い、もう1杯。モカ」
「かしこまりました」
 今度はサトウがモカを淹れに行く。俺がレジを打つ。
「ミビヤさん」
 ヅキが話しかけてきた。俺は整いすぎた目に見つめられてどきりとした。
「はい」
「リシャの服、どう思いますか」
「ふ、服ですか」
 ヅキは大真面目だった。今日のリシャは、オレンジのパーカーに、黒っぽいジーンズ、黒いスニーカーだった。なんの変哲もないファッションだ。
「突然恐縮ですが、率直なご意見、お願いできませんか」
「……なんの変哲もない、若々しいコーディネートだと思います」
「悪くは、ない?」
「はい、それはもちろん」
「よかった」
 ヅキは、心底安心した、といった風に息を吐いた。
「ヅキ様?」
 リシャがきょとんとヅキを見上げる。
「普通の服、着せてやりたいんだよ、リシャに」
「このパーカー選んだの僕じゃん」
「いや、子ども扱いしてるわけじゃなく。街中見てみろ、変なファッションだらけだろ」
「ヅキ様も大概に変なほうだよ」
「変なほうだから、普通に憧れてるんだよ」
「人間みんなどこかしら変なものだよ」
 サトウがモカを用意して持ってくる。
「ああ、サトウ、ありがとう」
「いいえ。あと、こちらドーナツとチキンです」
「リシャ、モカ持って」
「え? ヅキ様飲まないの」
「じゃあひとくちもらうだけでいい。モカ飲んだら今日は帰れ」
「……うん」
 リシャはモカをヅキから受け取り、視線を下に向けた。
「ご来店ありがとうございます。またお越しくださいませ」
 俺は何か言わないといけない気分になって、そう口を動かした。リシャの視線が、俺のほうへ持ち上がる。そして笑って、また来ます、と言った。ヅキの横について店を出て行ったリシャのパーカーの背中には、天使のような白い羽が小さくプリントされていた。
 かわいい。そう思った瞬間、俺は猛烈な吐き気に襲われて、レジに両手をついた。
「先輩」
 2年来の付き合いになるサトウは、落ち着いて対処してくれる。俺のポケットからコーヒー飴を取り出してくれる。俺はそれを受け取って噛み砕き、苦みが巡るのを待つ。
 ふっと楽になり、サトウに礼を言って身体を起こした。
 ヅキもリシャも、もう見えなくなっていた。



 リシャはコピーを終えて、ふうと息を吐いた。お釣りのボタンを押すと、10円がカランと吐き出される。10円と、コピーされた大量の紙とコピー元のテキストを持ってコピー機を離れていく。
 まだ21時だ。しかしながら、初めて逢ったときからはもう6年経っている。6年もこのコンビニで、俺はリシャを見てきた。夏が来るたびに新しいフラッペを勧めたし冬が来るたびにモカや蜂蜜レモンを紹介した。あれからリシャは2度の進学を経て、髪が茶色くなり、背も伸びて、こうやってひとりで来店するようにもなったし、女の子の会計をしてやることすらあった。それなのに、俺はまだ、リシャのせいで起こるこの体調不良の原因を伝えられていない。伝えようと思ったことは沢山あった。けれど、口から出てくる言葉は、こんなことばかりだ。
「リシャさん、紙を入れる袋、ご用意しましょうか」
「ああ、ミビヤさん、ありがとうございます、お願いします。帰りはヅキ様のバイクなので助かります」
 伝えないうちは大丈夫だ。リシャは夜に来店する際、大抵ヅキと一緒にいる。あの強烈なイケメンを相手に戦う覚悟がない自分を自覚できていれば、リシャの幸せを願いながら、身を退ける。けれど伝えて、もし叶ってしまったら、きっとまた俺はコーヒー飴を舐めなければならなくなる。あの甘い気持ちが、俺を襲ってくる。
 昔からそうだった。俺は、甘いものを口にしたり甘い気持ちになると、どうやらショックが起きるらしいのだ。


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