おいしいものを食べたいね

第四章 チョコレート



 翌週の土曜、リシャが来店した。
「ミビヤさん!」
 嬉しそうに寄ってきてくれる。先日のブログの件もあり、幸か不幸か甘い気分にはなれなかった。
「モカですか?」
「ええ、それと」
 リシャは少し首を傾げて言った。
「今日、シフト何時までですか」
 一緒に来たヅキはサトウと話し込み始めた。帰そうにも帰る場所のない中坊には将来をどう励ましたって通じないんだよ、ただ話聞いて、一線をこえないようにだけしてやるしかねえんだよ。そんな声が聞こえてくる。サトウはメモを取りながら聞いているようだ。
「1時までです」
「わかりました。その頃にまた来てもいいですか? 少し話したいです」
 俺はどきりとした。出待ちが初めてであることもあったし、あのページを見てしまった後は期待をさせられると最早反射でリシャがどういう顔でどういうふうにそういうことをするのかを考えてしまう。
 現在は23時過ぎだ。リシャとヅキを見送り、長い長い2時間を過ごした。1時55分にリシャは現れ、ジューシーピーチのフラッペを買って、外にいますね、と言った。中に居てくれてもまったく構わないのだが、ずっと凝視してしまいそうなのでむしろありがたいような、でも凝視していたいような、バラバラの気持ちが渦巻いた。
 やっと1時になり、退勤の手続きをわたわたとなりながらも行い、外に出た。灰皿の近くにリシャがいた。風下ではヅキが煙草を吸っていた。近くの立派なバイクはヅキのものだ。
「リシャさん」
 呼んだ俺の声は掠れた。情けない。それでもリシャはフラッペを飲み干して、ゴミ箱に透明なカップを捨てて「ミビヤさん!」と俺を呼んでくれる。ヅキは煙草を灰皿で消して、歩いている中学生2人組のところへバイクを連れて歩いて行った。ヅキが手を振ると、ひとりは逃げようとしたが、もう片方はそれを止めた。馬鹿おまえヅキ様だよ逃げられねえし逃げる必要もねえんだよ、ヅキ様は俺たちの味方なんだよ。
「ミビヤさん、あの。ね」
 リシャがヅキを眺めながら言う。
「大学で」
 リシャの茶髪が信号の青をはじく。
「チョコレート、持って来いって。スって、来いって言われていて」
 俺はすんなりとその光景を想像できた。きっとリシャは、そういうことを言われても笑って受け答えをするのだろう。けれど、こうやって話す以上、ノーダメージでもないのだ。
「……いじめか何かですか」
「いえ、少しうまくいっていないだけで、そんな大層なものでもないと思うのですけれど」
 俺は反射に近い速度で返答した。俺、聴講しに行きます。
「……ごめんなさいね」
「え?」
「いえ」
 リシャがなにかはぐらかしたのがわかった。どう騙されたとしても構わない、俺は言葉をつぐ。
「月曜でいいですか?」
 リシャは笑った。
「はい、じゃあ、月曜の17時ころにハイソンさんに伺います」
 話は終わったようだったが、リシャは何かを考えていた。
「リシャさん?」
「……いえ、失礼しました、それでは、月曜に。講義はミビヤさんの夜のシフトまでには終わるので」
「はい、それでは、月曜に」
 礼をしたリシャは、中学生を説得し終わったヅキのもとへ歩いていく。ヅキはリシャの髪を整えてやった。美容師のように左右の対称を確認し、リシャの笑い声を引き出しながらも振り払われていた。
 日曜の勤務は、存外あっという間に過ぎた。いろいろな客が来たことは覚えているのだが、集中できていたのかもしれない。
 そして月曜が来た。16時40分にハイソンに着くと、既にリシャは居た。フローズンバナナのフラッペを飲んでいる。今日はひとりのようだった。
「あ、ミビヤさん!」
 とてもいい笑顔だった。俺は緊張してしまって、こんばんは、としか返せなかった。
「バスで、すぐなので」
