モルモット式xxx(CASE.XENON)

憑依式ウェアウルフ




 夜中、物音がした。眠たい薄目を開けると、満月がカーテンから差し込んでいる。
 少し体を傾けると、セノンが見えた。食事をとったテーブルにつき、何かを書き記している。日記か何かだろうか。
 あまり邪魔してもよくないとは思ったのだが、セノンはあまりに尋常でない剣幕でペンを走らせている。ノートブックとペンが親の仇かというような、さながら丑の刻参りのようだ。
「セノンちゃん?」
 俺が声をかけると、セノンははっとした様子でこちらを見た。
「ナオくん、ごめん、起こしちゃった」
「や、大丈夫。セノンちゃんこそ大丈夫? すごい剣幕で書いてたけれど」
「ただカロリー日記をつけてただけだよ」
「カロリー日記?」
 セノンは少し恥じらうように肩をすくめた。
「昔からの日課で、食べたものは全部記録することにしているの」
「へえ、ちょっと興味あるなあ」
 俺は、よっこいしょと体を起こした。
「どういう日記なの?」
「たとえば、さっき食べた牛丼が、大体708キロカロリー、それに豚汁も飲んだから253キロカロリーくらい。主菜と副菜のバランスもそれほど悪くない。若干緑黄色野菜が足りないかな、でも豚汁にニンジンが入ってた」
「ふうん、すごいなあ、それで俺の料理はやっぱりデブ食なの?」
「そうでもないよ。それにナオくんは男のひとなんだからちゃんと食べなきゃ」
「でも」
「大丈夫!」
 セノンはけらけらと笑って、ナオくんはデブじゃないよ、と言ってくれる。
「すごいねえ、どこでそんなのを学んだの」
「素人の知識なんだけれどね。やらないよりはいいかと思って」
「えらいなあ。でも、夜はしっかり寝たほうがいいよ。日記見られるのは抵抗あると思うから、俺がそっぽを向く時間を、次から昼間に作ろう」
「そこまでしなくていいよ」
「いや、夜にわざわざ起きることでもないでしょう」
「うーん」
 セノンは渋々、そうだね、と言う。
「ほらほら、お肌にもよくないよ、眠ろう」
「なんだか眠くないの、満月だし」
「満月?」
「ほらわたし、こんななりだから」
 ただならぬ気配がした。俺は飛び起きる。セノンには、何かが憑いている。
「やっと気付いたのね。これからが心配だわ」
「オトちゃんか」
「そうね、わたしはオト。でも、今日は満月よ」
「どういうことかな」
「あなたは、わたしを何だと考えているの? オトって何? セノンって何? ナオって何? 眠って起きたら違うものになっていたりしない? するでしょう? 体は代謝をするし脳は記憶の整理をする、翌日には振舞い方も少し変わっている、そうやって段々とわたしは変わっていって、それでもわたしはオト、ならオトって何?」
 オトはまくしたて、息を継いだ。
「昔からの有名な哲学者たちがどんな答えを出したか知らないけれど、わたしはそんなものを聞きたいわけじゃないの。絶対に納得なんてしない。だってわたしはオトじゃないんだから。オトではない。でもオトなの。あなたならわかるかもしれないわね、ねえ、憑いているものが前とおんなじかなんてわからないでしょう。それでもあなたは、わたしをオトと呼んだ。それでも、ねえ、わたしは前と同じオトなのかしら。違うわよね? でもわたしは自分が何者かと訊かれたら、オトって言うしかないの」
「そうだね、明日には月が欠けている」
 オトは鳩が豆鉄砲を食ったような顔をした。
「だから、満月じゃなくなるよ」
 驚いていたオトの表情が、段々と定まっていく。死刑台にのぼる無実の人間のようだった。
「……そうね」
「そもそも、天体がめぐっている限り、完全な満月の時間は限られている。一瞬だ。俺も詳しくはないけれど、今だって完全な満月ではない。だんだんと欠けていく、およびだんだんと満ちていく。満月の定義って何だ? それはきっと、きみが何者なのかっていう質問に当たらずとも遠からぬことなんだろうね」
「……」
 オトは熱心な大学院生のように俺を見て、俺の話の続きを待った。
「もしもきみが満月のときに出てくるものなら、今はもう違うってことだよ。きみは眠って起きる以上の早いスパンで、きみではなくなっていく」
「……そうなのね」
 オトの目が一瞬ぎらつく。
「ねえ、もうわたしがわたしじゃないなら、わたしはここに居たくない。追い出してよ。なんでまだわたしを、満月に住むわたしを、セノンは宿し続けているの?」
「セノンちゃんの中では、きっとまだきみが必要なんだよ。だから、セノンちゃんの定規では、きっとまだ満月なんだよ。求められる自分は、本来の自分とはかけ離れているものだろう」
