おいしいものを食べたいね

第六章 半調理品



 それから6日間、リシャは姿を見せない。リシャの家で開いたメールに書いてあった『アズキ』に関しても、ちょっとだけ待ってほしい、ひとりになってもいいかな、考えたい。そう言っていた。
 そこで本当にひとりにしたのは、本当に正解だったのだろうか。それきり、会えないのである。
 サトウの代わりに、ということで、仕事に入る時間も増えた。サトウがいい加減な仕事をするタイプではないことはクルー全員が判っていたので、フォローに入っている。
「何やってんだよ、みぃくん!」
 したがって、そんな電話がかかってきたときには、不安もひとしおのときだった。着信履歴を見ると、大量の、けぇくん、ケエキと言ったか、リシャのクラスメイトである彼の名前が並んでいた。
 仕事に入らない日だったので気付けたということは、すぐに向かえることができる、ということであった。
 ケエキはまくしたてた。
「みぃくん! キャンディに何したんだよ、6日も連絡つかねえし、みぃくんも通じねえし!」
 堰を切ったように、ケエキがまくしたて始める。もしかしたら、彼も同様に、6日間を不安なまま過ごしていたのかもしれない。大きすぎる不安はひとを行動的になどさせない、むしろ硬直させる。蛇の前の蛙の心境といったところだろうか。
「ごめん、リシャがどうしたって」
「わかんえねえんだよお!」
 叫びだった。ただならぬ気配に、俺は財布を持って靴を履いた。
 そこに、女の声が混じって聴こえる。ケエキ、泣いてる暇なんかないでしょ!
 ケエキは通話口を覆うこともせずに、怒号を返した。俺だって泣きたくなんかねえんだよ!
 女も怒鳴り返す。男が泣いてるのを見ていたい女だっていないの、私は何回出来レースの告白をすればいいの!
 ケエキは癇癪のように言う。おまえリシャの情報に集中しろよ!
 女はまるで一笑に付したような声で言う。ケエキ、あなたの大好きなリシャくんはここ5日、自宅に帰ってない、ずっと仕事かもしれない。
 女の声に、真逆の想いが込められていることに気付けない者は、いないのではないか。女は、ケエキの涙を、誰よりも重たく考える存在なのだろう。声から察するに、この前、リシャの大学で会った、モモちゃんという子だろうか。
 俺はとうに家を出て、待っていたバスが来たところだった。繋ぎっぱなしだった通話を切り、これから自分が向かう病院名をケエキにメールで伝えた。俺は学校見てるから行ってくれ。そのケエキの返信を読み終えると、もう目的の病院前だった。
 エントランスを通ると、日光を浴びるために首をギブスで固めた患者が背の高い男性と眼鏡の少女に車椅子を押されている。柔らかな雰囲気の病院だった。男性が誰かに会釈する。その先に居たのは、サトウだった。
「イチゴさん、代わるよ。お疲れ様。ヅキ様、おはよう。具合よさそうだね」
 イチゴというのは、確かあのカミソリ少女だろうか。隣の、背の高い男性と一緒に去っていった。
「ヅキ様、リシャくんが、1週間したらお友達に伝えてもいいかって……だめか、わかった、伏せておくね」
 俺が歩み寄る間に話は進んでいく。少し大きめの声で、店長、と呼んだ。エントランス中から4人ばかり振り返った、そのうちのひとりは間違いなくサトウであった。
「ああ」
 声を出したのは、目を丸くしているサトウではなく、車椅子の患者だった。その掠れ声を知っている。
「今は、アズキって、呼んでください」
 サトウが車椅子を押して、ヅキをこちらに向けた。
 不安げに見つめていたイチゴに、サトウが手を振る。イチゴは微動だにせず、こちらを睨んでいる。サトウは苦笑して、話を始めた。
「リシャくんなら、そろそろ出てきますよ。ヅキ様がこうなってから、ヅキ様の病室に居るか、カウンセリングルームに居るか、どっちかです。今はカウンセリング終わるところです」
 サトウの話も半分しか記憶できなかった。目の前の痩せた身体と長い手足は、確かにヅキだった、しかしながら、垂れ目を伏せる薄水色と白から成るストライプの病人服を着た柔らかい眼差しの病人は、ヅキだとは言えなかった、これもまた確かに、言うなれば、アズキなのだろう。
「リシャには、こんなざまを見せたくないんです。いつまでもあの子の味方で、善意に溢れて、最強みたいな存在でいないと。そのために酒とたばこで声を焼いて。体重も、20くらいは落として。リシャのいちばんは、ミビヤさん、あなたかもしれない。ただし、リシャのいちばんの理解者のうちのひとりに、ヅキというものを、存在させたい」
 アズキは、手癖のように、殴られた傷を指の甲で撫でた。
「ミビヤさん経由なら、私の話もお伝えいただいても構いません。判断をお任せします。なんとか、あの子を、救ってください。とても大切なんです、姉として」
 アズキの後ろで、痩せた青年がこちらを見ていることに気付いた。アズキの声は前に叫んだ時のような強い意志はなく、そのためひどく小声だった。彼には聞こえなかっただろう。
「リシャ……?」
 俺の唇だけが動き、声は出なかった。オレンジのパーカーを着た少年は、笑ってくれた。困った顔をしながら、みぃくん、と、唇が動く。たったそれだけで、リシャは入院病棟のほうへ行ってしまう。背中の羽根はついていなかった。別のパーカーを買ったのだろう。