 リシャはそう言って、先に歩き出す。バスに乗ると、本当にすぐに着いた。17時を少し過ぎたあたりだった。
 教室に入るが、別に思っていたほどの嫌な雰囲気ではなかった。リシャは俺に最後列の廊下よりの椅子を勧め、自分はその前に腰掛ける。
「リシャさ」
「リシャでいいよ、みぃくん」
 そんな、とミビヤが顔を赤らめると、リシャは楽しそうに笑った。鐘が鳴った。すると同時に、リシャの横に男が座る。
「キャンディおはよう!」
 怯むほどの大声だ。
「けぇくん、おはよう」
 返すリシャは、静かな声だった。
「んんん? なんか今日堂々としてんじゃん、とうとうお仕事で一線こえたの?」
「そういう仕事じゃないよ」
「でもキャンディほんとはそういうこと好きでしょ」
「好きじゃない」
「じゃあちゃんとチョコもらってきたんだよね?」
「もらってない」
「強気じゃんキャンディ、体調大丈夫? 苦しくなったら教えてよ? つわりかもしれないだろ?」
「おいおまえ!」
 俺は『けぇくん』に向かって怒鳴った。騒がしかった教室が静まる。
「はい休講ですー」
 事務員が黒板に大きく『休講』と書いて出て行った。教室がざわめきを取り戻した。
「みぃくん、帰ろ」
「ちょーっとちょっと、キャンディ、それはないんじゃないの?」
 けぇくんは、いびつな笑い方をして、「あ」と声を跳ねあげた。
「キャンディ、こいつとヤったんだ? みぃくん、っていうの? ふつつかものですがよろしくお願いいたしますう」
 リシャが、違うよ、と、少し細くなった声で言った。
「なぁにキャンディまで怖い顔しちゃって。こいつとヤるくらいなら俺とヤってくれたっていいじゃん」
「してないししたくない」
「俺はキャンディのこと好きなんだよ? そろそろ応えてよ」
「おまえ、けぇくんさあ」
 俺が横槍を入れると、雰囲気の重さに、けぇくんは固まった。
「好きとかどうとか、軽く言ってると、大変なことになるぞ」
 周囲の雑音がハウリングする。けぇくんが目を丸くして、すぐに口を歪めた。
「気分悪い。帰るわ」
 けぇくんは乱暴に荷物を持って、じゃあねキャンディ、と残して廊下へ出て行った。すると、女子がわらわらと寄ってくる。
「リシャくん!」
「リシャくん大丈夫? けぇくんサイテー」
「リシャくん息しよ? ほら、吐いてー、吸ってー」
「いや、大丈夫、大丈夫だから」
 そこに悪意は全く感じられなかった。女子たちがリシャを介抱する。
「リシャ、モテてんな」
「まあ」
 名前呼びにつられて思わず敬語がなくなったが、却って自然になったようで、女子の矛先がこちらに向く。
「お兄さん、学科どこ? リシャくんのお友達?」
 はっと気づくと、甘い香りのする視線が、リシャを通り越してこちらまで突き刺さってきていた。それに、香水の香りが混じって俺の息を乱す。
「みぃくん、みぃくん、息ゆっくり、コーヒー……」
「あらみぃくんって言うのぉ」
「モモちゃんごめん、ごめん、帰る、帰るから、みんな、またね、帰りまーす!」
 モモちゃんは「ごめんごめん、大変そうね、お大事に」と離れ、モーセの十戒のように女子が割れる。
 リシャに付き添われてなんとか教室の外に出る。廊下で、リシャは俺の服をぽんぽんと叩いて何かを探す。ポケットでその手は止まり、ごめんね、と一言添えて、手を入れた。コーヒー飴を探してくれていたのだ。封を切ってくれたので、手のひらにもらって、口に入れる。楽になり始めた呼吸を、意識して、ゆっくり大きくする。
「……みぃくん、帰ろう」
 そう言ってリシャが歩き始める。俺がついていくと、リシャは、あのね、と切り出した。
「チョコの話は本当に言われたことだったけれど、従う気なんてなくて。みぃくんと話したかったんだ」


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