「……なるほどね」
 俺が話している間に、目に見えてオトは憔悴していった。
「とても疲れたわ。眠ります」
「どうぞ」
「おやすみ、口車のセラピスト」
 何か言い返す間もなく、オトは布団に入り、寝息を立て始めてしまう。
 困った。
 机の上の日記を片付けてから眠ってほしかった。俺は仕方なしに机まで歩み寄る。なるべく中を見ないように見ないように、とは思っていたが、嫌でも目に入ってしまった。
 最初こそカロリー日記だったようだ。しかしながら、何十と書かれた『961キロカロリー』という文字で、ノートのほとんど1ページが埋め尽くされていた。
 俺はそっとノートを閉じ、すっきりしない思いできりきりと肺のあたりが痛む感覚の中、明日に備えて眠ることにした。
 翌朝が早かったのもセノンだった。俺が起きると、横でストレッチをしていた。
「おはよう、ナオくん」
「うん、おはよう」
 机の上の日記はなくなっていた。セノンが仕舞ったのだろう。
 とりあえずは朝食だ。昨日は有無を言わさず高カロリーな食事にしてしまったので、セノンに伺いを立ててみる。
「セノンちゃん、何か食べたいものはある?」
「えっ、わたし?」
「放っておくと俺はパスタときな粉餅とチーズブレッドとパエリアを食べるよ」
「糖分過多だよ」
「各国ブドウ糖博覧会だよ」
「どれかでいいよね」
 げらげらとふたりで笑った。
「ああ、杏仁豆腐がちょっとあるよ」
「ちょっと、また甘いものじゃない。わたし、お魚かお肉がいいな」
 何かあったかなと冷蔵庫を開ける。
「ナオくん、お買い物に行く?」
「うーん、そうしようか。一緒に来ない? 食べたいものを教えてよ」
「行っていいの?」
「もちろん」
 セノンはぱっと花が咲いたように笑った。
「行く! まずお風呂借りていい? わたし、お風呂は朝なの」
「いいよ、終わったら俺も入るから、その間に準備したらいいんじゃないかな」
「いい考え」
 風呂場のロックを外してやり、湯船にお湯を張っていく。セノンはその間に着替えを用意していた。
「ごゆっくりー」
「ありがとう」
 セノンはカラスの行水だった。あっという間にあがってくる。そして着替えはおろか、化粧まで済ませている。
「ありがとう、ナオくん」
「いえいえ、じゃあ俺も入ってくるね」
「ごゆっくりー」
 俺の真似っこをするセノンを微笑ましく思いながら、俺も湯に浸かった。
 セノンの服は、薄いブルーのスキニージーンズに、ぴったりとしたハイネックの白いセーターだった。アミ先輩が言う通り、確かにいい体だった。けれど、その考えは追い出した。アミ先輩だって、セラピーにセックスを介入させるのは、セラピーがへたくそだと言っていたし、俺もセノンにそういう治療はしたくなかった。
 対して、俺の服は、年中着古しているラージサイズのジーンズに、白地に小さな青のドットが均等に並ぶ、襟のあるシャツ、上に紺色のゆったりしたセーターだ。
 体を洗い服を着て、軽く湯船を洗って水を抜いた。セノンの待つ居間に戻る。
 セノンは上に紺のピーコートを着ていた。早く外に出たくてたまらない様子に見えた。
 この閉鎖的な施設では、もしかすると患者が自主的に外に出たくなるようになっているのかもしれない。
「お待たせしました」
「大丈夫、お帰りナオくん」
「ただいま、靴、履いてていいよ、すぐ行く」
「うん」
 セノンが玄関に向かう。俺は黒い短いコートを着た。
 靴を履いて外に出る。
「いいお天気だね、ナオくん」
「そうだね」
「ちょっと走りたいなあ。運動したい」
「じゃあごはん食べたら、一緒に走る?」
「ナオくん、走れるの?」
「よく動くデブで有名だよ」
「ごめんて」
 スーパーマーケットまで歩きながら、げらげらと笑う。
「セノンちゃん、何食べたい?」
「うんとね」
 セノンはスーパーマーケットを2周ほどして、焼き鮭ときんぴらごぼうをチョイスした。
「セノンちゃんは朝は和食派なの?」
「割となんでもいいけれど、鮭、安かったし、ゴボウもニンジンもたまに食べるとおいしいよ」
 家に戻り、食事をとった。
 俺よりも健康志向の彼女は、なぜか俺より不健康だと見なされるのだ。
「少し休んだら走りに行こうよ、ナオくん」
「いいよ、俺も持久走には自信があるよ」
「一緒に走れるひとって今までいなかったんだ。楽しみだな」



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