おいしいものを食べたいね

第五章 アズキ



 俺は目を覚ました。何かバタンという音が聴こえたのだ。そして足音がひとつ近寄ってくる。橙色の部屋だった。
「あ、みぃくん、おはよう、大丈夫?」
 そうだ、リシャの部屋だ。俺は身体を起こす。リシャがコンビニ袋からコーヒー飴を取り出した。俺はそれを、大丈夫、と返して、ぼんやりする意識でリシャを見た。俺の寝ているベッドの横に膝をつき、心配してくれているようだ。それにしても、普段よく笑うのだろうなあという顔立ちをしている。昔の憂いが薄れてきているようだ。
「おはよう、リシャ」
「うん、おはよう。みぃくん、体調心配だから、よかったら、けぇくんと帰るといいよ。悪いひとじゃないんだ」
 けぇくん、あの下品で無礼な大学生か。そう思ったのが顔に出たらしく、リシャがフォローに入る。
「けぇくん、こんなメッセージ、くれていたんだ」
 リシャが携帯電話を見せてくる。ケエキという差出人だった。『俺は本気でキャンディが好きだ。いつもごめん。今日の男に謝っておいて。妬いてしまう俺のことを、できたら許して』だそうだ。
「……けぇくん、口だけうまいひとってわけでもないんだよ。僕が具合悪いときに、いちばん最初に気付くのはけぇくんなんだ。昨日は少し過激だったけれど、でも」
「好きなら、過激なことをしてもいいんでしょうか」
 言葉を遮られたリシャがびっくりした顔をする。俺もびっくりした。思ったよりもずっと鋭い声が出てしまったのだ。
「いえ、ごめんなさい」
 最初に謝ったのは俺だった。リシャも「いいえ」と俯いてしまう。
「じゃあ、俺のことも許してほしいです」
 俺はリシャが顔をあげるかどうかも待たずに言葉を続けた。
「リシャさんのことが好きです。ずっと前から好きでした。誰よりも大切にします」
 月並みな言葉しか出てこなかった。これ以上気の利いたことも言えそうになかった。そこで返事を待つことにした。
 けれど、返事も月並みだった。沈黙の後の、ごめんなさい。それだけだった。
「……ケエキさんですか」
「いいえ」
「ヅキ様?」
 リシャは困り過ぎて少し笑ったようだった。負け惜しみのように、俺は苦い気持ちになった。
「仕事に、行きますね」
 リシャが逃げるように言った。
「お仕事、何をなさっているんですか」
 リシャは立ち上がりかけていたのに、ベッドの俺の横にまた膝をついて座った。
「俺がお仕事の相手になりましょうか?」
「ミビヤさん……?」
 せっかく近づいた気持ちでいたのに、またリシャが遠くなってしまった。それでも俺の口は止まらなかった。
「動画、ネットで見つけたんです。あれ、リシャさんですよね」
 リシャは、動画、と呟いた。疑問符がついていた。そして更に俺に訊いた。
「動画、ですか」
「撮られたのを、知らなかった、とか?」
「それは、ええと、動画を撮られた覚えはなくて」
「一緒に見ましょうか」
 リシャが少し悩んだ様子を見せる。少し経って、はい、と言った。はい、見せてください。
 俺は今度は直に『De LICIA』と携帯に打ち込み、逆さの横持ちにした。リシャと向かい合うようにベッドの上に座り、逆さに、『リチア』を見る。
 リシャは表情なく、宣伝の写真を眺めた。一周したところで、俺に声をかける。この宣伝の動画でしたか。
「ええ、リンク先にも動画があって、それは消されていて」
「期間限定のが、デッドリンクになってしまったんですね」
 特に驚いた様子もなく言ったリシャに、俺は間抜けな声を出した。
「ミビヤさん、僕、ゴムの宣伝のモデルをやっているんです。この動画のリンクは、特にいやらしいものではなく、どのくらいひんやりするかとか、価格の期間限定の割引率とか、そういう15秒くらいのコマーシャルです。ねえみぃくん、僕は、汚いかな」