「ミビヤさん、リシャが?」
「ええ……」
 アズキは冗談めかして、しかしながら重大なことを教えてくれた。リシャのほうから何かが変えてくれると思わないほうがいいですよ、あの子は、ずっとずっと、何かが変わるのを待ち続けているんです。
「私の、アズキの病室にいると思います。サトウと私は、少し陽に当たってきますので」
「わかりました」
 たまらず、俺は競歩で歩き出す。走ってナースに捕まったら、却って時間がかかってしまう。階段を上り、8階まで、何を思っていたかは全く分からなかった。ただ、リシャに会いたい、話をしたい。息が切れるのも気付かないまま、アズキの病室を探す。
 すぐに見つかった。リシャはアズキの病室の前に、ドアもあけずに斜め上を見て、立ち尽くしていた。
「リシャ」
「おかしいんだよ、みぃくん、この扉を開けないといけないのに、とてもとても、怖いんだ。中には、だあれもいないのに」
「俺が開けよう」
「だって、僕のお姉ちゃんの病室だよ、普通に入れないと、これから困ってしまうじゃない」
 歩み寄ると、リシャはようやっとこちらを向いた。
「家に入るときって、なんであんなに緊張するんだろうね」
「家に入る前は、大抵ひとりだからだと思う」
「ふうん」
「病室に、ご挨拶に行きたい、リシャ」
「誰もいないよ?」
「リシャ、これから、一緒に過ごしていかないか」
 リシャは困ったように笑った。
「僕、好きなひと、いるもの」
「俺にだって好きなひとがいる」
「ヅキ様?」
「リシャ」
「なに?」
「違う、俺が好きなのは、リシャだ」
 リシャが笑う。そして、よかった、と言った。
「僕が好きなのは、今までのみぃくんじゃ歯が立たないくらい、違うひとだった。僕が好きなのは、そういうことを言ってくれる、積極的なほうの、みぃくんだよ。遠慮がちなみぃくんは、最愛じゃなかった、ただそれだけだった。ごめん。ありがとう」
 理解にはとても時間がかかった。しかしながら理解してしまえば、こうやって抱き締めるくらいは許されるだろう。
 俺の腕の中におさまっていたリシャが言う。僕はずるいね。
「ずるくてもいい、今更のことだろう、リシャのことが、ずっと好きだった。今のリシャのことも、もちろん好きだ。一緒に、この扉を開けさせてほしい」
 家族に挨拶するようなものだよ、と、リシャが念を押してきた。不安げなリシャの声色に、コンビニエンスストアで培った、できるだけ明るい声で返事をすることにした。
「そのうち嫁いでもらう恋人のご家族に、ご挨拶くらいはしておかないと」
 キイ、と音がした。リシャが俺の腕の中から手を伸ばし、病室を開けたのだ。
「今すぐ、嫁ぐくらいの気持ちでいれば、むしろ楽なんだよ。あの家庭に戻りたくない。ねえみぃくん、今すぐ、嫁がせてよ」
「じゃあ、ご挨拶したら、帰ろう」
 リシャの身体をほんの少し離して、俺は病室にずけずけと音がしそうな勢いで入った。
「お初にお目にかかります! リシャさんに、できる限りの幸せを感じていただくため、わたくし、ミビヤに、どうかリシャさんの一生をお任せくださいませんでしょうか!」
「いいよ」
 誠意を述べ、勢いよく頭を下げたところで返事がきたものだから、びっくりしてしまって心臓が跳ね上がった。
「いいよ」
 繰り返すのはイチゴだった。よく考えたら6人部屋だ。
「がんばんなさーい」
 知らない妙齢の女性にまで手を振られて、俺が心臓をなだめるのに手間取っていると、リシャが嬉しそうに、後ろから俺に抱き着いてきた。これまたびっくりして、お辞儀をしたまま身体が飛び上がった。
 そのままリシャはドアを全開にして、俺の横に立ち、深く礼をした。俺と同じくらい明るい声で言った。
「今までお世話になりました!」
 女性たちが見守る中、俺たちは身体を起こす。偶然にも、全く同じタイミングだった。
「帰ろう、みぃくん」
「失礼します!」
 そこから病院を出るまでは、正直なところ、魂が一時的に離脱したように、記憶がない。記憶にあるのは、帰り道だ。
「僕は、偏食だから、こんなに変な恋をしたって、それこそ今更だよね」
 リシャと俺はスーパーマーケットに居た。俺がピザやチキンを選び、リシャが甘味を選んでいる。
「合わないものに合わせることはないし、合わせようと思ったら合うものみたいだ。ところでリシャ、何人?」
「ええと、お姉ちゃん、それに、けぇくんでしょ、モモちゃん、サトウさんとイチゴちゃん……」
 リシャが楽しそうに、挨拶代わりに贈る少し立派な菓子を選びながら数える。みかんのゼリーに手を伸ばし、すぐに引く。
「リシャ? 欲しいなら折角だし……」
「これはみぃくんのところのがいちばんおいしいんだよ」
「ただのコンビニなのに」
「お姉ちゃんが昔、そう言っていたものだから」
 成程、サトウとアズキは意外と昔から付き合いがあるのだろう。
「お姉ちゃん、恐らくきちんと治るって」
「そうか、よかった」
「サトウさんも喜んでたよ」
 俺も、自然と菓子売り場に歩いて行っていた。
 これまでいちばん甘かったのは、俺の心意気だった。それ以降、甘さでの発作は起こしていない。



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