 リシャがベッドに乗り上げる。
「汚いとは、思わないけれど」
「甘すぎる?」
「今は、全然、でも、リシャ、リシャはヅキ様が」
「ヅキ様のことは置いておいて、僕はみぃくんとは合わない?」
 そんなはずがない。もともと俺のほうから持ちかけた告白だ。しかしながら、先程は断られたはずだ。
「みぃくん、もともと僕たちは合わないものだよ。誰でも同性でそういうことをするようにはなっていない。だから僕がモデルなんかをやっていけているんだ。珍しいから。それだけだよ。悪いことでもない」
 リシャの目がだんだんと潤んできて、頬が色を持つ。リシャが思い詰めているのがよくわかった。かける言葉は見つからなかった。フラッペを飲んでにこにこと笑っているリシャからは、想像もつかないリシャだった。
「試してみようか、みぃくん。僕のコマーシャル、気にしてくれてありがとうね」
 リシャが笑う。感情を伴わないセックスをするということだろうか。感情を伴わないのは嫌だった、でも、リシャと関係を持ちたかった。
「みぃくん、男のひととしたことはある?」
「いや……」
 情けない声だった。掠れて、優柔不断で、浅ましい。
「じゃあ、本番じゃないほうがいいよね。とりあえず、ゴムの感触だけ試すくらいの気持ちで、僕が相手をするよ」
 断れなかった。心の内側の天秤が、リシャの言葉によって、断れない方向へ傾いていく。
「緩めるだけにするね」
 リシャが有無を言わさずベッドに上がり、横になっている俺の膝のあたりにまたがる。俺のジーンズのボタンに手をかけたリシャに、ようやっと触れられた。こういうのはよくない、リシャ。言われたリシャは言い返してきた。よくないほうがいいんじゃないの、みぃくんは。全くもってその通りだった、俺は諦めてリシャと本能に屈することにした。
 リシャがにっこりと笑って、俺のジッパーを下げた。取り出されて、竿をするすると扱かれる。浅ましいくらいに俺は反応した。芯をもった辺りで、リシャはポケットから四角の袋を出し、破く。
「少しひんやりするよ」
 リシャがそう言うや否や、熱はぬるいような冷たいような微量のジェルがついたゴムに包まれた。
「みぃくん、舐めていい? 僕、このジェルの味、好きなんだよね」
 俺の返事は必要ないようだった。リシャの赤い舌が、橙色の部屋の中で光をわずかに反射していた。
「ん、おいしい」
 そんなことを言って、リシャは俺に舌を滑らせ、そのまま銜えこんだ。先程の冷たさが、一気に熱いほどの刺激になって俺を包み込む。
「ん……ふ、ぅん」
 リシャは目を閉じて興奮した様子だ。声を鼻から漏らしながら俺の脚の間で頭を上げ下げしている。俺は正直なところ、だいぶいい気分だった。リシャの頭に手を添えようとしたところで、しかしながら、異音がした。ブブブ、ブブブと、俺の携帯電話が鳴ったのだ。リシャが動きを止める。俺の本能の暴走も止まった。
「リシャ、少し」
「うん……」
 リシャが残念そうに、俺の上から身体をよける。魔法のゴムが虚しいほど律儀にくっついているのが不格好だったので、リシャに謝って外した。リシャが俺の携帯電話の入ったバッグをそのまま持ってきてくれる。発信者はサトウだった。すわ、と時計を見たが、まだ出勤の時刻には程遠い。
 メッセージを開いてみる。先輩、今日は休んでください、明日以降にまた連絡します。なんとも意味深長である。シフトの交換でもなさそうだ。却って気になって行きたくなる。
 そこでリシャの携帯電話も、トォンと音を鳴らす。リシャもメッセージを見て、言った。ヅキ様だよ、今日はひとりにならないようにって。
 そこからふたりで職場へ向かったのは自然なことだったのだろう。職場というわけにはいかない様子だった。サトウがこちらに気付いた。けれど今、彼は警察官と話をしている。少し離れた辺りには、野次馬が群がっていた。
 ボヤが出たんですって。野次馬たちからその言葉を拾った辺りで、ざわめきを掻き消す程の怒号が聞こえた。
「弱いモンで遊んでんじゃねえぞ」
 俺もリシャも野次馬も、バイクを降りるその長身を目に映した。ヅキだ。
「誰だ。誰だよ、相手になってやるよ、こんな簡単でダセえことかましたくらいで誰だって満足しねえだろうよ、次を起こす前に出てこいよ、誰だよ」
 叫んでいるわけではないのに、その独特のかすれ声は響いた。それと一緒に、笑い声も聞こえてきた。ヅキが睨みつけるその相手は、この前、リシャと一緒にこの店に来てサトウに追い返された男だった。そして、その後ろに、3人の男が続いた。
「相手になるって?」
 4人になると途端に自信を持つ男たちだ。
「好きなだけ殴れって言ってんだよ、火、用意するよりよっぽど簡単だろうがよ」
 男は、ヅキに近寄る。ヅキもバイクから離れて、男に近寄った。
「殴れよ」
 男がヅキの顔に拳を突き込んだ。ヅキはよろめいて、深呼吸をする。そしてまた男に繰り返した。殴れよ。
「ヅキさ……」
 細い、若い誰かの震えている声が遮られる。
「イチゴ、カミソリ仕舞えよ」
 イチゴと呼ばれたのは、高校生くらいの、眼鏡と痩せすぎた身体の少女だった。手にはカミソリが握られていた。
「そのカミソリは、イチゴ、おまえ以外の血を吸ったら嫌がるだろうが。おまえが生きていく最後のお守りだ。こんなとこで汚すんじゃねえ」
 少女は後ずさった。よく見るとその後ろには、中高生が集まって立っていた。
 ヅキがもういちど顔を殴られる。またよろめいたが再度立ち直して、ヅキは叫んだ。真っ直ぐに中高生のほうを向いて、言う。
「道、逸れるとどうなるか、よく見ておけよ、いくら学校行かなくてもいい、家に帰らなくてもいい、ただ、おまえたちは、ここまでくだらねえとこに歩いていくほどくだらねえ存在じゃねえ。理由はおまえたちなら、すぐに判る日が来る。明日の朝までにわかる。だからこんなとこで変な気を起こすんじゃねえぞ」
 そこまで言って、ヅキは地面に膝をつき、そのまま倒れ込んだ。沈黙が残る。男は沈黙を嘲笑い、ヅキに近寄った。
「煽っといてそれかよ、弱いモン護ってるつもりか? いちばん弱いのはお前だよなあ、はっははは」
 中高生たちは、そのヅキを目に焼き付けていた。蹴飛ばされ、踏まれるヅキを、真剣な目で見つめていた。ヅキの訴えは、既にひとり残らず理解していた。彼らはきっと、強弱におけるヅキの物差しを知っているのだ。最初に倒れる者の強かさを教わっていたのだ。
「そのくらいにしなさい」
「はあい」
 ようやっと警察官が止めに入った。男たちは嫌味ったらしい返事をして、楽しそうに立ち去った。ヅキに護られた現状も理解していなかった。彼らはヅキをいたぶることで溜飲を下げたため連続放火も行わないだろう、その未来の贖罪から引き戻されたことに、彼らは気付くだろうか。
 ヅキは意識があった。ただ、顔ばかり狙われたため、一応病院へ行くことになった。頭や首でもやっていたら大ごとだ。それに、話すことが億劫な様子だった。
 救急車にはサトウが付き添った。そしてそのサトウから、処置をしてくれる病院と、ヅキの本名の記されたメッセージが俺たちに届いた。
 アズキ。リシャの表情が、その名前を見た途端に青ざめていった。


Copyright(C)2017 Maga Sashita All rights reserved. designed by flower&clover
inserted by FC2 system